第2話 消えた小鳥
分厚く切られたパンにバターを塗ってかぶりつく。
ざくっと、なめらかな塩気とともに口の中に小麦の香りが広がる。
しかし……ごくんとパンを飲み下して息をつく。
アカデミーで寮に入っていたから、ひとりで食事をとるのは慣れている。
でも、この空間は妙に落ち着かなかった。
咀嚼する音まで聞こえそうな静寂のなか、カトレアはすぐ後ろであたしの様子を窺っている。
「クライノートは?」
あたしは皿の上に視線を置いたまま言った。
「まだお休みです」
相変わらず感情の乗らない声で短い答えが返ってくる。
背中に嫌な緊張が走った。
まだ来てないなら、これから入ってくるかもしれないってことだ。
別にクライノート本人はいい。
見てるだけで気が滅入るくらい辛気くさいし、愛想のかけらもないけど無害だ。
嫌なのは、あれだ……あの人形。
どろりと、穴のあいたような暗い瞳が脳裏に浮かんで、打ち消すように頭を振る。
扉を見つめる。
今にも人形を抱えたクライノートが入ってきそうで気が気でない。
もう、早く食べ終えてしまおう。
それでさっさと部屋へ戻ろう。
ぎゅっとパンを口の中につめこむと、紅茶を流し込んだ。
ほんのり蜂蜜とカルダモンの香りがする紅茶は火傷しそうなほど熱かった。
◇
まるで世界から隠されているかのように、ホールは薄暗い。
おそるおそる入り口を見ると、昨日のガマガエルは相変わらずぬめりとした質感をたたえながらじっと階上を睨みつけている。
やっぱり、見間違いじゃなかった。
沼から連れてこられたような無機物は、まるであたしを屋敷から逃さないための番人みたいだ。
置物に背を向けて階段を上がる。
太陽の光の届かないこの空間は、時間が止まっているかのような錯覚に陥る。
踊り場のカッコウ時計を見上げると、ちょうど針は10時を指したところだった。
カタン、と大げさな音を立てて巣箱の扉が開く。
悲鳴をあげそうになった。
開いた扉の奥……本来なら時を告げる小鳥が棲むはずの巣箱からは何も出てくることはなく、ただ深い闇だけがのぞいていた。
キリリ、キリリときしむような歯車の音が辺りに響きわたる。
主のいない巣箱はやがて決まりきった動きのように扉を閉じた。
なんだ、あれ……壊れてる? でも……
「カッコウ……いなくなっちゃったの」
空気を震わせるような細い声が足元から聞こえて、階段から落ちそうになる。
手すりを強くつかんで声のした方を見ると、クライノートがカッコウ時計を見上げていた。
人形の暗い瞳がぎょろりとこちらを見た気がしてあわてて視線を上に向けると、今度はカッコウ時計が目に入る。
空の巣箱は、今は固く扉を閉じている。
クライノートは何事もなかったように階段を下って、食堂へと入っていった。
はじめて喋った言葉がアレかよ。
クライノートが立ち止まっていた辺りに目をやって、あたしは今度こそ悲鳴をあげた。
昨日は気づかなかった……手すりの隙間、小さなガマガエルが斜め上を見つめて口を開けていた。
◇
「一年ほど前から、カッコウが出てこなくなったんです」
なんでもないことのようにカトレアは言った。
いや、明らかに壊れてるだろ……直せよ。
ものすごく言いたかったけど、あたしは言葉を飲み込んだ。
この屋敷の住人が「これでよい」と判断したことだ。
昨日来たばっかりのあたしが口を挟むことじゃないんだろう。
カトレアが部屋を出ていったあと、ソファの上で膝を抱え込む。
もしかして、あたしがおかしいの?
不自然に配置されたカエル、消えた小鳥、そして、悪意を持って造形されたとしか思えない人形。
この屋敷でだれも気にとめていない……あたしが過剰に反応してるだけなんだろうか。
さっきから、カエルの鳴き声が妙に響く。
あたしはよろよろとソファから立ち上がるとベッドに潜り込んでブランケットにくるまった。
眠ってしまおう……きっと、疲れてるんだ。
目を閉じると、共鳴するようなカエルの声に紛れて、空っぽの巣箱の扉が開いた音がした。
◇
ああ、早くこの時間が終わればいいのに。
ろうそくの炎が揺れる中、薄切りにされた肉とじゃがいもの丸焼きを黙々と口に運ぶ。
あたしは向かいに座ってるクソガキとの会話を早々に諦めていた。
最初こそ「おいしい?」だの「今日は何をしてたの?」だのにこやかに話しかけていたけど、うつむいて首を振るだけでひとつも反応なんて返ってこない。
そして横の椅子には相変わらずこの世の呪いのすべてを集めて作られたような人形がぐにゃりともたれかかっている。
もしかしたら可愛いかも……と自分を騙そうと試みたけど、視界に入れるたびに精神に何らかの害が蓄積される気がする。
あたしはちらっと食堂の時計を見る。
巣箱が開くのはおそらく1時間に一回。
さっさと食べ終われば開くところを見ずに部屋に帰れる。
昨日から、食事とは目の前にある食べ物をひたすら口に詰め込むだけの儀式に変わったみたいだ。
かつてはどんなふうにものを味わっていたのか、もう思い出せない気がした。
◇
カエルがうるさい。
寝返りをうちながら両手で耳を塞ぐ。
どうしても、ホールで見たカエルのイボだらけの背中を思い出す。
そんなはずはないのに、あの置物が鳴き声をあげて、屋敷中飛び跳ねているような嫌な想像をしてしまう。
もう早く朝、明日になって欲しい。
ぎゅっと閉じた目の奥に、人形の歪んだ微笑みが浮かんだ。




