第13話 春の行方
誰かが手を握っている。
あなたは、誰?
手のひらの正体を確かめたいのに、どうしても目をひらくことができない。
優しく重ねられた手は温かくて、柔らかくて、どこか懐かしい匂いがした。
◇
一番はじめに目に入ったのはモスグリーンの天蓋だった。
「お……」
体が重くて、頭がはっきりしない。
「おくさま」
ぼんやりと声が聞こえた方を向くと、ベッドサイドでクライノートがあたしの手を握っていた。
なんだ、この状況。
なんでクライノートがあたしの部屋にいるの?
クライノートは泣きそうな顔であたしを見ながら小さな声で言った。
「あの、カトレアを呼びます」
「あ、待って」
はなれそうになった手を握る。
クライノートは不安そうな顔で振り返った。
こんな顔だったか……ちゃんと前を向いたら、なかなか愛らしい顔をしている。
思えば、こんなふうに落ち着いてクライノートと向き合ったのは初めてかもしれない。
「あ、いや、なんでもない」
あたしは、この継娘との接し方がいまだによくわからない。
クライノートが呼び鈴を鳴らすと、軽い足音がしてすぐにカトレアが現れた。
「奥様!」
興奮した様子でベッドサイドに駆け寄ると、あたしの額に手を当てながらカトレアは大きく息を吐いた。
「ああー、よかった」
ああ、この女にも感情はあったんだな。
あたしの額に乗った手は細くて、生温かった。
「ねえ、のどが渇いた」
気だるい声で言うと、カトレアは姿勢を正して頭を下げた。
「すぐに、お茶をお持ちします」
足早に部屋を出ていくカトレアを焦点の合わない目で見送って、再び天蓋を見つめた。
ゆったりと流れるカーテンは、今日も無表情にあたしを見下ろしている。
枕に片頬を押しつけて、きゅっと体を縮める。
どうやら、あたしはまだこっちの世界にいてもいいみたいだ。
◇
沼に落ちてからあたしは丸2日も寝込んでいた。
そんなに長いこと寝てたのかと驚く反面、もっと長い時間が経った気もするし、なんだか不思議な気分だった。
意識がない間、クライノートはずっと側で手を握っていたらしい。
次に目を覚ましたらだんな様がいた。
もうそんな時期か……なんだかずっとベッドにいるせいか、あまり時間の感覚がない。
あたしが目を開けたことに気づくと、だんな様はゆっくりとこちらを見た。
「フリューリンク」
静かな声で名前を呼ぶと、だんな様はあたしの髪を撫でた。
「お友達が亡くなったのは君のせいじゃない」
低い声が柔らかくあたしに沁み込んでいく。
だんな様は……知っているの?
そっと視線を上げると、だんな様は穏やかな目であたしを見ていた。
聞きたいことはいろいろあったけど、優しい手のひらが心地よくて、あたしはまた眠りの世界に揺り戻されていく。
窓からは西日がゆるく差し込んでいた。
◇
音もなく、小さな鍵がテーブルの上に置かれた。
「では、こちらを」
テーブルを挟んだ向かい側、ソファに腰掛けたカトレアは素朴に綴じられた紙の束を差し出した。
ざわっと、緊張感が飛来する。
「あのさ、もう一回聞くけど……」
あたしは『春をさがせ!』の文字をじっと見つめる。
「本当に、ほんっとうに、怖い絵とか、気持ち悪い絵はない? 大丈夫?」
カトレアはパラパラとページをめくると表情を変えずに言った。
「6ページ目に少し衝撃的な絵がありますが、それほどでもありません。1ページが平気でしたら大丈夫かと」
嫌な情報を聞いてしまった。
その1ページが平気じゃなかったから確認したのに。
いや、覚悟を決めろ。
胸に手を当ててふぅーっと息を吐く。
1ページ目を開かないよう細心の注意をはらいながら、あたしは冊子を開いた。
◇
『春をさがせ!』
「ねえ、カッコウがいなくなっちゃった。これじゃあ春がこないわ」
クライノートがこまっていると、なかよしのちいさなリリーはいいました。
「じゃあ、カッコウをさがしにいきましょう」
「きまぐれやのカッコウをさがしているのかい?」
ものしりのカエルさんがいいました。
「あんないしてあげるよ。ついておいで」
カエルさんについていくと、やがてしょさいのほんだなのまえにつきました。
「このほんだな、うごくよ」
ちいさなリリーがほんだなをうごかすと、ひみつのとびらがあらわれました。
「カギがかかっているわ」
クライノートがドアノブをひいても、とびらはびくともしません。
そのとき、ちいさなリリーがいいました。
「いままでなかよくしてくれてありがとう。クライノートといっしょにいられてたのしかったわ」
ちいさなリリーはわらいながらりょうてでくびをもちあげました。
そのときです、ちいさなリリーのあたまのなかから、ちいさなちいさなカギがあらわれました。
「ありがとう。ちいさなリリー」
クライノートはカギをひろうと、とびらをあけました。
◇
小さな鍵を差し込むと、かちゃりと軽い音を立てて鍵は開いた。
おそるおそる扉を引くと、奥には細くて急な階段があった。
「以前、クライノート様にもお見せしたのですが、絵柄が恐ろしかったのか泣いてしまわれて」
後ろを歩きながらカトレアが言った。
当たり前だろ……グロテスクな絵を思い出してまた胸が悪くなる。
カトレアが言ってた首切断のシーンも確かにエグかったけど、それよりカエル登場の方が精神的にクるものがあった。
なんであんなに気持ち悪く描けるんだろう、毒々しい筆使いのせいで、しばらく青野菜が食べられなくなりそうだ。
階段を上り切った先に屋根裏に続く小さな扉があらわれた。
少し呼吸を整えて、あたしは扉を開ける。
埃っぽくて天井の低い部屋、窓辺に置かれた小さな机の上に、木彫りのカッコウがちょこんと止まっていた。
カッコウの足元には、真っ白な封筒が置かれている。
あたしは封筒から4つ折にされた便箋を取り出すと、そっと広げた。
◇
かわいいかわいいクライノートへ
ついにみつかっちゃった、おかあさまです。
ちいさいあなたをおいていってしまって、ほんとうにごめんなさい。
でも、どうかさびしがらないで。
だって、わたしはいつでもあなたのそばにいるから。
春、みちばたでほほえむ花の中に、夏、かみをゆらしていくかぜの中に、冬、てのひらをあたためるだんろの中に、あなたがやすらぎをかんじるとき、わたしはいつだってあなたのそばにいます。
あなたのそばで、なんどでもあなたをだきしめています。
クライノート、わたしのいちばんのたからもの。
おかあさまは、あなたにあうことができてしあわせでした。
生まれてきてくれてほんとうにありがとう。
◇
あたしは手紙を折りたたむと、封筒に入れて机に戻した。
机の上、特別な役割を与えられて巣箱を離れた小鳥はどこか誇らしげにも見える。
そう……結婚初日からあたしがビビり散らかしてきたこの屋敷の怪異の正体は、亡き母が娘に遺したまわりくどすぎる愛のメッセージだったのだ。
窓の外を見ると、針葉樹の森と黄金色のブナの林の先、広大な沼が太陽の光を受けて輝いていた。
「ねえ、カトレア」
あたしは景色から目を離さずに言った。
「なんでしょうか」
「あのさ、木の間にこう、丸太を渡してさ、ブランコとか作れないかな」
少し間を置いたあと、カトレアは抑揚のない声で答えた。
「はい、ガルテンに言いつければできるかと」
振り返ると、やっぱりカトレアはいつも通りの無表情だった。
「あとで絵を描くわ」
羽根ペンの使い道が決まった。
◇
クライノートは静かに眠っていた。
無垢っていうのはこういう顔を言うんだろう、苦しみとか、憎しみとか、そんな世の中の煩わしいものからは切り離されたような、本当に何もない、まっさらな寝顔。
あなたも、誰かの宝物だったんだね。
ベッドの横にひざをついて、柔らかそうな頬を見つめる。
ごめん、クライノート。
あたしはあなたの母親にはなれない……本当にごめん。
母親のような愛情で誰かを包むには、あたしはあまりにも未熟すぎる。
あたしには、あなたがなくしてしまったものを埋めることはできないんだ。
クライノートは静かに寝息を立てている。
手を握ったり、頭を撫でたりしてもいいのかな……でも起こしちゃうかもしれない。
なんだか、この神聖な眠りを邪魔するのはとても罪深いことのような気がした。
「部屋にいないと思ったら、こんなところにいたのか」
いつの間にかだんな様が隣に立っていた。
だんな様は優しい目でクライノートをみつめながら、慣れた手つきでブランケットを掛け直すと、そっと髪を撫でた。
◇
暖炉で燃える炎が頬を照らす。
「だんな様は知ってたのね、あたしが……悪女なこと」
ソファに座ってブランデーのグラスを傾ける。
だんな様に付きあって飲んでみたけど、想像してたよりはるかに強い酒で、ちょっとずつしか飲めない。
「君を見かけたのは、本当に偶然だった」
だんな様は琥珀色の液体を美味しそうに飲みながら話し始めた。
リリエッタの葬儀の日、だんな様は前妻の墓参りで墓地を訪れていた。
「そのとき、離れた場所でひとり涙を流している君を見かけて、妙に気になったんだ」
あの日、あたしは自分の手で壊してしまったもの、二度と戻らないものの大きさに押しつぶされて、後悔と絶望の中で泣いていた。
「それで、あたしに結婚を申し込んだの?」
だんな様はあたしの目を見て、ゆっくりと頷いた。
教会の牧師からあたしの『罪状』はあらかた聞いたらしい。
「でも、君はとてもそんな、悪女には見えなかった……どこか俺と同じような気がしたんだ」
「同じ?」
だんな様はブランデーをひと口飲むとグラスを置いた。
静かな目はグラスに映る炎を見つめている。
「君も、何かを失ってしまった人なんじゃないかって」
ぐっと、胸が痛んだ。
失ってしまったもの……あたしが、壊してしまった大事なもの。
「ブリーゼ……前の妻が亡くなってから、家は火が消えたようだった。俺もクライノートも必死に悲しみを乗り越えてる途中で、それで、そんな子が家にいてもいいと思ったんだ」
あたしは両手でグラスを包んでブランデーを口に含む。
強いお酒は喉をゆっくり伝って、体の中で熱を持ちはじめる。
「修道院に入るくらいなら、しばらくうちで過ごして、復学するなり、就職するなり、この先のことをゆっくり決めればいいって、その時はそう思ってさ」
だんな様はグラスに目を落としたまま静かに笑った。
それで「君を愛するつもりはない」か。
あたしはテーブルにグラスを置いてだんな様を見つめる。
「ねえ、だんな様」
だんな様はゆっくり顔を上げた。
一方向だった視線がすっと合わさる。
「それはさ、愛とは違うの?」
パチンと、暖炉で炎の爆ぜる音が聞こえる。
だんな様はすいと目をそらすと、テーブルの脇に置いてあった煙草を取り出した。
「吸うか?」
それは……答えになってない。
あたしは納得がいかないまま、煙草を受け取って火をつける。
全く、こんなんで煙に巻いたつもりだろうか。
煙に乗せて、細く、長い息を吐き出す。
なんとなくわかってきた。
だんな様は、不器用だ。
◇
あれ以来、もう目を閉じても、どれだけ耳をすましても、『あの声』が聞こえることはなかった。
カタン、と空の巣箱が開く。
自由で気まぐれな小鳥は退屈な巣箱を留守にして、今日も屋根裏で見つけてもらうのを待っている。
「あのさ、だんな様」
きれいに整えられた仕事着に身を包んで、だんな様は少し物憂げにこちらを見た。
「どうした? フリューリンク」
「えっと、あの」
なんだか照れてちょっと視線を外す。
ホールの入り口、ガマガエルは相変わらず斜め上をにらんでいる。
軽く息を吐いて再びだんな様の顔を見るとあたしは口を開いた。
「あたし、だんな様のこともっと知りたい。ちゃんと帰ってきてね」
視線の先、だんな様はふっと優しい顔で笑うと、あたしの頭をぐりぐり撫でた。
「ああ、じゃあまた週末にな」
なんだよもう、子ども扱いして。
頬がゆるんでしまうのを誤魔化すように、あたしは深く頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
顔を上げたとき、開いたドアからは朝日がまぶしく差し込むのが見えた。




