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そんなこと言っておりませんが?

作者: しらたま
掲載日:2026/09/14

 門が、でかい。


 それが、ノルトハイム辺境伯のお屋敷を見上げた私の、最初の感想だった。


 黒い石を積み上げた塀に、槍みたいな鉄柵の門。

 その向こうに、雪をかぶった尖り屋根がいくつも突き出している。

 お屋敷というより、これは砦だ。


「……ここが、冷酷辺境伯のおうち」


 私をここまで運んできた御者は、荷物を雪の上に下ろすなり、逃げるように馬車を引き返していった。気持ちはわかる。

 犬や猫が飼い主に似るのと同じく、屋敷もその当主様に似るとよく言われるからだ。


 私、コレット・ルシエ、十八歳。

 リュミエール王国の、没落しかけた男爵家の長女である。


 ひと月前までは、王宮で第二王女の女官をしていた。

 そしてひと月前に、ちょっとした失敗をした。

 というより、かなり大きなものだ。


 晩餐会の席。王女の椅子の後ろに控えていた私は、宰相閣下の言葉を聞いてしまった。


「ヴァルデンの兵が、我が国の国境の村を焼きました」


 重々しい声だった。

 だから、うっかり口に出してしまったのだ。


「今の、嘘ですよね?」


 私には、昔から嘘が聞こえる。

 

 嘘をついた人の声は、泥水をかき混ぜたみたいに、ざらりと濁って聞こえるのだ。

 いつからかはわからないけれど、物心がついた時からそのような体質だった。

 だからこそ、没落寸前の男爵家生まれの私が、王女の女官という大層な仕事につけたのは、これが大きい。


 そして宰相閣下の声は、あの晩、ひどく濁っていた。


 調べてみたら、焼かれた村なんてどこにもなかった。

 ヴァルデン帝国と戦をするための、口実をでっちあげる計画だったらしい。

 計画はまるごと潰れて、そのかわり私は「国の恥を晒した娘」になった。


 罰は、縁談という形でやってきた。


「和平の証として、ヴァルデンのノルトハイム辺境伯に嫁いでもらう。……言葉もわからぬ国で、あの冷酷な男の仕打ちを受ければ、ひとたまりもあるまいがな」


 宰相閣下は、にこにこしながらそうおっしゃった。

 声は、少しも濁っていない。本気でそう思っている、ということだ。

 最悪である。


 王女は最後まで庇ってくださったけれど、結局、決定は覆らなかった。


 そしてその餞別が、これ。


 私は鞄の中の、真鍮の塊をそっと撫でた。

 手のひらに乗るくらいの、小さなラッパのような形をした魔道具。

 外務局の倉庫の奥から出てきたという、骨董品の翻訳機だ。

 口元に当てると、先の開いたところから、相手の国の言葉が出てくる。


 ちなみに私のヴァルデン語は、「こんにちは」と「ありがとう」の二つだけ。発音にも自信はない。

 

「……ちゃんと動くのかしら、これ」


 そう呟いたとき、門の脇の小さな扉が、きい、と開いた。


 出てきたのは、灰色の毛が少し混じった髪をきっちりとまとめた、年配の侍女だった。

 ただ、背筋が物差しみたいにまっすぐだ。


 彼女は私を見て、少し目を丸くしてから、何かを言った。


「……ーー……」


 硬くて、それでいて歌うみたいに抑揚のある響き。

 これこそ、ヴァルデン語の特徴だ。


 だが、うん。

 全然わからない。


「ちょ、ちょっとだけ待ってくださいね……!」


 私は両手を前に突き出して「待って」の身振りをする。

 鞄をひっくり返す勢いで翻訳機を引っぱり出した。

 その挙動に、侍女さんが不思議そうに首をかしげる。


「これに向かって、もう一度お願いできますか?」


 と言っても伝わるわけがないので、翻訳機を彼女の口元へ、そっと差し出す。

 侍女さんはそれを見て、分かったかのように頷く。

 彼女はすぐに、ゆっくりと、さっきと同じらしい言葉を繰り返した。


 翻訳機の先から、しゃがれた男の人の声がした。


『よく来た。長旅ご苦労。私はマルタという』


 ……おじいさんの声なんだ。


 それに、ずいぶんぶっきらぼうだ。

 でも、マルタの目元はとても柔らかいし、たぶん本当は、もっと丁寧なことを言ってくれているはず。

 骨董品だから、敬語が抜け落ちてしまうのだろう。


 ということは、私の言葉も同じくらい失礼に訳されるかもしれない。


 気をつけよう。

 なるべく丁寧に。丁寧に。


 私は翻訳機を自分の口元に当てて、息を吸った。


「コレット・ルシエと申します。

本日から、こちらでお世話になります。

どうぞよろしくお願いいたします」


 翻訳機が、ヴァルデン語でしゃべりだした。


「…………————……——…………————……。

——…………————…………——……。

……————……——…………——……——。

————………………——………………。」


……長い。


 私が言ったのの、三倍くらいには長い。

 しかも、しゃがれ声がやけに熱っぽくて、途中でため息みたいな間まで挟まっている。

 もしかしたら、ヴァルデン語は丁寧に言おうとすると長くなる言語なのかもしれない。


 マルタは、私の顔と翻訳機を交互に見て——口元を押さえた。

 肩が小刻みに震えている。


 笑われている?

 それとも怒っている?

 嘘の濁りは、黙っている人からは聞こえないから判断のしようがない。


 やがてマルタは、目尻を指先で撫でると、とびきり優しい顔で扉を大きく開けてくれた。

 それから私の翻訳機を指さす。慌てて口元に差し出してみる。


『さっそくだが、旦那に会うか』


 旦那、って……。

 でも、なんとなく言ってることはわかる。

 たぶん「早速ですが、婚約者様にお会いになりますか」とかなのだろう。


「は、はい」


 私の返事を、翻訳機が訳した。

 ただ、「はい」の一言にしては、やっぱりちょっと長かった。


 案内されたのは、お屋敷の奥の、本だらけの部屋だった。

 壁という壁が本棚で、窓際に大きな書き物机がある。

 暖炉の火がぱちぱちとはぜていて、外の寒さが嘘みたいに暖かい。


 その机の前で、男の人が本を開いたまま、窓際から暖炉へ、暖炉から窓際へと歩いていた。


 背が高く、肩幅が広い。

 黒髪を後ろへなでつけていて、瞳は冬の湖みたいな灰青色だった。

 顔立ちは整っているのに、眉間にうっすら刻まれた皺と、少しも笑わない口元のせいで、全体の印象が「抜き身の刃物」だ。


(この方が、冷酷辺境伯ユリウス・ノルトハイム……)


 噂はいろいろと聞いていた。

 国境の砦を襲った盗賊団を、一晩で壊滅させたとか。

 これまでの婚約者が三人とも、夜のうちに逃げ出したとか。

 気に入らない使用人を、雪の中に放り出したとか。


 どれもただの尾ひれだと思いたい。だが、火のない所に煙は立たない。


 彼は私を見て、ほんのわずかに目を細めた。ゾッとする目だ。


 怖いけど、ここで逃げたら、私にはもう帰る場所がない。

 実家も没落寸前だし、そもそもあの宰相閣下を敵に回したのだ。

 リュミエール王国に帰ることはまず考えないようにしておこう。


 マルタがユリウスに私の翻訳機について説明してくれている。一度頷いたユリウスに、マルタが、「さあ」と言わんばかりに私にユリウスに近づくよう促した。


 私は震える手で、翻訳機を彼の口元へ差し出した。

 背伸びをしないと届かなかった。


 彼は翻訳機を見下ろして、かすかに眉を寄せた。

 それから、短く何かを言った。

 低くて、落ち着いた声。

 濁りは、今のところない。


 翻訳機が言う。


『ユリウス・ノルトハイムだ。……ずいぶんと遅かったな』


——ひっ。


 遅かった、か。

 確かにそう聞こえた。


 実際のところ、到着予定より二日も遅れていた。

 国境の峠で雪崩があって、馬車が二日も足止めされたのだ。

 ただ、遅れたのは、私のせいじゃない。

 

 でも、それを説明できる語学力は私にない。

 それに、言えたところで、ただの言い訳だ。

 何も解決しない。

 

 前向きに考えることにしよう。


 遅いと責められたということは、少なくとも、来るのを待っていてはくれたということだ、多分。

 

 門前払いも、斬り捨てられることも、いちおう覚悟はしてきた。

 その用心で、下に厚手のものを重ねて着てきたくらいだ。

 でも、この部屋に武器らしきものは見当たらない。


 なら、今日のところは大丈夫。


 私は背筋を伸ばして、翻訳機を自分の口元に当てた。

 国を出る前から、何度も何度も練習してきた言葉だ。


「コレット・ルシエと申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


 深々く、頭を下げる。


 翻訳機が、しゃがれ声で朗々と語りはじめた。

 二文だけのはずなのに、玄関のときより、さらに長く喋る。

 途中で一度、ぐっと声を詰まらせるような間があって、最後は囁くように締めくくられた。


 おそるおそる顔を上げると、ユリウスが固まっていた。


 灰青の目を見開いて、私を凝視している。

 そして、耳のあたりが、ほんのり赤い。


(まさか怒らせてしまった……?)


 やっぱり失礼に訳されたんだろうか。

 「不束者」が「お前は役立たず」とか「このろくでなし」とかになったのかもしれない。

 それなら顔が赤くなるのもわかる。


 暖炉の薪が、ぱちん、と鳴った。


 ユリウスは何も言わず、ふいと顔を背けると、マルタに短く何かを告げた。

 マルタがにこにこしながら、私を手招きする。


 どうやら今日のところは、生きてこの部屋を出られるらしい。


「えっと、ここは……?」

『ここが、貴女の部屋だ』


 と通された客間は、びっくりするくらい暖かかった。

 暖炉には薪がどっさり。寝台には、ふかふかの毛布が三枚。

 枕元には、湯気の立つ蜂蜜湯まで置いてある。


(あれ? 冷酷な仕打ちはどこ?)


 想定では、豚小屋同然の地下室にでも連れて行かれるものだと思っていた。噂では、ユリウスは、そういう趣味があるとかないとか。

 

 正直、初顔合わせも上手くいったかどうかはわからないし。

 ただ、悪いことを想定しても良いことは起こらないと思う。

 現に、斬られると思った身体はまだ繋がっているし、豚小屋だと思った私の居場所も、清掃がよく行き届いた立派な部屋だ。


 あの悪名高い辺境伯の狙いを探ろうと考えていた。

 けれど、国境からの長旅で、体はとっくに限界だった。


 確か、靴を脱いで寝台に倒れこんだところまでは、覚えている。


 だが、気がつくと、窓の外が明るくなっていた。


 ◇


 ページの同じ行を、何度読み返しただろう。


 文字が頭に入らない。仕方なく本を閉じずに歩き回っていたら、扉が叩かれた。

 

 振り返ると、小柄な娘が立っていた。


 薄紫色の髪に、若草色の瞳。

 旅の埃で、外套の裾が白っぽくなっている。

 両手で鞄の持ち手を握りしめ、唇をきゅっと引き結んでいた。


 緊張しているのか。

 それとも、怯えているのだろうか。

 どちらにしろ、見慣れた反応だった。


 俺、ユリウス・ノルトハイムの顔は、どうも人を怖がらせてしまうらしい。


 生まれつきの目つきの悪さと、笑うのが下手なせいだ。

 鏡の前で口角を上げる練習を何度もしたことがあったが、直らなかった。

 きっと表情が豊かかどうかは、結局のところ生まれつきなのだろう。

 

 これまでに決まった縁談は三つ。

 一人目は顔合わせの席で泣き出した。

 二人目は屋敷の門を見ただけで馬車を引き返させた。

 三人目は一日目の夜に窓から逃げた。



 そして、今度の相手は、隣国リュミエールから来るという。

 国の事情で、半ば押しつけられるように嫁がされてくる娘だと聞いていたが。

 言葉も通じないし、生活様式もかなり違うはずだ。

 それに加えて、俺のような強面を目にすれば——。


 どうせ、また逃げられるだろう。


 そう思っていたせいだろうか。

 本当は「遠いところを、よく来てくれた。心から歓迎する」と、それなりに丁寧に迎えるつもりだったのに。


「ユリウス・ノルトハイムだ。

長旅、ご苦労だった。……待っていたぞ」


 と口から出たのは、我ながら素っ気ない言葉だった。


 翻訳機が、柔らかい響きの異国語で何かを言う。

 俺の言ったことが短いのだから、訳も短い。

 

 娘の肩が、びくりと跳ねた。


(……やはり少し、無愛想すぎたか)


 これくらいで怖がって、逃げ出した婚約者もいたな。

 やはり駄目か、と思いかけた。


 だが、彼女は逃げなかった。


 ぴんと背筋を伸ばし、翻訳機を自分の口元に当てて何かを言うと、深々と頭を下げた。

 翻訳機がしゃがれた声で告げた。


『コレット・ルシエと申します。

この命尽きるまで、私はあなただけのものです。

どうか、おそばに置いてください。

あなたの隣で朝を迎え、あなたの隣で老いていく。

それだけが、私の願いです』


(……………………は?)


 俺は思わず、固まった。

 頭を下げたままの娘の、薄紫色のつむじを見下ろしたまま、固まった。


——命、尽きるまで?


 聞き間違いではないだろうか。

 だが、はっきりとそう聞こえたし、隣のマルタも目を見開いていた。

 やはり、本当にそう言ったのか。


 だが、こんな言葉を面と向かって言われたのは、生まれて初めてだった。


 顔を上げた彼女の頬は、真っ赤だった。

 だが、若草色の瞳が、まっすぐに俺を見ている。


 ……そうか、なるほど。


 この娘は、覚悟を決めてきたのだ。


 廃れかけた男爵家の出だと聞いた。

 国の事情で送り出され、言葉も通じない国の、噂の冷酷辺境伯のもとへ嫁ぐ。


 怖くないはずがない。


 それでも震えを押し殺して、あんな誓いを口にしてみせた。

 それほどまでに、この縁談に懸けてくれているのか。

 耳が熱い。何か返さなければ。


 だが、何を言えばいい。

 こちらも命を懸けると言うべきか。

 いや、初対面でそれは重すぎる。

 ……向こうは先にそう言ったが。


 そう考えているうちに、結局、何も言えなかった。


「……マルタ。部屋へ案内してやれ。暖炉は強めに。毛布は多めに。温かい飲み物も頼むよ」


 マルタは笑いを噛み殺したような顔で、「かしこまりました、坊ちゃま」と言った。


 その夜は、よく眠れなかった。


 あの声が、耳の奥で繰り返し鳴っていた。

 そして同じくらい、窓の外の物音が気になった。

 たしか二人目の婚約者が逃げたのも、こんな雪の夜だったか。


——翌朝、マルタが書斎に飛びこんできた。


「坊ちゃま!

コ、コレット様が、お部屋にいらっしゃいません!」

「なんだと?」


 ……やはり、逃げたか。


 まず、そう思った。


 昨夜の誓いは何だったのやら。

 いや、あれほどの言葉を口にして、自分を奮い立たせられないほど怖かったのかもしれない。


「どうしましょうか、坊っちゃま!」

「そう慌てるな、マルタ。夜逃げだ。前回の婚約者もそうだったろう」

「そうですが……」

「馬を出せ。国境までの道は雪が深い。凍えられては困る。探し出して、無事に家に帰してやれ」

「それでよろしいのでしょうか、坊っちゃま」

「あぁ、問題ない」

「承知いたしました。念の為、もう一度お部屋も、玄関も、裏庭も、探してみますが」


 だが、結局、屋敷じゅうを探しても、娘の姿はどこにもなかった。

 厩から馬を引き出させ、外套を掴んだところで、ふと足が止まる。


 匂いがした。廊下の奥から、嗅いだことのない、温かくて甘い匂いが流れてくる。

 辿っていくと、厨房だった。


 料理長のハンスが、途方に暮れた顔で立ち尽くしている。

 その横で、薄紫色の髪をひとつに束ねた娘が、大鍋をかき混ぜていた。


「当主様、今朝早くからこの通りで……何度もお止めしたのですが」


 令嬢が厨房に立つなど、この国ではまずありえない。

 マルタが真っ先に探す場所から外したのも、無理はなかった。


 コレットは俺たちに気づくと、飛び上がった。

 エプロンのポケットから翻訳機を取り出し、何かを言いながら、ぺこぺこと頭を下げる。


 翻訳機が告げた。


『申し訳ございません』

「別にい——」

『あなたを愛するこの気持ちを、どうしても形にしたかったのです。私には、これくらいしか思いつかなかったもので』


 背後で、マルタが「ぶふっ」と噴き出した。

 ハンスは木べらを取り落とした。


「そ、そうか」


 俺はそうとしか言えなかった。


 娘が翻訳機をこちらに差し出していたので、その間抜けな一言も、たぶんそのまま訳されたのだろう。

 彼女は、少しきょとんとした顔をしてから、木の器にスープをよそって差し出してきた。

 

 リュミエールの家庭料理だろうか。

 根菜と腸詰めを、くたくたになるまで煮込んだものだ。


 一口すする。


 素朴で、優しくて、腹の底から温まる味がした。


「……うまいな」


 思わず漏れた一言を、翻訳機が拾う。

 娘は一瞬ぽかんとして、それから、ぱあっと顔を輝かせた。


『その一言のためなら、私は毎朝でも鍋の前に立ちます』


 そう言われた俺は三杯おかわりした。


 ◇


『勝手にしろ』(訳:そ、そうか)

『……食えなくはない』(訳:……うまいな)


 これが、私の初めての手料理に対する、ユリウスのご感想である。


 問題は、どちらもまったく言葉に濁りがなかったことだ。

 ユリウスの声は、低くて、落ち着いていて、少しも濁らない。

 ヴァルデン語の意味はわからなくても、嘘かどうかだけは私にはわかる。


 つまり彼は、本気で「勝手にしろ」と思っていて、本気で「食えなくはない」と思っている。

 なのに、三杯おかわりした。


(……え、どういうこと?)


 よほどお腹が空いていたのか。

 それとも、本当は美味しかったのに、認めるのが嫌なのか。


 答えの出ないまま、謎はその後も増えていくばかりだった。


——初顔合わせから、三日目。

 部屋に、真新しい毛皮の外套が届いた。

 ユリウスが直々に持ってきて、翻訳機にこう言わせた。


『余っていたものだ』


 でも、肩も袖丈も、私にぴったり。

 仕立て屋さんの札が、まだついていた。


——十日目。朝食の席。


『食べられないものがあれば、報告しろ』

「特にありません。何でもいただきます」


 まるで尋問みたいな受け答えだ。

 なのにその日の夕食から、ヴァルデン料理にまじって、リュミエール風の焼き菓子が並ぶようになった。

 料理長のハンスさんが、胸を張って、なぜかウインクをしてきた。


——二十日目。

 廊下で、くしゃみが一つ出た。

 王都より雪が深いぶん、この屋敷は底冷えする。


『顔色が悪い。風邪をうつすな。さっさと帰れ』


 部屋に戻って荷物をまとめはじめたら、薬湯と、湯たんぽ三つと、マルタが待っていた。

 帰らなくていいから横になれ、と言われた。

 湯たんぽ三つは、多いし、それに暑い。


——三十日目の夜。

 すっかり元気になった私に、ユリウスは言った。


『明日の予定は空けておけ』

「……はい」


 命令である。私の婚約破棄日になるのか、はたまた遊びに行くのだろうか。

 寝台で毛布にくるまって、真剣に考える。

 

 言葉は冷たい。すべて本心なんだろう。

 なのに、してくれることは、ぜんぶ甘い。


 翻訳機が、どこまで正確かは正直わからない。

 骨董品だし、あのマルタの丁寧なお出迎えだって、あんなにぶっきらぼうに訳してしまう物だ。ユリウスの言葉が、翻訳機のとおりだとは限らない。

 もしかすると、とても優しい言葉を翻訳機が単調にしているだけかもしれない。でも、だとしたら私の言葉も単調になってるはずだ。顔はいつも怖いけど、ユリウスはあからさまに嫌悪感を私の言葉に見せることは一度もないし……。


 ただ、言葉が誤訳されているのだとしても、彼の行動まで誤訳されるわけじゃない。


「……なら、とりあえず、優しい人ってことにしよう」


 私は湯たんぽを一つ抱きしめて、目を閉じた。


 不思議なことは、ユリウスの時だけじゃなかった。

 私が翻訳機で何か言うたびに、屋敷の人たちの様子がおかしくなるのだ。


「このお花、きれいですね」と庭師のおじいさんに言ったら、おじいさんは目頭を押さえて天を仰いだし、感謝の言葉を若い侍女たちに言ったら、きゃあっと小さな悲鳴があがって、みんなで手を取り合って跳ねていた。

 ユリウスに「おはようございます」と言ったら、彼は持っていた書類を全部落とした。

 

 ヴァルデン語の「おはようございます」には、いったいどんな特別な意味があったんだろうか。


 ◇

 

——次の日。

 

 私はユリウスに町の冬市に連れて行かれていた。

 ユリウスと、家令のおじさまと、私の三人。雪の積もった広場に、色とりどりの天幕がひしめいている。

 焼き栗の匂い。毛糸の手袋。木彫りの人形。


 私がきょろきょろしていると、ユリウスが、黙って私の襟巻きを巻き直してくれた。


「あ……ありがとうございます」


 そう翻訳機に話すと彼は、首を大きく横に振った。少し恥ずかしがっているのか、すぐに振り向き、歩き始めた。そんな顔をした彼は初めて見た。

 隣を歩く家令のおじさまはプクッと笑っていた。どういうことだろうか。


 そういえば、冬市に来たのは、私の婚約破棄のためでも、遊ぶためでもなかったらしい。

 

 ユリウスと家令さんは、大きな天幕の前で、恰幅のいい行商人と話しこんでいた。

 天幕の奥には、麻袋が山のように積まれている。冬越しのための小麦だろう。

 お屋敷だけでなく、領地の村々の分まで買いつけるのだと、身振りでなんとなくわかった。


 行商人は、よくしゃべる人だった。


 両手を大きく広げて、麻袋を叩いて、笑って、また叩いて。その声が——。


(……うわ、濁ってる)


 どろどろに濁っていた。

 こんなにひどいのは、宰相閣下以来だ。


 意味は一言もわからない。

 でも、この人が今、口から出している言葉のほとんどが嘘だということだけは、わかる。


 ユリウスは差し出された契約書に手を伸ばす。


「——だ、だめです!」


 気がついたら、私はユリウスの袖を掴んでいた。


 全員が、私を見た。


 行商人がにこやかに何か言う。これもまた濁っている。


 家令さんが困った顔をする。

 そしてユリウスが、灰青の目でじっと私を見下ろしている。


「……ーー……?」

 

 何と言ったのかは分からなかったが、きっと「お前は何をしている?」とかそんなものだろう。

 令嬢である私が口を挟んでいい話じゃないのはわかっている。けれども声は自然と出ていた。


 だが、気づけば、翻訳機が私の口元にあった。

 ユリウスが私の鞄から取り出して、口元に置いていたのだ。


「えっと、その人は嘘をついています。

そ、その袋の中を、隅々まで確かめてください」


 翻訳機が、ヴァルデン語でしゃべる。

 やっぱり、私が言ったより長い。

 どう訳されたのかはわからない。


 ユリウスは、しばらく黙って私を見ていた。

 それから、家令さんに短く何かを言った。

 

 家令さんが、積まれた麻袋のひとつを、短剣で縦に裂く。

 上のほうから、きれいな小麦がこぼれ落ちた。行商人の顔が、少し焦るような顔をしている。

 裂け目が下へ下へと広がるにつれて、こぼれるものの色が変わった。

 灰色。緑がかった黒。——砂と、カビだらけの古い麦だ。


 広場がどよめいた。


 行商人は真っ青になって逃げ出そうとして、一歩目で雪に足をとられ、見回りの兵士さんたちに取り押さえられた。


 ユリウスが、怖い顔で、こちらへ歩いてくる。

 

(怒られる……!)

 

 立場のない私が勝手に口を出したわけだし、その上、上等な服の袖まで掴んでしまったのだ。怒られたって仕方のないことだ。


 私は反射的に、翻訳機を口元へ持ってきた。


「口を出してしまって、申し訳ございませんでした。処分でもなんでも、受け入れますので」


 ユリウスは、少し間を置いてから、何かを言った。


『……あまり出しゃばるな。だが、よくやった』


 どうとも取れないような言葉だった。口を出したことは悪かったが、良いこともしたからそれは褒めてやろう、ということなんだろう。

 でも、褒めてはくれた、と思う。私はそれが嬉しくて、翻訳機を自分に向けた。


「少しはお役に立てて、よかったです……」


 翻訳機が長くしゃべる。いつものことだ。

 すると周りで見ていた町の人たちが、なぜか一斉に「おお……」とどよめいた。


 ユリウスは片手を持ち上げかけて、私の頭の上で、止めた。

 それから、その手で、ずれた襟巻きをもう一度巻き直してくれた。

 彼の耳が、また赤かった。だが、これもこの寒さのせいだと思う。


 ◇


——聞いた? 冬市の真ん中で、『あなたのお役に立てることだけが、私の生きる意味です』って!

——聞いた聞いた! あのぶっきらぼうな旦那様が、真っ赤になってたって!

——これってもう告白じゃない! 旦那様もついに愛を知ったのね……!!


 廊下の角の向こうで、若い侍女たちがはしゃいでいる。


 俺は書類の束を抱えたまま、壁際で足を止めた。

 とても出ていきにくい。


 彼女が来てから、すでに一ヶ月が経った。


 そして彼女がきてからというもの、屋敷はすっかり彼女に骨抜きにされていた。

 庭師は『このお花は、あなたのように凛としていますね』と言われて泣いたらしいし、料理長は『あなたの料理には魂がこもっています』と言われて、今では毎晩リュミエールの料理を研究している。


 そして俺は。


『おはようございます。今朝もあなたに会えたことを、神に感謝します』

『この外套、まるであなたに抱きしめられているようで……温かいです』

『あなたが選んでくださったものなら、何でも好きになれます』

『お役に立てて、本当によかった。あなたの役に立つことだけが、私の生きる意味ですから』


 と……毎日、これだ。


 正直、心臓がもたない。

 今では彼女のここに残りたいという想いは嘘ではないことがわかった。

 それが恋なのかと言われれば、正直のところわからない。


 だが、彼女は、いつも全力で言葉をくれる。

 それなのに俺ときたら、短い返事しかできていない。


 いや、これでも頑張っているのだ。


 外套を渡したときは「君に似合うと思って、仕立てさせた」と言った。

 好き嫌いを聞いたときは「食べられないものがあれば、遠慮なく言ってくれ」と言った。

 冬市で助けられたときは「助かった。……君がいてくれて、よかった」と言った。


 だが、これで精一杯だ。彼女がくれる言葉に比べれば、あまりに素っ気ないんだろうが……。

 同じものは、返せない。あんな言葉は、俺には一生かかっても口にできないだろう。


 それでも、何かは返したい。

 

 朝のスープも、冬市での一言も、この屋敷に流れるようになった、笑い声も。

 彼女からもらったものは、数えるのが嫌になるほど多い。

 なのに俺が渡したものは、外套が一着と、短い返事だけだ。


 言葉で返せないなら、別のものを探すしかない。


 そこまで考えて、ふと気づいた。


 俺たちの間には、いつもあの翻訳機がある。


 彼女の声は、しゃがれた男の声に変わって俺に届き、俺の声も、同じ声に変わって彼女に届く。

 この屋敷に来てから、俺は一度も、彼女の声で彼女の言葉を聞いていないのだ。


 聞いてみたい。そして俺の声で、俺の言葉を、届けてみたい。

 あの道具を挟まずに。


「……マルタ。書庫に、リュミエール語の本はあったか」

「ええ、ございますよ、坊ちゃま」


 マルタは、なぜか一瞬遠い目をしてから、書庫のいちばん上の棚を指さした。


 埃をかぶった、古い教本だった。


 表紙は色褪せ、角は擦り切れている。

 ページをめくると、余白のあちこちに、薄れたインクで書きこみがあった。

 ヴァルデン語の単語の横に、リュミエール語の綴り。

 癖のある文字で、発音の注意が細かく書き添えてある。


「古いな。誰のものだ」

「さあ。昔、どなたかが置いていかれたものでございます」


 マルタはそれ以上何も言わず、はたきを持って出ていった。


 その夜から、俺は書庫で教本を開くようになった。


 リュミエール語は難しかった。

 綴りと発音が一致しない。

 舌を丸める音がある。そして、語尾がやたらと柔らかい。


 それでも、一つずつ覚えた。


「おはよう」

「ありがとう」

「おいしい」

「おやすみ」


 教本の最後のページの余白に、ひときわ丁寧な字で、一行だけ書きこまれた文があった。

 ヴァルデン語と、リュミエール語で。


——君が、気になる。


 昔の誰かも、この本で、誰かに届けたい言葉を練習していたのかもしれない。


 その日の夜。


 気づけば、彼女の部屋の前に立っていた。


 おやすみ。そのたった一言を、今夜のために何十回も練習した。発音は、たぶん、それなりだ。


 扉を、軽く叩く。


「私だ、ユリウスだ」

 

 だが、待っても返事がない。

 扉の下の隙間からは、明かりが漏れているから、寝ているはずはないのだが。


 もう一度叩く。

 

 すると中で、がたん、と何かが倒れる音がした。

 それから、しんと静まり返った。

 そして、明かりが、ふっと消えた。


「だ、大丈夫か?」


 そう声をかけたが、やはり何も返ってこない。

 俺はしばらくそこに立っていて、それから、自分の部屋へ戻った。


 次の夜も、同じだった。

 扉を叩くと、明かりが消える。

 しかし、昼間の彼女は、変わらない。朝はスープを作り、翻訳機を通して、熱烈な言葉をくれる。


 でも、夜の扉だけは、決して開かない。


「……夜はやはり、怖いのだろうか」


 昼は明るい場所に人がいるが、夜は、二人きりになる。

 強面の男と暗がりで向き合うのは、それだけで勇気がいるのかもしれない。

 それに、彼女の言葉は、いつも甘い。だからてっきり、心を許してもらえているものだと思っていた。

 だが、きっと違うんだろう。


「実は俺のことが怖いんだな……」

 

 そう書斎で思わず漏らすと、紅茶を注いでいたマルタが、呆れた顔をした。


「坊ちゃま。嫌っているお方のために、毎朝早起きして朝ごはんを作るお嬢様はおりませんよ」

「……だが」

「それに、夜に殿方へ扉を開けないのは、淑女として当然のたしなみです。まだご婚約中なのですから」


 言われてみれば、そのとおりだ。

 俺は咳払いをして、窓の外を見た。


 婚約中だからか、と考えて、ふと思い出す。


 帝都からの婚姻の届けがそろそろ来ることはずだ。

 

 そのとき、書斎の扉が叩かれた。

 家令が、封蝋の押された手紙を持って入ってくる。


「当主様。帝都からの早馬でございます」


 封を切る。


 中身は二通。一通は、帝都の婚姻審査局からの通知だった。


 ——隣国の者との婚約は、一月以内に審査官による意思確認を経て、婚姻として成立する。

 七日後、審査官クラインを派遣する。


 婚約する時に、双方に婚約の意思があるかの確認を経てから正式な婚姻の成立が決まる、という知らせだ。

 だが、それだけなら、早馬を仕立てるような用件ではない。


 ただ問題は、もう一通のほうだった。

 リュミエール王国の外務局から、帝国に宛てて送られた書簡の写し。


『コレット・ルシエは、虚言をもって我が国の重臣を陥れた罪人である。ご注意召されたし。

 なお、同女の処遇については、いかなるものであれ我が国から申し立てるところはない。

 貴国の御随意になされたい』


——随意に。


 殺しても構わないと、国が言っているようなものだ。


 俺は、手紙を握りつぶしそうになった。


 ◇


「わた、し……は……コレット、で、す」


——二日前の夜。

 

 私は寝台の上に正座して、ヴァルデン語の絵本を広げていた。


 マルタに頼み込んで、書庫のいちばん下の段で見つけたものだ。

 子ども向けの、絵のついた言葉の本。りんごの絵の横に「りんご」、犬の絵の横に「いぬ」。

 これがいちばん、わかりやすい。


 机の上には、単語を書きつけた紙が、何十枚も散らばっている。


「ありがとう。……おい、しい。……あな、た」


 わからない言葉は、昼間のうちにマルタに聞く。

 絵を指さして首をかしげると、ゆっくり、はっきり、発音してくれるのだ。


 いつか、翻訳機なしでユリウスとお話ししたい。


 あのしゃがれ声じゃなくて、私の声と言葉で。

 外套のお礼を、ちゃんと自分で言いたい。

 スープを「食えなくはない」と言われたら、「じゃあ明日はもっとおいしくします」と言い返したい。


 それから——あの人が本当は何を言っているのか、自分の耳で聞いてみたい。


 まだ誰にも内緒だ。できるようになったら、みんなを驚かせたいから。

 まあ、マルタには少し勘づかれている気もするけど。


——こんこん。


 突然、扉が鳴った。


 思わず飛び上がった。


「……ーー…ーーー」


(……ユリウス様!?)


 扉越しに、彼に低い声。言葉はわからない。

 ただ、急用ならば、マルタを呼びに寄越すはずだ。

 現に、この屋敷で何かあった夜は、いつもそうだったから。

 

(……じゃあ、何の用だろう?)

 

 扉のノブに手を掛ける。

 だが、その前に私は自分の姿を見下ろした。

 

 寝間着。髪はぼさぼさ。指も頬も、たぶんインクまみれ。

 机の上には、ヴァルデン語の練習の紙が散乱している。


 見られたら、全部ばれる。

 というか、この格好で殿方の前に出るなんて、無礼極まりない。


——こんこん。


 慌てて後ずさった拍子に、椅子が倒れた。その拍子に、燭台の火を吹き消してしまう。


(ひぃ……!)


 毛布を頭からかぶった。


(寝てる。寝てます。私はもう寝ています)


 そう自分の中で、復唱し始めて、しばらくすると、足音が遠ざかっていった。


「……ごめんなさい」


 急用なら、あの体格だし、扉ごと蹴破って入ってくるだろう。

 そうしなかったということは、明日でも構わない話だったに違いない。


 ……そういうことにしておこう。

 明日の朝、それとなく聞いてみればいいか。


 にしても、罪悪感で、胸がちくちくする。

 ただ、もう少しなのだ。

 もう少しで、簡単な挨拶くらいはできるようになる。

 そうしたら、次は私から扉を叩こう。


「よしっ……!」


 そう決めて、目を閉じた。

 

 ◇


——その七日後。


 お屋敷に、黒塗りの馬車がやってきた。


 降りてきたのは、銀縁の眼鏡をかけた、痩せた男の人だった。灰色の外套に、いかにも役人という感じの、ぴしっと撫でつけた髪。


 玄関で出迎えた私を見るなり、彼は言った。


「コレット・ルシエ嬢ですね。帝国婚姻審査局の審査官、クラインと申します」


 私は、目をぱちくりさせた。


 リュミエール語だった。


 翻訳機を通さなくても、言葉がわかったことに少しばかりの感動を覚えた。生きた人の口から出る、私の国の言葉。


「……失礼を承知ですが、クライン様はなぜリュミエール語が? もしや、リュミエール出身とか?」

「いえいえ、生まれも育ちもこっちですよ。ただ、職業柄で、ね。審査官は、通訳も兼ねておりますので」


 クラインは、にこりと笑って、眼鏡を押し上げた。


 久しぶりに、人とまともに話せた。それだけで、ちょっと感動を覚えた。


 でも、それは、すぐに引っこんだ。

 通された応接間で、クラインは、一通の書簡の写しを私の前に置いたのだ。


「リュミエール王国の外務局から、帝国宛てに届いたものです。お読みになれますね」


——虚言をもって重臣を陥れた罪人。辺境伯を籠絡し、帝国の内情を探らんとする恐れあり。


 そう書かれていた。


 宰相閣下の名がすぐ浮かんだ。

 国から追い出しただけでは、足りなかったらしい。

 嫁がせておいて、その先で罪人として突き返させる。

 そうすれば私は、どちらの国にも居場所のない女になる。

 そこまでして、憎まれていたのか。

 

「隣国の方との婚約は、審査を経て、はじめて婚姻として成立します。本日の午後、ユリウス辺境伯とコレット殿、双方の意思を確認させていただきます」

「……もし、審査に通らなかったら」

「婚約は解消。コレット殿には、リュミエールへお帰りいただくことになります」


 帰ったところで帰る場所がない。


「わ、私は、間者なんかじゃありません」

「ええ、わかっております。私も、書簡一通で判断するつもりはありませんのでご安心を」


 思わず、声を挙げると、クラインは、安心させるようにそう言った。彼の声は、濁っていなかった。本気で、公平に見ようとしてくれているのだ。


 それを知れただけで、少しだけ、ほっとした。


「ただ、気になる噂がありましてね。この領地のコレット殿は、辺境伯に対して、人前でも臆面なく熱烈な愛の言葉を捧げている、と。帝都でも評判でして」

「……はい?」

「『この命尽きるまで、あなただけのものです』『あなたの役に立つことだけが、私の生きる意味』

いずれも、町の者たちが耳にしたそうですが」

「……は……い?」

「書簡のとおり、コレット殿が虚言の達人であるならば、それらの言葉はすべて、辺境伯を籠絡するための偽りだということになる。——そこを確かめさせていただきます」


 私は、眉を顰めた。


 命尽きるまで?

 生きる意味?


 なんのこと?


 ◇


——午後。書斎。


 暖炉の前に、ユリウスと私が並んで座り、向かいにクラインが座った。壁際には、マルタが控えている。


 ユリウスは、いつもより、さらに無表情だった。

 眉間の皺が、いつもより一本多い。


 私の膝の上には、翻訳機。


「では、始めます。私が双方の言葉を、正確に訳します。

まず、辺境伯様」


 クラインがヴァルデン語で何かを尋ね、ユリウスが低い声で答える。

 長い受け答えのあとで、クラインは私のほうを向いた。


「初対面の日、コレット殿があなたに何と言ったかを伺いました。辺境伯のお答えを、そのまま訳します」


 クラインは、手元の帳面を読み上げるように言った。


「『この命尽きるまで、私はあなただけのものです。どうか、おそばに置いてください。あなたの隣で朝を迎え、あなたの隣で老いていく。それだけが、私の願いです』——と」

「言ってません!!」


 私は立ち上がっていた。

 膝から翻訳機が転げ落ちて、絨毯の上でごろんと鳴った。慌てて拾い上げ、抱えたまま、居住まいを正した。


「失礼いたしました。で、ですが、そんなことは一言も、申しておりません!」

「……では、何とおっしゃったのですか」

「『コレット・ルシエと申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします』です」


 クラインが、それをユリウスに訳した。

 するとユリウスが、ゆっくりと私を見た。

 灰青の目が、今まで見たことがないくらい、まん丸になっていた。


「……よろしく、お願い、いたします」


 クラインが、確かめるように繰り返す。


「はい」

「それだけ」

「それだけです!」


 クラインは眼鏡を外して眉間を揉み、それからかけ直した。


「では、コレット殿に伺います。初対面の日、辺境伯はあなたに何と?」

「えー……確か、『ユリウス・ノルトハイムだ。ずいぶんと遅かったな』……と」


 クラインがそれを訳した瞬間、ユリウスが勢いよくこちらを向いた。

 何か早口で言う。


「『言っていない。長旅ご苦労だった、待っていた、と言った』……だそうです」

「……え?」


 待っていた? 遅かった、じゃなくて?


 そこからクラインは、今まであったほとんどの会話を洗いざらいに翻訳させた。


 私が聞いた『……勝手にしろ』は、本当は「そ、そうか」だった。

 

『食えなくはない』は、「うまい」

『余っていたものだ』は、「君に似合うと思って、仕立てさせた」

『食べられないものがあれば、報告しろ』は、「食べられないものがあれば、遠慮なく言ってくれ」

『出しゃばるな。だが、今回は褒めてやる』は、「助かった。君がいてくれて、よかった」


 そしてユリウスが聞いていた私の言葉も、クラインの口から、次々と明らかになった。


『あなたを愛するこの気持ちを、どうしても形にしたかった』は、「私にはこれくらいしかできないと思ったので」

『今朝もあなたに会えたことを、神に感謝します』は、「おはようございます」

『この外套、まるであなたに抱きしめられているようで』は、「暖かいです。ありがとうございます」

『あなたが選んでくださったものなら、何でも好きになれます』は、「特にありません。何でもいただきます」

『あなたの役に立つことだけが、私の生きる意味』は、「お役に立ててよかったです」


 ……一つ訳されるたびに、頭が真っ白になっていく。


 「おはようございます」と私が言うたびに、この人は、あんな言葉を受け取っていたのだ。書類を落とすはずである。


「では……整理します」


 クラインが、疲れきった声で言った。


「コレット殿の言葉は、ヴァルデン語に訳されると、なぜか熱烈な愛の告白になる。辺境伯の言葉は、リュミエール語に訳されると、なぜか冷たく素っ気なくなる。そういう壊れ方をした翻訳機、ということになりますね」

「——壊れているのではございません、クライン様」


 静かな声がした。


 壁際にいたマルタだった。


 彼女は私の膝にあった翻訳機を拾い上げると、両手でそっと包みこんだ。

 その目が、少し潤んでいるように見えた。


「……やはり、そうでしたか。

初めてお嬢様にお会いした日、この声を聞いて、まさかと思いました」

「マルタ?」


 ユリウスが顔を上げる。

 マルタは、ふふ、と小さく笑った。


「私ごとになりますが、話をさせてください。あれはもう四十年前のことでしょうか。

この屋敷の門に、毎日のように通ってくる、リュミエールの若い書記官様がおりました。

わたくしがまだ、ここの見習い侍女だったころです」


 四十年前。


「言葉が通じないものですから、その方はこの翻訳機を持ってこられて、毎日毎日、それはもう熱烈な言葉をくださいまして。『あなたに出会うために生まれてきた』だの、『この命尽きるまで』だの」

「……それで」

「わたくしは毎回、『帰れ』と申し上げました」


 マルタは、しれっと言った。


「『しつこい』『仕事の邪魔だ』『二度と来るな』。毎日でございます。一年ほど、毎日」


 クラインが翻訳機を受け取って、つくづくと眺めた。

 側面の小さな刻印を、指でなぞる。


「これは、通した言葉の癖を覚えて、訳をそちらへ寄せていく古い型の魔道具か。何度も使ううちに、言い回しを学習していくものだ。なるほど、真相がなんとなくわかってきましたよ」

「つまり……?」

「リュミエール語からヴァルデン語へは、その書記官殿の口説き文句で。ヴァルデン語からリュミエール語へは、マルタ殿の『帰れ』で。一年間、毎日みっちり学習した結果、ということでしょう」


 私は、翻訳機を見た。


 私の丁寧なご挨拶が、三倍の長さの口説き文句になっていたのも。

 マルタの丁寧なお出迎えが、敬語の抜けたぶっきらぼうな言葉になっていたのも。

 ユリウスの優しい言葉が、ぜんぶ冷たい命令みたいになっていたのも。


 ぜんぶ、四十年前の恋のせい。


「……マルタ。お前、最初から気づいていたのか」


 ユリウスが、低い声で言った。

 怒っている、というより、脱力しきった声だった。


「確信はございませんでしたよ。ただ——」


 マルタは、ユリウスを見て、目を細めた。


「坊ちゃまが、あんなお顔をなさるのを、初めて見たものですから。つい、黙っておりました」


 ユリウスは、何も言い返さなかった。


 書斎が、しんと静かになった。

 暖炉の薪が、ぱちん、と鳴る。

 初顔合わせの日と、同じ音だった。


 クラインが、咳払いをした。


「さて。書簡の件ですが、コレット殿が甘言で辺境伯を籠絡した、という疑いは晴れたと言っていいでしょう。

そもそもコレット殿は、甘言など一言もおっしゃっていなかったのですから」


 それは、よかった。

 よかった、はずなのに。


「——ただし」


 クラインは、ユリウスのほうを向いた。


「辺境伯とコレット殿。あなたが聞いていたコレット殿の言葉は、すべて、翻訳機が作ったものでした。

それを踏まえた上で、改めて伺わねばなりません。

この婚約を、婚姻として成立させることを望みますか」


 心臓が、嫌な音を立てた。


 確かにそうだ。

 ユリウスが聞いていたのは、ぜんぶ、しゃがれ声が作った言葉だった。

「命尽きるまで」も、「生きる意味」も、私は一度も言っていない。

 彼が見ていたのは、翻訳機の中にしかいない、熱烈で、情熱的で、甘い言葉を惜しみなく捧げてくれる女の人だ。


 そして、それは私じゃない。


 私はただ、「よろしくお願いします」と言っただけの、没落男爵家の、嘘つき呼ばわりされて国を追い出された娘だ。


 私のほうは、いい。


 私は、言葉じゃなくて、行動を見ていた。外套も、湯たんぽも、焼き菓子も、巻き直してくれた襟巻きも、翻訳されていない本物だ。冷たい言葉が多かったけれども、私の気持ちは、たぶん、本物だ。


 でも、ユリウスは。


「……私は」


 声が震えた。リュミエール語で、クラインに向かって言う。


「私は、ここにいたいです。でも、ユリウス様が望まないならば……」


 最後まで、言えなかった。

 クラインは黙ってうなずき、ユリウスに向き直った。


「では、辺境伯。お答えを」


 私は、ほとんど無意識に、翻訳機を手に取っていた。


 いつもの癖だった。というより、テンパっていて、自分が何をしているのかがわかっていなかった。

 

 震える手で、翻訳機を、ゆっくりとユリウスの口元へ差し出す。

 

 クラインはそれについて何も言わなかった。


 ユリウスは、それを見下ろした。


——そして。


 大きな手で、そっと、押しのけた。


 乱暴じゃなかった。私の手ごと包むようにして、ゆっくりと、下ろさせた。

 灰青の目が、まっすぐに私を見ていた。


 ユリウスの唇が、動く。


 ヴァルデン語じゃ、なかった。


「そ、それ、でも、ボクワきみ、がいい」


 たどたどしい。


 発音は、めちゃくちゃだ。舌を丸める音がうまくできていないし、区切るところもおかしいし、「僕は」が「ボクワ」になっていて、と始めればいくらでも良くないところは出てくる。


——でも。


 リュミエール語だった。


 翻訳機を通さない、しゃがれ声じゃない、ユリウスの、低くて、落ち着いた、あの声で。


 そして——その言葉は少しも、濁っていなかった。


「……っ」


 視界が、ぼやけた。


 いつの間に。どこで覚えたの。


 聞きたいことが、たくさんあった。

 でも、喉が詰まって、何も出てこない。


 クラインが、口を開きかけた。


「訳さないでください」


 私は、それを遮った。


「わかりますから。……ちゃんと、わかりますから」

「ええ。リュミエール語でしたね」


 クラインは、そう言って眼鏡を押し上げた。


 私は、ぐしぐしと目元をこすった。


 それから、息を吸った。


 夜ごと、寝台の上で、絵本を広げて練習した言葉。

 インクまみれになりながら、何十回も、何百回も繰り返した言葉。

 本当は、次は私から扉を叩いて、言うつもりだった。


「わた、し、も」


 ヴァルデン語で。


「あなた、の……ことば、で……はなし、たい」


 ユリウスが、息をのんだ。

 いつ、ヴァルデン語を覚えたのだ? と驚いている表情だった。


 それから、ゆっくりと、何かに気づいた顔をした。


「……夜。明かりが、ついていたのは」


 ヴァルデン語だった。でも、今度は少しだけわかった。「夜」と「明かり」。絵本に載っていた単語だ。


 私は真っ赤になって、こくこくとうなずいた。


 ユリウスは、片手で顔を覆った。

 指の隙間から見える耳が、今までで一番、赤かった。


 クラインが、書類に何かをさらさらと書きこみ、印を押した。


「審査は以上です。婚姻の意思、双方に確認いたしましたことをここに表明いたします」

「……っ、ありがとう、ございます……!」

「礼には及びません。お仕事ですので」


 クラインは立ち上がり、外套を手に取ってから、ふと思い出したように付け加えた。


「そうだ。リュミエールの書簡には、コレット殿は虚言で人を陥れる、とありましたが。私の見たところ、この屋敷で嘘をついていたのは、翻訳機だけでしたね」


 彼は、マルタの手の中の翻訳機に、ちらりと目をやった。


「なお、この翻訳機は、リュミエールの外務局がコレット殿に持たせたものだとか。嫌がらせのつもりで骨董品を押しつけたのだとしたら、ずいぶんと見事な縁結びをしたものです。報告書には、そのように書いておきましょう」


 声は、やはり少しも濁っていなかった。


 ◇


 数週間後の夜。


 書庫の大きな机の上に、二冊の本が並んでいる。


 一冊は、色褪せたリュミエール語の教本。

 もう一冊は、子ども向けのヴァルデン語の絵本。


「り、ん、ご」


 コレットが、絵本のりんごを指さして、ヴァルデン語で言う。


「そうだ、りんご」


 俺がうなずくと、彼女は嬉しそうに笑って、今度は教本のほうをめくり、リュミエール語で何かを言った。

 俺の発音を直してくれているらしい。


「……ぽ、む」

「ちがいます。ぽ、む」

「……ぽむ」

「ぽむ!」


 彼女が、ぱちぱちと手を叩いた。


 夜の扉は、もう閉ざされていない。いや、厳密にいえば、寝室の扉は婚礼の日までは閉ざされたままだ。

 マルタが目を光らせている。その代わり、夜の書庫が、二人の教室になった。


 あの翻訳機は、書斎の棚の上に飾ってある。

 今では、マルタが毎朝、丁寧に埃を払っている。


 そういえば結局、何度訪ねても、四十年前の書記官がどうなったのか、マルタは教えてくれなかった。

 案外、秘密主義なところがあるからな。


 そんなマルタが書斎に入ってきた。少し用事があるのだという。

 

「坊っちゃま……明日からまた休日をいただいておりますので、どうぞコレット様とは喧嘩もなく、過ごしてくださいね」

「喧嘩、ってお前な。

……それより、ずっと気になっていたのだが、いつもどこで休暇を取っているんだ」

「それは……実は別邸がございまして……リュミエールのほうに」

「そうなのか。じゃあ——」

「では、私は明日も早いのでこれで。お二人もお勉強はほどほどにしておいてくださいね」


 そう言われ、マルタは俺とコレットにお辞儀をして、書斎から出ていった。

 

「そろそろ、寝ましょうか」

「そうだな。マルタもああ言ってることだし」


 コレットがリュミエール語で言い、俺はヴァルデン語で言う。これくらいなら、お互い、翻訳機がなくてももうわかるほどになった。


 彼女は立ち上がると、棚の上から翻訳機を取ってきた。

 何をするのかと思えば、自分の口に当てて、いたずらっぽくこちらを見る。


「おやすみなさい、ユリウス様」


 翻訳機が、しゃがれ声で朗々と語った。


『おやすみなさい、愛しのユリウス。愛しています。夢の中でも、あなたのおそばに』

「……わざとだろう、それは」


 俺がヴァルデン語で言うと、コレットは声を立てて笑った。

 何を言われたのか、大体はわかったらしい。


 笑いながら、彼女は翻訳機を俺の口元に差し出してくる。


 仕方がない。


「おやすみ。また明日」


 翻訳機が、リュミエール語で何かを言う。


 今の俺には、少しだけ聞き取れる。たぶん——『さっさと寝ろ』だ。


 額を押さえた俺の前で、コレットはくすくす笑いながら、たどたどしいヴァルデン語で言った。


「しって、ます。『おやすみ、また、あした』……でしょう?」


 俺は、翻訳機を棚に戻した。


 それから、彼女の国の言葉で、ゆっくりと答えた。


「そう。……おやすみ、コレット」


 訳さなくても伝わる言葉が、少しずつ増えていく。


 明日は「よく眠れたか」と聞こう。

 その次は「スープが美味しい」と言おう。

 その次は「髪が、綺麗だな」と褒めよう。


 その次の、そのまた次に。

 いつか、いちばん言いたい言葉を言おう。

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