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第5話 小さなリリー

 闇の中、頭からブランケットをかぶって全身をぎゅっと丸める。


「冷たい」


 知らない。


「冷たい」


 こんな声は知らない。


「冷たぁい」


 きつく閉じたまぶたの裏に不吉な光景が浮かぶ。

知らない、あんなものあたしは知らない。


 じっとりと暗闇がその濃度を増す。


「冷た……あ」


 ひとつの言葉を単調に繰り返していただけの声が、どこか笑いを含んだものに変わった。


「気づいたんだ」





 全身がぐっしょりと濡れていた。

一晩中あたしをくるんでいたブランケットは湿っていて、首には髪の毛がべったりとへばりついていた。


 眠った覚えはない……でも、目が覚めたってことは寝ていたんだろう。


 今日は一段と空が暗い。

この屋敷に来てからいちども太陽を見ていない気がする。

晴れた日の空というのはいったいどんな色をしていたのか、もう思い出せない。


「ねえ」


 濡れた首すじを這うように、くぐもった声がからみつく。


「ねえぇ」


 肌に貼り付いた寝巻きをはがして着替えると、あたしは思いっきり呼び鈴を振り回した。

この際あの無愛想な女でも誰でもいい。


「聞こえてるんでしょぉ」


 耳元から入り込んで頭に染みつくような……決して聞こえてはいけない声。

ほかの声で上書きできるなら、もうそれはどんな音でもよかった。


「冷たい……冷たいの……助けてよぅ」


 本来、静かな揺れを想定されている呼び鈴は激しく振られてがきゃんがきゃん不自然な音を立てる。


 カトレアは何をしてるんだ。

いつも監視してるのかってくらいすぐに現れるのに、今日に限って遅い。


「ねえええ」


 お願い、早く来て……助けて、あたしを、ここから出して。

必死に振った呼び鈴の音はまるで悲鳴のようだった。





 張り付いたような無表情で淡々と部屋を整えて朝食の支度をするカトレアを見ていたら、不思議と平常心が戻ってきた。

無愛想に仕事をこなすカトレアの存在があたしにとって日常になりつつあるのかもしれない。


 もし、今日に限ってカトレアがうきうきでスキップでもしてたら、あたしは叫び声をあげていただろう。


 耳元の声はなりをひそめて、とりあえず胸を撫でおろす。

なんというか……なんでも慣れてしまうものなんだな。


 相変わらずにこりともしないカトレアに妙な安心感を覚えながら、あたしは食堂へ向かった。


 異変はそこで起きた。


「お……おお、おはようございます」


 ホールで置物のように固まっていた黒い影があたしの姿をみとめるなりボソボソと喋りだした。


 え……なに?

喉の奥に石が詰まったみたいに、呼吸がうまくできなくなる。


「あ、あの、朝食を……ごいっしょしても、よろしいでしょうか……」


 うつむきながら話すクライノートのくぐもった声を聞いていたら、全身にゾクっと震えが走った。

なんだ、これ……何が起こってる?


 もしかして、『声』のせいで、この家の何かがおかしくなっているんだろうか。


 あたしは横目で入り口を見た。

無機物に冬眠は必要ないのか、相変わらずカエルは恨みがましい目で斜め上をにらんでいる。


「うん、いいけど」


 動悸をおさえながら、あたしはやっとそれだけ言った。


 クライノートの腕の中、まるで水死体のように不自然に傾げている人形の口元がでろりとほころんで、赤い歯ぐきがのぞく。


「つめたぁ」





 パンの味なんてわからなかった。


 見ないように見ないように意識するほど人形の存在がべっとりとあたしの中に絡みついて離れなくなる。

記憶にないはずの不吉な景色がまた脳裏に浮かぶ。


 嫌だ……本当に嫌だ。

なんであたしはこんなことばっかり考えてしまうんだろう。


「冷たい……つめたいいいいい」


 頭のなかにじっとりと声が響く。


 うるせぇ!

振り払うようにあたしは一気に紅茶を喉に流し込む。


「熱っつ!」


 大きい声に驚いたのか、向かいの席にいるクライノートがびくっと体をこわばらせた。

あたしはティーカップをソーサーに置くと、手を合わせて席を立った。





 いや、熱すぎんだろ……殺す気か。

さっきの紅茶がいま体のどの辺にあるかわかるくらい熱い。


 あたしは胃のあたりを手でさすりながらよろよろとホールに出た。


 あのクソ気持ち悪い溺死体人形を見るのが嫌でさっさと食事をきりあげたものの、部屋に戻ったらまた声が聞こえるかもしれない。

だからと言って書斎には呪いの絵があるし、外は霧にまみれて何も見えない。


 なんなんだこの屋敷は……まるであたしを追い詰めて楽しんでるみたいだ。


 カタン、扉が開く音で全身が総毛立つ。


 キイイ、キイイと金属がこすれる嫌な音がする。


 うわ……忘れてた、扉が開く時間だ。

あたしは暗闇を見ないようカッコウ時計に背を向ける。


「ころされた」


 ぬるりと、くぐもった声が響く。


「ころされたぁ」


 ぶんぶん頭を振ってあたしは時計を見上げた。

奥の暗闇を隠すように、扉はかたく閉じられている。


「ああ……苦しい……苦しい」


 食堂から椅子を引く音が聞こえて、あたしはあわてて階段を駆け上がった。





 モスグリーンの天蓋がまるで沼に浮かぶ藻みたいに重苦しい。


「冷たい……冷たいよぅ」


 声が聞こえるたびに全身に寒気が走ってあたしはぎゅっと身を縮める。


「いや……死ぬのはいや……」


 沼で見た、記憶にないはずの風景。

どろりと、何も映しださない人形の瞳。


 あたしはぎゅっと枕に顔を押しつける。


 考えすぎだ。

だから変な声が聞こえるんだ。


 カッコウ時計は壊れてるだけだし、あの人形とかカエルはデザインがちょっと前衛的なだけだ。

書斎の隠し扉だって、ほら、きっと先代の秘蔵の……なんかきっとその手のやつだ。


 関連付けようとするからおかしくなる。

あたしはきっと変な妄想に取り付かれてるだけだ。


「寂しいよぅ」


 絶望に歪んだ瞳で沼に浮かぶ、美しかった彼女。


「助けてよぅ」


 あたしは、あんなものは知らない。





 焼き目のついたパイにナイフを入れると、とろりと溶けたチーズと共にキノコとほうれん草が出てきた。


 見るからに熱そうだ……さっさと食べ終わりたいから、食べるのに時間がかかりそうなやつは勘弁してほしい。


「こ、この子は……小さなリリーっていうの」


 クライノートがモゴモゴ何かを言いながら人形を抱き上げた。

ぐにゃりと、四肢が変な角度に曲がる。


「ああ、そう」


 うるせえ、食事中に気持ち悪いもん見せるな。

あたしはなるべく人形を視界に入れないように、燭台を飾るぶどうの装飾を見る。


「苦しい……苦しい……」


 この、グロテスクなものを強制的に見せる行為は、もしかしてあたしへの嫌がらせなんだろうか。


「おくさま、あの……沼はどうでしたか?」


 沼ときいて、またあの景色が浮かぶ。

なんなんだ、本当に……そんなことを聞いて何が楽しいの?


「何も見えなかったわ……霧で」


 視界の端で人形がニタリと笑った気がした。


「うそつきぃ」

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