2.人間―4
玄関を出てすぐに、橘は既に平屋の前を通り過ぎていた男の背中に声をかけた。自身でも声が暗く落ちている事は理解していた。不安の現れが顕著だった。
橘の声に反応して男の足が止まり、そして、ゆっくりと、振り返った。
そこに見えたのは、場違いで、不気味な、笑み。まるで、獲物を見つけた悪魔のような、そんな、狂気染みた笑みだった。
戦慄したのは言うまでもない。右手に握られる刀のような武器を一瞥して、再度その表情を見ると、確信に至った。
この男は、危険だ、と。
判断を迷った。本能が悲鳴を上げる程に、その男からは安全が確認できない。だが、やっと、人を見つけたのだ。判断は、迷わないはずがない。
(どうする……)
だが、背後の平屋には里中がいる。そして、既に、自ら声を掛けてその危険な男に存在を示してしまった。今更、後に退くわけには、いかなかった。ここで判断ミスを犯してしまえば、里中の命まで危険に晒されてしまう可能性がある。
退くわけには、いかない。ならば、進むだけである。
「貴方は? 何してるの?」
橘の口からまず出た言葉は、それだった。言って、緊張の生唾を飲み込んだ。喉が大きく鳴った気がした。
問われた男は不気味な動作で空いた左手を動かし、傷によって潰されている未だ血まみれの右目を指して、言う。
「俺ぁ、この傷を俺に追わせたくそったれを探してんだ。つーかよぉ、お前一人かぁ?」
言葉を聴いて、なお確信する。
当然だ。まず、人に出会えたのだ。こんな状況で、この無人島で。なのに、橘を見た男は、まるでそんな事はどうでも良い、と言わんばかりに彼女の存在自体には興味を示さず、自身のペースでの言葉のみを吐き出す。
不気味で、その不気味さ橘の不安を煽った。まだ昼過ぎだと言うのに、夜を生きているかのような不安が生まれていた。
威圧感が違った。正対し、言葉を一言ずつ交わしただけだというのに、その存在感の大きさを知った。同じ人間とは、思えなかった。
そこから更に、橘は慎重になる。里中の存在は、当然隠さねばならないと思った。
「私一人だ。そっちは、一人? 仲間でもいないの?」
橘の声が僅かに震えていたが、男には、伝わっていないようだった。少なくとも、まだ。そこまで大きく震えてはいない。
橘の問いに男は軽く首を横に振った。その動きさえも奇妙だと思えた。
「いねぇよ。そもそも、仲間を作れなんて指示は出されてねぇだろ?」
「指示……?」
男の言葉に理解が追いつかず、橘が眉を潜めると、男は言う。
「メモ、あっただろ。なんか変な事書いてあったやつ。それが全てだ。つーか、お前あのくそったれ知らねぇなら用ねぇから」
そうとだけ言って、男はすぐに振り返り、再度、歩き出した。そのまま橘から見えなくなるまで、少なくとも、橘が視線で追える範囲内では、男は振り返りもしなかった。ただ、刀の鋒を地面に引きずって、不気味に、歩いていくだけだった。
安堵したのは言うまでもない。
思わず溜息が出た。気づかぬ内に握り締めていた両の拳の力を抜くと、手汗を異常な程にかいている事に気づき、そこを抜ける風が彼女の手を冷やした。
ただ、思った。
(あの男……危険なのは間違いないだろうけど、……宇宙人、ではないのかな)
問題は、まだ多い。その中でも特に顕著に出てしまうのが、橘と里中の二人は未だ、『敵』と遭遇していない、という事である。敵が宇宙人である、という他の誰もが未だ持っていない情報こそ持っているが、敵が人間の格好をする事も知らなければ、緑の蛍光色の血液を身体に流している事も知らない。そして当然、見分け方も知らない。
「姫衣ー! 出てきていいよー」
声は意図的に抑えつつ、平屋の奥にいた里中を橘は呼んだ。
が、同時に、足音。平屋の中から里中が声に反応して急いで玄関口に向かってくる木を叩く足音と、すぐ背後から聞こえる、足音。
戦慄した。
足音に反応して橘が振り返るまでの間に思考は巡った。先のあの男には、自分一人だと言ってしまった。が、説明をすればわかってもらえると考えた。そもそもその前に、里中を平屋の奥へと再度隠す事が重要ではないかとも考えた。
だが、違う。そうではない。
橘が振り返って見たのは、こちらへとゆっくりと近づいてくる一人の女の影だった。若い女だった。橘よりも若いのは見て分かった。高校生だと言われても信じれる程の容姿と低身長で、なんとも可愛らしい顔をしている、女だった。
だが、その可愛らしい顔には、先に出会った男とはまた違う、不気味で、場違いな笑みが浮かんでいたのだから、橘は戦慄した。一度引いたはずの冷や汗も再度どっとにじみ出てきた。一瞬呼吸を忘れてしまう程だった。
先の男は危険だが、敵ではない、と判断しきった橘が、再度、思った。これが、敵なのではないか、と。
「大丈夫だった? って、え、」
里中が橘の肩越しにゆっくりと近づいてくる女を見て、固まった。里中も、その異様な雰囲気を感じ取ったのだろう。
女との距離は二○メートル弱はまだ取れている。が、村一の大通りを堂々と歩いてくるその女を見ると、その距離は関係ないようにまで、思えた。
「姫衣……、」
橘は、当然、この結論だけはすぐに出す。
「逃げろ」
一言。そして、それだけであり、それが、全てだ。
「え、で、でも。……でも!!」
里中は橘の後ろで戸惑っている。そうこうしている間に、気づけば、近づいてくる女の右手に、漆黒一色の巨大な輪のような、『剣』が握られていた。
武器がある。そして、それを見せびらかして、構えて、こちらへと向かってくる。
その光景から導き出される答えは当然、
(――殺しに来てる!?)
そして確信した。先の男同様の危ない、なんて程度の事ではない。殺される、と。
二人の見るその女の容姿は完全に人間だった。高校生程度の少女だった。だが、二人共確実に認識した。宇宙人だのどうだのという事は関係なしに、彼女は、今この状況において、危険因子、つまりは、敵なのだ、と。
「逃げろ!!」
最早声を抑える必要はなかった。橘は大音声を上げた。その声にスイッチが入れられたロボットのように突然里中は反応し、そして、
「待ってるから!」
そう叫んで、橘の脇を抜けて、村の奥の方へと駆け出して行った。その瞬間、橘の警戒は更に強まった。女の視線が動いて、里中の背中を追った身体。
だが、すぐにその警戒自体は解かれる。
女の視線は正面にすぐに戻り、再度、橘を捉えたからだ。
「な、貴女何者なの!?」
橘が必死に声を出すと、そこで、女の足は、止まった。二人の距離は大凡一○メートル。直に正対すると、恐ろしく近い距離である。当然、橘は恐怖していた。目の前の女は、武器があるなしに関わらず、自身を殺す事が出来る、と本能が感じ取っていた。恐怖を、感じていたのだ。日常の話であっても、人を本当に殺す事の出来る人間は、目から違うというが、まさにそれだ、と橘は感じ取っていた。
体感した事のない恐怖が橘を襲う。呼吸を詰まらせ、冷や汗を吹き出し、瞳孔が勝手に開いたり閉じたりし焦点が合わせづらくなる。
女は、そんな橘を嘲笑うかの如く、笑み、そして、言う。
「知ってるでしょ。私は貴女の敵。ここは殺し合いの場なんだよ?」
言って、可愛らしく首を傾げる女だったが、そこに、里中のような魅力を感じる事は当然出来なかった。
「は……ッ!? え、何? 殺し合いの、場……!?」
理解は、及ばなかった。
が、しかし、女は、悟ったのだろう。目の前のそのスレンダーで気の強そうな、だが、どうしようもなく恐怖している女は、殺すに容易いと。
故に、余裕を見せる。
「こんな短調な言葉使いたくないけど、冥土の土産に、教えて上げるよ」
言って、女は微笑み、語る。




