第四話 力と暴走
また、夢を見ているのだろうか。重たくて体が動かないのに、飛んでいるような感覚がする。それなのに、何故か心地良い。いつも優しく頬をなでてくれる風が、今も吹いているからだろうか。近くに感じるのは風だけでなく、穏やかに刻まれている、自分のものではない、鼓動で―――――
―――……鼓動…?
勢いよく目を開くと、其処は現実だった。遠くからは太陽が昇り始めている。眼下に広く続く森の木々が見えたことで、かなり高い位置で空を飛んでいるのが、アリアにはわかった。もちろん、自分の力で飛んでいるわけではない。先程から感じていた鼓動の主は、アリアを抱いて飛ぶ男性のものだった。アリアは、この男性を知らなかった。もし、これがムオンだったなら、違和感がなくても納得できた。しかし、知らない男性に抱えられているとあれば、不審に思うのも無理はない。ところが、アリアは何故か、不安にも不審にも思わなかった。この男性に抱えられているという現実を目の当たりにしても、動じることはなかった。そのことが、アリア自身を驚かせた。思い返しても、記憶はアンファングが襲撃を受けたところまでで止まっている。現状がまったく掴めない。
アリアはまず、なんとかして不信感を手繰り寄せようと男性を観察し始めた。そうしてじっくり見てみると、男性は端整な顔立ちをしている。装いも小綺麗で、深い紺色のマントの下からは、繊細な刺繍の装飾が覗いていた。空を飛んでさえいなければ、何処かの裕福な名家出身かと思ったことだろう。健康的な白い肌に、肩よりも長く伸びた髪が揺れる。眼鏡の奥の切れ長の瞳は、真っ直ぐ前を見据えていた。何よりアリアが気になったのは、結わずにそのままにしてある長髪と、眼鏡越しに光る瞳が、アリアと同じ金色であることだった。今まで自分と同じ髪と瞳の色とは、出会ったことがなかった。そう思い返して、村を襲った女の髪も金色だったことに漸く気付いた。彼もシャコンヌと名乗った女の仲間なのかもしれない。やはりこれは、ただ事ではないようだ。
アリアが漸く不信感を手にしたところで、熱い視線に気づいたのか、男性はアリアを一瞥した。
「お目覚めですか」
男性の声を聞いて、アリアはその声に何故か心が安らぐのを感じた。それでも慎重さは棄てず、アリアは男性に意を決して訊ねた。
「あの……状況が飲み込めないんですけど…」
「そう、ですね………無理もありません。しかし、今はゆっくり説明している時間がありません。私はレチタティーヴォ・フォーブルドンと申します。ムオン様に指示されて、アリア様を運んでおります」
ムオン、という言葉を聞いて、安心が勝った。この男性…レチタティーヴォは、少なくともシャコンヌという女の仲間ではないようだ。しかしムオンのことを敬うような話しぶりである。ムオンは実は高貴な身分なのかもしれないと、アリアは心へ留めておいた。そして早速、次の質問へ移った。
「何処へ運ぶかくらい、教えてもらえませんか」
「説明している時間はないと申し上げたはず」
そう言い捨てられ、アリアはムッと口をつぐんだ。何処へ連れていられるか分からないのに、説明もしてもらえないようだ。消えかかっていた不信感が再び顔を出した時、レチタティーヴォが口を開いた。
「あれが、見えますか」
レチタティーヴォの視線を辿ったアリアは、驚きのあまり恐怖さえ感じ、思わずレチタティーヴォにしがみついた。
其処に見えたのは、半球体を形作る水だった。絶えず流れる水が、卵を半分に切って地面に置いたように森を覆い、その天辺の一部が眼下に広がる森の木々から頭を出している。驚くべきは、水の流れる動きだ。まるで地面から湧き出るかのように水が吹き出し、それが木々より高く立ち上って、天辺で集合することで球体を作っていたのだ。そのため球体は、地面から天辺まで隙間なく、水が空に向かって流れ続けていた。しかしよく見ると、天辺だけは、水が集まるからか、流れに合わせて時々隙間が開いたり、飛沫が上がったりしていた。その隙間から、アリアは見たことのある顔を見つけた。
「あれ………ムオン…さん!?」
途切れ途切れにしか確認できないが、確かにムオンだった。どうやら、ムオンの他にも人がいるようだが、流水のせいで確認できない。もう少し見ていようと、アリアが身体を捩った瞬間、レチタティーヴォは急降下したので、アリアは再び彼にしがみつくしかなかった。
レチタティーヴォは、アリアを水の半球体の傍に降ろした。近くで見るとその半球体は非常に大きく、アリアの目の前には壁のように聳えていた。壁は、水が絶えず流れているためか半透明で、その向こう側はぼんやりとしか見えない。白と橙と銀の光が、チラチラと舞っているようにしか、中の様子は確認できなかった。
「此処に…中に、ムオンさんが?」
息を呑んで三色の光のちらつきを見守るアリアは、レチタティーヴォに訊ねた。
「はい。タイヨウ様とルスイ様も、この中です」
今度は、レチタティーヴォが素直に答えてくれた。しかし、更に聞き慣れない名前を口にした。アリアが不思議そうにしていると、レチタティーヴォは小さな溜め息を吐いて、話し始めた。
「ムオン様がお目覚めになられた時、それを感じ取って、タイヨウ様とルスイ様がお目覚めになられました。しかし、タイヨウ様はその力を制御仕切れず、力を暴走させてしまったのです。それをルスイ様が抑えようとしていたのですが、おひとりの御力では足りず、ムオン様に助けを求められたのです」
「えっと、タイヨウとかルスイとかって人は、ムオンさんと同じような、力を持っている人……?」
「今は、そう捉えていただいて構いません」
饒舌に、親身に話すレチタティーヴォに、アリアはひとり、胸をなで下ろしていた。彼はどうやら人に冷たいのではなく、目的を完遂するために、きちんと優先すべきことが分かっているだけだと判ったからだ。だが、不安がひとつ取り除かれただけでは、完全に安心しきる訳にはいかない。アリアはまだ、不信感を手放さないように努めた。
そうなると、詳しく聞きたい話ばかりだ。分からないことが多すぎる。しかし、ここはレチタティーヴォを見習って、アリアは今自分が優先すべきこと、求められていることを明確にすべきだと悟った。
「それで、つまり………僕は、どうして此処に?」
このアリアの選択は、レチタティーヴォを満足させたようだった。彼は少し口の端を上げて、笑みを浮かべた。
「アリア様には、その御力で、ムオン様に加勢していただきたいのです」
「僕の、力?」
どの力のことを言っているのかと、アリアは一瞬戸惑った。しかし、本当はわかっていた。先程まで空を飛んでいたレチタティーヴォが、わざわざアリアの力を必要とするということは、アンジュとしての力ではないはずである。アリアの持つアンジュの力など、レチタティーヴォの空を飛ぶ能力から見れば、子供だましのようなものだ。
「本気ですか?リスクが高いのに…」
アリアは正直、躊躇っていた。あの時、歌を口ずさんだから、シャコンヌという女とその手下が、アリアの居場所を掴んだのかもしれない。とすれば、アンファングのように、此処にいる皆が、奴らの標的になるかもしれないのだ。簡単に歌うわけにはいかないだろう。ところがレチタティーヴォは、何の戸惑いも感じさせなかった。
「リスクが高いのは当然です。何かを成し遂げるためには、相応のリスクがつきものですから」
そうあっさりと言ってのけたレチタティーヴォに、アリアは少し呆れながら、しかし何処か吹っ切れたように、ニヤリと口の端を歪めた。
「………言ったな。悪いけど、あなたにもそのリスクを背負ってもらう」
「ふっ、そう来なくては」
レチタティーヴォが、不敵な笑みを浮かべた。アリアは水の壁に向き直り、呼吸のように瞬く三色の光を目で追った。そして、特にそのうちのひとつ、白い光に意識を集中させた。恐らく、それがムオンだと、アリアは感じていた。
(…ワルツが言っていた……力を使うには歌が必要になる、と)
何の歌を歌えばいいのか、アリアは迷った。しかしその迷いは、すぐに払拭された。ムオンに意識を集中させた瞬間、自然と音が浮かんできたのだ。言葉はない、そのメロディーが、アリアの脳内を駆け巡る。それが今、歌うべきメロディーなのか。アリアは、頭に響くままを、口に出した。
水の壁に囲まれた中で、ムオンは自分に迫り来る焔の攻撃を、やっとの思いで避けていた。目の前で、自分を狙うのはタイヨウ。彼は、誰もが一目見れば分かるほど、正気を失っていた。身体から橙色の光を放ち、特に両腕の肘から先は、哮る焔そのものを纏っていた。両腕の焔は肘の辺りから吹き出し、タイヨウの拳まで螺旋状に燃え上がっている。その拳で殴りかかって来るので、毎回ムオンはギリギリのところでかわしていた。このままでは、防戦一方で、タイヨウを止めることはできない。しかし、まだムオンは完全な力を手にしていなかった。力が覚醒したばかりで、非常に不安定である。ムオンまで、タイヨウのように力を暴走させる訳にはいかない。考えあぐねているうちにも、タイヨウは容赦なく襲いかかってきた。
「ムオン……っ!」
透き通る男性の声でムオンは我に返り、間一髪で焔を避けた。
「すまない、ルスイ」
「謝罪よりすべきことがあるだろう」
互いに攻撃を避けながらムオンが話す相手は、銀髪の男性だった。ルスイと呼ばれた男は、タイヨウと同じように、両肘から指先までを、その力で覆っていた。しかし彼の腕を覆っていたのは、タイヨウとは対照的に、焔ではなく水だった。とめどなく流れる水が、ルスイの腕を纏っていた。そして森の木々を焼く焔を、その水で消して回っていた。しかしタイヨウに直接攻撃されると、水はジュッと音を立てて蒸発してしまった。そのため、ルスイは逃げ回った。ルスイの放つ水は、延焼を防ぐ程度にしか役に立たなかったのだ。
ルスイが広範囲に水をまき、地面の火を消したその時、ムオンがバランスを崩し、着地に失敗した。その隙をタイヨウは逃さず、拳を思い切り振り上げた。ムオンは身体を捩るが、僅かに遅い。生き物のようにうねる焔が、ムオンを捉える一瞬、タイヨウは頬に、ルスイの拳を受けた。ルスイは咄嗟に、タイヨウを思い切り殴り飛ばしたのだ。殴ることに慣れていないようで、殴ったルスイも痛みに悶えた。少し先に飛ばされたタイヨウは、突然の衝撃に少し動揺したようだった。なんとか上半身を起こして、頬をさすっている。
「ムオン、このままでは……」
ルスイが、悲痛な声を上げた。体勢を整えたムオンがルスイを一瞥すると、ルスイはまだ拳を撫でている。タイヨウを殴った拳は、酷い火傷を負っていた。
(水壁で防げるのも、時間の問題か…)
ムオンは密かに腹をくくった。自分の力の暴走というリスクはあるが、他に方法はない。更なる力を解放し、対抗する。今の自分が扱える以上の力を扱うことになるが、致し方ない―――
そうして、ムオンが力を解放しようとした、その瞬間だった。ムオンの耳に、歌が届いた。それはまだ荒削りだが、確かに力を感じる。アリアか、と、ムオンは呟いた。歌詞はない、しかし伝わる。歌はムオンの力と絡み合い、共鳴した。微かだが、ムオンは力が安定し始めたことに気づいた。ルスイの水での攻撃をかわしたタイヨウが、此方へ向かって走っている。だが、ムオンはもう避けなかった。歌に身を任せ、ムオンは力を放った。大きく振り上げられたタイヨウの拳を、いとも簡単にムオンは片手で受け止めた。タイヨウの拳を覆っていた焔が、音もなく消える。それに怯んだタイヨウの腹を、ムオンは容赦なく、思い切り蹴り上げた。
「うぐ………ぅっ」
呻きながら、タイヨウは意識を手放し、その場に崩れ落ちた。彼の纏っていた焔は消え、全身から放たれていた橙色の輝きも、今はもうなかった。
「ルスイ、壁を消せ。アリアの元へ戻るぞ」
ぶっきらぼうなムオンの言葉に、ルスイは驚きを隠さなかった。
「今の力……あの歌は…それに、アリアって、まさか」
「ついてくれば分かる。タイヨウも引きずってこい」
それ以上聞いても、ムオンが答えないことは、ルスイにはわかっていた。仕方なく、もう随分先を歩くムオンを、重たいタイヨウを担ぎ、ルスイは後を追った。
アリアの発する音は、レチタティーヴォをも驚かせていた。力強く、それでいて柔らかく、しかし芯の通った歌声は、彼を魅了するのに時間を要しなかった。ムオンを思い必死で歌い続けるアリアに、懐郷の念や、穏やかさ、それに切なさや愛しさまで、これまでに感じたことのないほどの感情を、その胸の内に感じていた。その感情に戸惑いながらも、アリアを見守ることは忘れていなかった。それはまるで、彼が課せられた任務を遂行しているかのようだった。
突然、目の前の水壁を造っていた水が勢いを緩め、そして消えた。それと同時にアリアは歌うのを止めた。水壁の向こうは、少し焦げた匂いと、靄のように白い煙が立ちこめている。水壁が無くなったことで、それが此方へ少しずつ漏れ出していた。レチタティーヴォは咄嗟に腕で口を覆い、煙の向こう側へ目を細めた。同じようにして、アリアも目を細めている。すると、煙の中から人影が見えた。
「まさか………」
レチタティーヴォの口から、驚嘆の声が漏れる。アリアは、その人影がムオン達であると、暫くは気づかなかった。近づく人影が二人であり、そのうち一人が何かを引きずっていることがわかって、漸く、手ぶらな人影がムオンであると気づいた。
「ムオンさん!無事だっ………」
「当然だ。それより、レチタティーヴォ」
心配そうに駆け寄るアリアには目もくれず、ムオンはレチタティーヴォに向かって行った。その顔は無表情だが、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「貴様、何のつもりだ」
「何のことでしょう?心当たりが多すぎて、分かりかねます」
語気が明らかに怒っているムオンに対し、レチタティーヴォは困ったように、しかし何処かふざけた様子で答えていた。一方、ぽかん、と口を開けたままのアリアに、もうひとつの人影が近寄った。
「君がアリアか。その………何と言うか…」
「あの、あなたは?」
「あぁ…すまない、俺はルスイという。こっちで伸びてるのはタイヨウだ」
ルスイは引きずってきたタイヨウを顎で示しながら、苦笑いした。どうやら、この二人が先程レチタティーヴォの話に出てきた“タイヨウ様とルスイ様”らしい。
怒りを露わにしたムオンは、何を言っても無駄だと悟ったのか、踵を返してアリアの方へ向かってきた。後ろからは、ため息をつきながら眼鏡を上げるレチタティーヴォが付いて来る。
「アリア、行くぞ」
「行くって、ど、何処に?」
突拍子のない言葉に、アリアはまた、ぽかん、と口を開けた。それを見て、ルスイは堪えられずに吹き出した。
「むっ………っ、ムオン、アリアには何も説明していないのか?」
「………そう、だな」
言われてみれば、とでも言わんばかりの顔で、ムオンは考え込んでいた。どこから話そうか、迷っているようだ。
「レチタティーヴォは、何処まで説明してくれたんだ?」
ルスイがレチタティーヴォに向き直ると、彼は完璧な作り笑顔でルスイを迎えていた。
「それは私の仕事ではないようですね」
レチタティーヴォの答えに、ルスイはうんざりした。この調子が続くと思うと、ぞっとする。事態が飲み込めていないアリアに、ルスイは残念そうに語りかけた。
「細かいことは、少し落ち着いたところで話そうか。何にせよ、俺たちは、暫く一緒にいることになるんだから」




