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第7話 夜長

「……や……ああっ」


 やっと声が出せた。

全身を包んだブランケットはじっとりと湿っていて、手足は氷のように冷たい。


 まだ、息が苦しい。

胸に手を当てると、心臓は眠っていたところを急に起こされたかのように激しく鳴っていた。


 両目から流れた涙はこめかみを伝って耳元の髪を濡らしている。


 ぎゅっと、自分を抱きしめるように全身を縮める。


 死んでしまうかと思った。

ただの夢と言うにはあまりに生々しい……首をつかまれた時の指先の感触も、凍りつくような水の冷たさもいまだに体に残っていた。


 這うようにしておそるおそる天蓋の外をのぞく。

相変わらず薄暗い部屋、窓辺の机にはインクの瓶と羽根が小さな存在感を示していた。





 朝食の席でだんな様と顔を合わせることはなかった。


 こんなんでいいのかと思ったけど、よく考えたら結婚2日目の朝もだんな様はあたしを置いてさっさと出かけたし、この家では普通なのかもしれない。


 それに……心のどこかでほっとしてる自分もいる。

あたしはだんな様の前でどんな顔をしたらいいのか、よくわからなかった。


 窓辺の椅子に腰掛けて頬杖をつく。

はじめは驚いた窓の外の霧も、もう見慣れてしまった。


 昨日、遊戯室のだんな様は今までとは全然違う顔をしていた。

おそらくあっちが素なんだろう。


 指先に触れた、無機質な煙草の感触を思い出して少し胸がぎゅっとなる。


 言葉はそっけなかったし、愛想なんて全然なかった。

でも、だんな様はあたしが隣にいることを受け入れてくれた。


 机の上の羽根ペンをそっと拾い上げる。

ゆるく弓形を描くしなやかな羽は、先端まで一点のくもりもなく真っ白だ。


 わからない。


 どうしてだんな様はあたしをこの屋敷に呼んだんだろう。

どうして、愛するつもりはないなんて言うんだろう。


 あの部屋での、ただ炎を分け合っただけの時間。

だんな様の隣は驚くほど気楽で、心地よかった。


 あたしはため息をつくと、目を閉じて柔らかい羽にそっと唇を寄せた。





 焦げ目がついたじゃがいものパンケーキの上、厚めに切られた牛肉からは湯気が上がっている。

この家の主がいる日の夕食は、いつもより少し豪華になっている気がした。


 でも、優雅にワインを傾けるような気分にはなれなかった。

もともとそんなに口数が多い人ではないんだろう、だんな様は二言、三言話すと、もう食事に集中していた。


 まあ、そんなことはどうでもいい。


 問題は別のところにあった。

柔らかい肉にナイフを滑らせながら、チラリと向かいの席のクライノートに目をやる。


 なんなの、本当に……わけがわからない。


 クライノートはいつもと同じようにうつむいて、黙々と食事を口に運んでいる。


 それは明らかに異常な光景だった。


 いつもクライノートとセットだったはずの、あれが今日はいない。

あれ……あの、金髪のやつ。


 なんで今日に限ってあの呪い人形……小さなリリーを連れていないんだ?

なんで、誰もそのことに対して何も言わないの?


 夕食の席に、クライノートは手ぶらで現れた。

いつも抱えていた、食事の際は隣に座らせていた小さなリリーはどこへ行ったのか。


 なんだろう……あんなに気味が悪い、見たくないと思っていたのに、実際に目の前から消えるとそれはそれで不気味だ。

姿が見えない分、どこから出てくるかわからないというか、暗がりに潜んでいそうな気持ち悪さがある。


 昨日の、妙にリアルな悪夢が頭をよぎる。


「うそぉつきいいいいい」


 ぐっと、胸がつまったみたいに苦しくなる。

さっきまで牛肉だったはずのものが、急に得体の知れない黒い塊に見えてきた。





「では、おやすみなさいませ」


「ありがとう、おやすみ」


 カトレアが下がったあと、あたしはソファの上で膝を抱えながらきれいに整えられたベッドを見つめた。


 ランプの灯りの届かない、天蓋の奥には静かな闇が広がっている。


 昨夜の、体が逆さまになって溺れる苦しさを思い出して胸が冷たくなる。

もし……彼女がまた現れたら。


 いや、落ち着け。

あたしは小さく息を吐いて、机の上に置かれた白い羽根に視線を移す。


 あんなのただの夢……大丈夫、ちょっと疲れてるだけだ。

子どもじゃないんだから、夜の闇を恐れるなんて馬鹿らしい。


 でも……ざらりと背中に悪寒が走る。

カーテンの裏の暗がりに、何かを見つけてしまったらどうしよう。


 ぎゅっと両手で羽根を包み込む。


「どうしたのぉ」


 首もとをひゅっと風が通り抜けた。


「なやみがあるなら聞くよぉ」


 羽根を握りこんだ手を胸に押し当てる。

背後の鏡に見えてはいけないものが映っていそうで、あたしはもう振り返ることもできなかった。





 嫌だな……廊下、暗い。

暗がりの中から何かがじっとこちらをのぞいている気がする。


 そんなわけはないのに、壁にかけられた肖像画の中に書斎にあった洞穴のような瞳を見つけてしまうのが怖くて顔を上げることができない。


 吹き抜けのホールを通ったとき、ゾクっと体に震えが走った。


 そういえば……時計を見てこなかった。

もしかしたら、巣箱が開く時間かもしれない。


 もう、早く、早く行ってしまおう。

扉が開く前に、妙なものを見つける前に。


 暗闇に追い立てられるように足を急がせて、重厚な扉の前にたどり着いたときには少し息があがっていた。


 はぁーっと大きく呼吸して、扉を見上げる。


 ノックをしようと握りしめた拳がふと止まる。


 本当にこんなことをしていいのか?

もしかしたら、あたしがしようとしていることは何か、どうしようもなく間違ってるんじゃないのか?


 迷いを振りきるように頭を振る。


 ここまで来てしまったのに、何を考えてるんだ。

こんなことに、どうせ正解や間違いなんてない。


 あたしは静かに扉をノックした。


 反応がない……耳をすませても扉の奥の気配はわからない。


 少し沈黙を守ったあと、今度は思いっきり叩く。


 部屋の中から足音が聞こえて、ゆっくりと扉が開いた。


「どうした?」


 寝巻き姿のだんな様は、廊下に立つあたしを眠気と困惑が入り混じったような顔で見ていた。

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