第4話 謎の声
「ほとんどは常緑樹のモミなんすけど、もう少し行ったらブナの林があるんで、今の時期は紅葉して綺麗っすよ」
見習い庭師のガルテンが軽い調子で話すのを適当に相槌をうちながら聞く。
今日はガルテンの案内で屋敷の外にある森を散歩していた。
書斎も安住の地にはならなかったあたしにとって、屋敷の外の空気を吸うのは確かに気分を変えるのにはいいかもしれない。
カッコウ時計の音も屋敷の外までは届かないだろう。
でも……あたしは空を見上げる。
そういうのってさ、普通もっと天気がいい日にやるもんじゃないの?
相変わらず分厚い雲が居座る空の下、モミだかブナだか、木の輪郭は濃い霧に阻まれてぼやけていく。
「降誕祭のツリーとかリースもこの森のモミを使うんすよ、もう、圧巻っす!」
案内人は、霧に覆われた木々に向かって手を広げながら楽しそうに笑った。
◇
季節はずれのハーブ園はどこか寒々しかった。
「食事に使うハーブとかもここで作ってるんです。今はまあ、こんなですけど、夏になると花も咲いて結構いい感じっすよ」
ガルテンの説明を聞きながらぐるりと園内を見まわす。
まさか、毒草とか育ててないよな……歩きながら観察を試みたけど、一回読んだだけの図鑑の内容なんて大して頭に入ってはいないし、そもそも霧が邪魔して植物の正体なんてわからなかった。
ハーブ園を抜けて歩いていくと霧はさらに深くなって、じっとりと水のにおいがしてきた。
「あ、足元気をつけてくださいね、そんなに深くはないっすけど、すべりやすいんで」
霧に包まれた木立の先に見えてきたのは、広大な沼だった。
何も映し出さない暗い湖面を見た瞬間、ひやりと、冷たい手で心臓を包まれたような寒気を感じた。
にわかに足元から震えが上がってきて、あたしは両腕で自分を抱きしめるように肩を縮める。
「カモ、いるでしょう」
ガルテンの声に顔をあげる。
瞬間、全身に戦慄が走った。
なにが、カモだって?
ガルテンが呑気に指をさした先……霧の中に浮かび上がってきたのは、見えてはいけない光景だった。
女が、沼に浮いている。
美しかった金髪はふやけきった肌に藻のようにからみついて、全てに絶望したように開かれた目は光を失っている。
だらりと弛緩した唇からは妙に赤い歯肉がむき出しになっていた。
「あれね、今でも普通に美味いっすけど、もう少し寒くなって油が乗ったらもう最高で」
不吉な光景を振り払うように首を振って再び顔をあげると、霧に包まれた沼には鴨が羽を揺らしながら群れをなして泳いでいた。
「好きっすか? カモ」
笑顔で振り返ったガルテンの表情が変わる。
「あ、寒いっすか?」
あたしがよっぽど酷い顔をしていたのか、ガルテンは焦ったように言った。
「すみません気がつかなくて、そろそろ戻りましょうか」
あたしはゆっくり首を振る。
「ううん、大丈夫」
視線の先で、カモは湖面をすいすいと気持ちよさそうに泳いでいく。
もう少し寒くなって油が乗ったら、彼らは羽をむしられてオーブンへ閉じ込められるのだろうか。
「カエルの鳴き声はこの沼からしてたのね」
誰にともなしに言うと、ガルテンは怪訝そうに首を傾げた。
「カエル? 確かにカエルはいますけど」
ガルテンは再び沼に視線を移す。
霧はさらに濃くなって、さっきまで見えていたカモの姿もぼやけていく。
「あいつらが鳴くのは春か、せいぜい秋口までっすよ。今ごろはもう、ケロちゃん達は冬眠っす」
◇
「では、おやすみなさいませ」
「ちょっとまって」
丁寧な礼をして部屋を出て行こうとするカトレアをあたしは呼び止めた。
カトレアは相変わらず表情を変えずに静かな目であたしを見た。
「あの、その……」
あたしは声を低くする。
「前の奥様って、なんで亡くなったの?」
カトレアは小さく眉根を寄せてから、感情の乗らない声で答えた。
「前の奥様……ブリーゼ様は、ご病気で亡くなられました」
病気……小石が混ざったみたいに胸が重くなる。
再び頭を下げるとカトレアはさっさと部屋を出ていった。
廊下を歩くカトレアの足音はすぐに聞こえなくなった。
あたしはしばらくドアの前に立っていた。
耳元ではギャアギャアカエルが騒いでいる。
違う。
カエルなんていなかった。
最初から鳴いてなんていなかった。
だったら、この声、耳にこびりついて離れないこの声は……
カエルの鳴き声、あたしがそう思い込もうとしていた音は耳の奥で分解され、やがてひとつの声となってあたしの耳元へ帰ってきた。
「つめたぁい」
低くて、妙に粘っこい、女の声だった。




