第一話:その日、すべてが壊れた
「いい試みだったな」
彼は言った。
声は落ち着いていたが、どこか見下すような皮肉に満ちていた。
「だが、お前は私と一緒に行く。今すぐだ。」
その決定的な瞬間――身動きが取れなくなるほどの圧迫感の中で、わずかな動きがヒサカゲの到来を告げた。
耳をつんざくような爆発音を聞きつけたのだろう。彼は駆けつけ、そのまま迷いなく飛び込んできた。
その顔には、決意に満ちた怒りが浮かんでいた。
ためらいはなかった。
彼はアスペクトを発動し、強力な一撃を私の攻撃者へ放とうと身を乗り出す。
――しかし、その時。
私は叫ぶことができなかった。
あまりにも深い衝撃が、私の身体を完全に麻痺させていたからだ。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
数秒かもしれない。
だが、その瞬間は引き延ばされ、すべてが苦痛に満ちたスローモーションのように感じられた。
そして――
久影の首が、体から切り離された。
あまりにも速く、あまりにも正確に。
鈍く、ぞっとする音を立てて、胴体のすぐ横に落ちる。
その光景を、私はただ見ていた。
次の瞬間、喉の奥から絞り出すような叫びが、ようやく私の中から溢れ出した。
温かく、生々しい血しぶきが顔に飛び散る。
親友が――
消えた。
瞬きする間もなく。
あまりにも一瞬で。
理解が追いつかなかった。
あまりにも速すぎた。
襲撃者は、微動だにしていない。
――どうやって?
どうやって、あれほどの速度で首を落とした?
これまでの訓練でも、文献でも、あんなアスペクトは一度も見たことがない。
その瞬間、最後の理解が私の魂に刻まれた。
真の悪魔の伝説は――
現実だったのだ。
第1章
かつて、森から奇妙な音が聞こえていた。
不自然で、喉の奥から絞り出されるような唸り声。
静寂を引き裂き、悪意と抑えきれない飢えを語る音。
そして――私は光を見た。
柔らかな黄金の糸のような光が、木々の梢の上に差していた。
その瞬間だけ、あの音は止んだ。
長老たちは言った。
あの唸り声は亡霊だと。
悪意に満ち、消し去られるべき存在。
だが彼らは滅びず、生き延び、糧を求め続ける。
それは“生き物”ではない。
ただ破壊のために存在する力。
担い手である私たちの役目は、それらを根絶することだった。
アスペクト――存在エネルギーを操るための固有能力。
それによって、私たちは戦う。
そして光は、顕現からもたらされる。
神々、精霊、高次存在――
古代から存在を形作ってきた、計り知れない力を持つ存在たち。
彼らは慈悲深く、同時に気まぐれだった。
だが、光あるところに闇は必ず存在する。
私たちはそれを“悪魔”と呼ぶ。
崇拝され、守護を求められ、あるいは力の象徴として恐れられる存在。
その中でも、我らの一族が崇めるもの――
「ザ・サムシング」
名も形も持たない存在であり、最も強力な精霊の一つとされている。
その力は、アスペクトを使い手自身へと向けさせるという異質なもの。
その発現は完全に自律的で、予測不能。
祝福が勝利をもたらすのか、それとも破滅へ導くのか――誰にも分からない。
そもそも「ザ・サムシング」に名は存在しない。
それは、我々定命の者にその名を口にすることを禁じているからだ。
その名を口にした者は、姿を消すか、血を流すか、狂気に堕ちる。
伝説によれば、「ザ・サムシング」は周期的に器を選ぶ。
その力はほぼ無限。
そして器は、死の間際にその力を次の継承者へと渡すことができる。
それにより、「ザ・サムシング」は不滅を保ち続ける。
救済にも、破壊にもなり得る力を、血統を通して。
最後の器が現れてから、すでに五百年。
ある者は、継承前に死んだと言い。
ある者は、悪魔へと変貌し人間性を捨てたと言う。
いずれにせよ、その消失は一族に恐怖をもたらした。
我々の使命は二つ。
祖先のアスペクトを極めること。
そして、「ザ・サムシング」への信仰を絶やさぬこと。
いつかそれが戻り、すべてを変える力を再びもたらすと信じて――。
山奥、霧と古い杉に囲まれた場所で、私は育った。
すべてが遠く、隔絶されていた。
まるで現代から切り離され、儀式と沈黙の中に閉じ込められているようだった。
私は長い間、それを“普通”だと思い込んでいた。
この孤立も、秘密も、すべて必要なものだと。
ヤクジョン一族は、継承者の世界でも屈指の名家。
だからこそ、その力も血も、外界から隔絶され守られなければならなかった。
受け継ぐのは、ふさわしい者だけ。
長老たちは、私を選んだ。
炎のアスペクトを完全に制御できていなかったにも関わらず。
その日から、すべてが変わった。
終わりのない訓練。
押し潰されるような重圧。
孤立と秘密。
それはやがて、彼らの信念ではなく――私の現実になった。
だが私は、信じていなかった。
ザ・サムシングが戻ってくることも、私が選ばれることも。
そもそも、望んでいなかった。
力も、責任も、期待も。
人を救いたいとも思わなかった。
世界を浄化したいとも思わなかった。
そして、それを悪いとも思わなかった。
私が欲しかったのは――
ただ、自分の人生だった。
自分の居場所を、自分のやり方で築くこと。
ヤクジョンの名から自由になること。
それだけだった。
久影。
私の親友であり、唯一の理解者。
高位の家系に生まれ、次期当主として育てられた彼は、誰よりも強かった。
そのアスペクトは、私たちの炎の完成形とも言えるもの。
長老たちは囁いていた。
彼こそが次の器になると。
――もしザ・サムシングが戻るなら。
「お前の方が上だよ」
背後から、彼の声。
気配もなく現れるのはいつものことだった。
夕日が沈み、橙色の光が彼の横顔を照らしていた。
「馬鹿言わないで」
私は興味なさそうに返す。
「指一本でやられるわよ、私なんて」
彼は乾いた笑いを漏らした。
「分かってるくせに」
少し間を置いて、にやりと笑う。
「俺の次に、だけどな」
私はため息をつき、沈む太陽を見つめた。
「…可能性はあるかもね。でも、何がしたいのか分からない」
静かな本音だった。
「お前は当主になるでしょ。最強の一人になって、評議会入り」
「…でも私は違う」
彼は少し考えたあと、優しく笑った。
「そのうち分かるさ」
そして、少しだけ楽しそうに続ける。
「もしかしたら――ザ・サムシングがお前を選ぶかもな」
私は即座に否定した。
「ありえない。あれは神話よ」
「ただの、都合のいい物語」
彼は肩をすくめた。
「じゃあ結婚でもするか?」
「主婦とか」
「嫌よ」
即答だった。
「そんな人生、壊れる」
「私は戦う人間よ。誰のものにもならない」
彼はそれ以上何も言わなかった。
静かな沈黙。
私はそっと彼の肩に頭を預けた。
冷たい空気が、心地よかった。
「でも、誇りに思ってる」
私は小さく呟く。
「俺も」
彼は山を見たまま答えた。
「何が?」
一瞬の間。
「二番目なところ」
私は何も言わず、炎を飛ばした。
彼は即座に防ぐ。
そして――
二人で笑った。
山に響く笑い声。
そのまま私たちは走り出した。
子供みたいに。
何も背負わずに。
ただ、その瞬間だけを生きていた。
――分かっていた。
こんな日々は、長くは続かないと。




