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第6話 水鳥の羽根

 この屋敷ではみんな、あたしのことを『奥様』と呼ぶ。

でも、あたしが『妻』となるのは週末だけだ。


 今日はだんな様が帰ってくる。


 ピカピカに磨きあげられた鏡をのぞきこんで動きが止まる。  


 誰だ……? この女。


 何度かまばたきをして、鏡の中の自分と目を合わせる。

なんだろう、この1週間でずいぶんやつれた気がする。


 こんなシケた面でだんな様の前に出てもいいんだろうか。

いや、あたしを愛するつもりはないらしいし、別にそんなこと気にしなくていいのかもしれない。


「まえがみ切ればぁ?」


 耳元でねっとりと声がして、喉の奥をぎゅっとつかまれたみたいに苦しくなる。

にわかに、張り詰めるように動悸がしてきた。


 やめて……お願い。


「流行りの髪型にしてさぁ」


「やめて!」


 耳を塞いで叫んだとき、背後でドアが開いた。


「だんな様がお帰りです」


 振り返った先、カトレアは表情を動かさずに淡々と告げると、深く頭を下げた。





「お帰りなさいませ」


 ゆっくりと頭を上げると、だんな様は人の良さそうな顔でくしゃっと笑った。


「ただいま」


 こんな顔だったか……1週間も会わないとなんだか知らない人みたいだ。

いや、顔を合わせていたのは半日にも満たないわけだし、他人と同じようなものか。


「お帰りなさい」


 クライノートがおずおずとだんな様を見上げる。

だんな様はしゃがみこんでクライノートの頭を撫でると小さな瓶を手渡した。


「いい子にしてたか? ほら、おみやげ」


 クライノートの手のひらに置かれた可愛らしい瓶の中身は、ピンクや黄色のカラフルなキャンディだった。


「ありがとう」


 クライノートは目を細めて、恥ずかしそうに笑った。

あたしはクライノートのそんな表情は見たことがなかった。


 なんだ、この子笑えるんじゃん。


 相変わらず死体みたいなグロ人形を抱えてはいるけど、そこには確かに父親の帰宅を笑顔で歓迎する娘の姿があった。


 目の前のやけに温かい交流に反して、頭の奥が冷えていく気がした。


 愛するつもりもないのに、だんな様はなんであたしに結婚を申し込んだんだろう。

なんでこんな、霧に閉ざされた屋敷にあたしを押し込めたの?


 もしかしたら、このホールでいちばん場違いな置物はあたしなのかもしれない。


「フリューリンク」


 だんな様は立ちあがるとこちらを向いた。


「あ、はい」


 不意に名前を呼ばれてあたしは硬い表情のままだんな様を見る。


「あー、あの……君の好みとか知らなかったから……」


 なにやらモゴモゴ言いながらだんな様が差し出したのは、真っ白な羽根ペンとインクだった。


「その……喜んでもらえるか、わからないけど」


「はい」


 あたしはそれだけ言うと、ペンとインクの瓶を受け取った。





 家族そろっての食事はやっぱりぎこちなかった。

あたしはさっさと食事を切りあげるとカッコウ時計の扉が開く前に部屋へ戻った。


 机の端に乗せた白い羽根とインクの小瓶を見つめる。

少し青みのある黒インクに飾り気のない実用的なペン。


 そっと指を滑らせると、羽根はなめらかにその形を変える。


「ねえ、カトレア」


 指先で羽根ペンをもてあそびながら、ベッドを整えるカトレアの背中に声をかける。


「なんでしょうか」


 相変わらず感情の読みとれない顔でカトレアが振り返った。


「今くらいの時間ってさ、だんな様は何してるの?」





 遊戯室のドアは重くて、両手で押すとギイィと大げさな音がした。

ろうそくの灯りだけが揺れる中、窓辺に立って煙草を吸っていただんな様は少し驚いた顔であたしを見た。


 板張りの床は硬く、静まりかえった部屋に靴音が妙に響く。

あたしはなるべく自然な動作でだんな様の向かいに立った。


「一本いい?」


 だんな様は不思議そうにまばたきをしたあと、「ああ」と小さく言ってあたしに煙草を差し出した。

指先で受け取った煙草を唇で軽く食む。


 ろうそくの火に煙草を近づけて軽く吸うと口の中にじわりと深い渋みが広がる。


 少しの間息を止めて、体の中が煙で満たされていくのを感じてから、思いっきり吐き出す。

色づいた葉を散らしていく秋の風ような、深い香りが鼻の奥に抜けて、すぅっと胸が軽くなる。


 だんな様は珍しいものでも見るようにあたしを眺めたあと、新しい煙草に火をつけた。


 屋敷内には人もいるはずなのに、分厚い扉に遮られて話し声はおろか、足音さえもこの部屋には届かない。

まるで広大な森の奥、人間の営みから最も遠い場所にふたりでとり残されたみたいだ。


 あたし達はしばらく何も言わずにただ煙を吐き出していた。


「羽根、ありがとう」


 灰皿に目を落としながら小さく言った。

音のない部屋、あたしの声は少しだけ空気を震わせて、すぐに壁に吸い込まれる。


「嬉しかった」


 再び煙草を唇に挟むとあたしは軽く煙を吐き出した。


「それはよかった」


 だんな様はふうと息を吐いて気のない返事を返す。


 再び音のない、煙だけの秩序が戻ってきた。

風の音すらしない……世界から切り取られたかのように、ここは本当に静かだ。


「何を書こうかな」


 静寂を壊さないように、あたしはそっと口を開く。


「なんでもいいさ、きみの好きにしたらいい」


 だんな様は表情を変えずに言った。


 吸い終わった煙草を灰皿に落としたとき、指の間に新しい煙草がそっと差し込まれた。

驚いて顔を上げると、だんな様はまっすぐにこちらを見ていた。


 ゆらりと、瞳の中にろうそくの炎が揺れる。

だんな様もあたしの中の炎を見ているのだろうか。


 あたしは口元に煙草を運ぶと、炎に向かって身をかがめた。


 吐き出した煙はゆっくりと混じりあって天井へ昇ってゆく。


 だんな様が何を考えているのかはわからない。

でも、少なくともこの煙草を吸い終わるまでは、あたしはだんな様の隣に立っていてもいいみたいだ。


 会話も、笑い声もない。

わずかな呼吸だけが空気に小さな穴を開けて、それもすぐに部屋を包む静寂に飲み込まれていく。


 音の消えた空間は、不思議とあたしの心を落ち着かせた。


 こんな静かな夜も悪くない。

ゆらりと輪郭がぼやけていくような感覚に身を任せながら、ゆっくりと煙を吐いたときだった。


「体に悪いよぅ」


 耳元で妙に鮮明な声が聞こえて心臓が凍りついたように冷たくなった。

にわかに、指先がふるえて煙草を落としそうになる。


「どうした? 寒いか?」


 だんな様の言葉に、動揺を悟られないよう低い声で「なんでもない」と返すと、あたしは吸いさしの煙草を灰皿に置いた。


 お願いだからもうやめて。

なんで、こんなところまで追いかけてくるの?


「優しいお母さんになりたいなぁ」


 灰皿に置いた吸いさしからはくすぶったような煙が細く上がっていた。





 モスグリーンのカーテンの向こう、ベッドの側に誰かの後ろ姿が見える。

どろどろに濡れそぼった長い金髪は、暗い部屋の中で異様なほど光っていた。


「どうして」


 頭の中に声が響く。


「どうしてなの」


 嫌だ……あんなもの見たくはない。

こんな声は聞きたくないのに、凍りついたように体が動かない。


「ねえ」


 声が出ない。

喉の奥に布でも詰まっているみたいに、息が苦しい。


「ねええええ」


 ぐるりと、よろけるように体を傾がせてから彼女は振り返った。


 光のない真っ暗な瞳、だらりと開いた口の端では黒い、足の生えた魚のようなものがぐねぐねとうごめいている。


 逃げだしてしまいたいのに、顔を背けることも、目を閉じることさえ彼女は許してくれない。


 彼女は一度体を大きくのけぞらせてから、倒れ込むようにあたしに覆い被さった。


「ねええええ」


 口からこぼれ出た黒いものがべちゃりとあたしの頬に落ちる。


 なんだ、これ……湿っているのに、かさかさと頬を掻くような手足は鳥の足先のように細く、角ばっている。

ぶよぶよした、温かくも冷たくもない生ぬるい手があたしの首を包む。


 やめて、お願い……誰か助けて。


 体が言うことをきかない。

声を上げたくても、開いた口から出てくるのは切れ切れになった吐息ばかりだ。


 いや、嫌だ、死ぬのは嫌。


「うそつきいいい」


 洞穴のような目はもう景色を映していないのかあさっての方向を向きながら、手は首元から少しずつ下がって、鎖骨の下、あたしの胸の中心を強く押した。


 まるで巣穴にでも戻るように、開いたままの口に黒いかたまりがぬるりとすべりこんでくる。


 そこはもう、モスグリーンのベッドではなかった。

背中の下にあったはずの世界は頼りなく崩れて、あたしは真っ逆さまに冷たい沼の底に沈んでいった。

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