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第12話 親愛なる

 彼女は美しかった。

そして、あたしたちは確かに友達だった。





 新緑が揺れる。

ガラス戸を開け放したテラスには、若葉を透かした光が優しく差していた。


 深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。


「体に悪いよ」


 隣で心配そうにリリエッタが言った。


 真珠のようになめらかな肌にばら色の頬、柔らかく光る金色の髪、リリエッタはいつ見ても奇跡のように美しかった。


「じゃあ、これ吸ったら終わりにするよ」


 あたしは思いっきり煙を吸いこむ。

深い木々の香りが喉の奥に抜けて、頭がふわっと軽くなる。


 あたしとリリエッタは王立アカデミーの同級生だった。

リリエッタは伯爵令嬢でうちは男爵家、家柄は違うけど、とても仲が良い友達だったと思う。


 リリエッタは紅茶をひと口飲むとため息をついた。


「ヴァールハイトが、先輩と仲良さそうにしてるのを見たの」


 長い睫毛に縁どられたはしばみ色の瞳が物憂げに翳る。


「この前とは、また違う人」


 リリエッタのため息の原因は、ひとつ年上の婚約者、ヴァールハイト王子だ。

端正な顔立ちに、優しくて気取らない雰囲気をたたえたヴァールハイトは女子学生の憧れの的で、真偽のほどはともかく、彼のまわりでは浮わついた話が絶えなかった。


「このまま結婚して、本当にうまくやっていけるのかな」


 リリエッタは不安そうにティーカップを見つめる。


「大丈夫だよ。他の女の子とどれだけ遊んだって、婚約者はリリエッタだけなんだから」


 あたしは小さく笑って、ぎゅっと灰皿に煙草を押しつけた。


「それに、ヴァールハイトさまみたいにかっこよくてモテる人のいちばんになれるなんて、素敵じゃない?」


「全然素敵じゃないよー」


 頬杖をつくと、リリエッタは遠い目でぼやく。


「確かにヴァールハイトはかっこいいし、女の子の扱いも上手いんだろうけど……今からこんなんで、ちゃんとした温かい家庭を築けるのか不安だよ」


 リリエッタは横目であたしを見た。


「ハーゼルみたいに、かっこよくなくて面白みがなくても、凡庸で優しい人の方が絶対にいいって」


 ハーゼルというのはあたしの婚約者だ。

父親の友人の息子であたしとは幼なじみだった。


「なんていうか、素朴でさ、フリューリンクとハーゼルはすごくぴったりだと思う」


 リリエッタはそう言って静かにティーカップを傾ける。


「優しいお母さんになりたいのになあ」


 ふうと息をついてリリエッタが言った。


「なれるよ、リリエッタなら」


 あたしは2本目の煙草に火をつけた。





「愛してるのはリリエッタだけだ」


 ヴァールハイトはさらりと言ってのけた。


「結婚したあとはリリエッタただひとりを愛し続けるんだ。だからそれ以外は全部結婚するまでの遊び、そのあたり、ちゃんとわかってる子としか遊ばないから大丈夫」


 軽い調子で言うと、ヴァールハイトは得意気に笑った。


 バカな男だ……口ではなんと言っていたって、女なんてそんなふうに割りきれるものではないのに。

この人はこうやっていたずらに、どれだけの女性を泣かせてきたんだろう。

どれだけの恋を、罪深い森へ迷わせてきたんだろう。


「フリューリンク……君は、そんな話がしたくて来たの?」


 ゆらりと、ヴァールハイトの目に欲望が灯る。


「違う……」


 言葉を発するのももどかしく、あたしはヴァールハイトを見上げる。


「お願い……早く」


 彼は愉快そうに笑うと、じっと、味わうかのようにあたしの目をのぞきこんだあと、ゆっくりと唇を重ねた。

じわじわと広がる甘い衝動に全身を震わせながら、あたしは必死で背中に腕をまわす。


 いったい、何をしているんだろう。


 こんな男に抱かれることが嬉しくて嬉しくて仕方ないあたしは、きっと世界でいちばんバカだ。





 ヴァールハイトと初めて話したのは、風の中に秋の匂いが混ざりはじめる季節だった。


 濃い霧に身を隠すように座り込んだ沼のほとりで、あたしは水面に映った自分の姿をじっと見ていた。


 前髪を押さえながら、思わず深いため息が出る。

見なければいいと思うのに、どうしても気になってしまう。


「どうしたんだ? ため息なんかついて」


 急に声が聞こえて心臓が跳ねる。

霧に紛れて、ぼんやりと浮かぶ顔には見覚えがあった。


「ヴァールハイトさま!」


 全然気づかなかった。

自分の姿を水面に映して一心にみつめているところを見られた……恥ずかしさで顔が熱くなる。


「何か心配ごとか?」


 ヴァールハイトは真剣な顔であたしを見た。

あたしは軽く首をふる。


「全然そんなんじゃないんです。あの、休暇で地元に帰ったときに髪を切ったんですけど、切りすぎちゃって……」


 最近流行ってる髪型だと言われて、そんなものかとされるがままにしていたら前髪を切られすぎてしまった。

流行とか、似合うとか似合わないとか以前に、これはもう明らかなる失敗だ。


 リリエッタは「私がそんな髪にされたら、とても人前になんて出られないわ」と相変わらずきれいな顔で言っていた。


「やっぱり、変だなって思ってただけなんです」


 あたしは力なく笑った。

もとの長さまで伸びるのに、一体どのくらいかかるんだろう。


「そうかな」


 ヴァールハイトはまっすぐにあたしを見つめた。


「俺には、すごく可愛く見えるけど」


 声色が変わった。

さっきまでと違う、体の芯を撫でるような甘い声に胸がざわめく。


 気づけばヴァールハイトはすぐ近くに来ていた。

まるで吸い寄せられるように、あたしはヴァールハイトの黒い瞳から目が離せなかった。


「きみ、名前は?」


 ヴァールハイトが言葉を発するたびに、心が震える。


「フリューリンク」


 細い声でやっとそれだけ言った。

ヴァールハイトは優しく笑うと、あたしの頬に手を伸ばした。


「フリューリンク、可愛い」


 心臓がどくんと鳴った。


「だめ……だめです」


 至近距離で見つめられながら、あたしは必死に首を振る。


「だめ?」


「あの……だって、あたし、婚約者が」


 消え入りそうな声で言うと、ヴァールハイトの目がイタズラっぽく光った。


「嫌か?」


 答えられなかった。


 霧に閉ざされた木立の中、指先でゆるくあたしの頬を撫でながら、ヴァールハイトは小声で言った。


「じゃ、ふたりだけの秘密な?」


 次の瞬間にはもう唇が触れあっていた。





 あれから、どうやって寮に戻ったのかよく覚えていない。

ドアを閉めると、服も着替えずベッドに倒れ込んだ。


 だめ……だめだ、だめだ。


 好きになっちゃだめだ。


 ヴァールハイトさまはリリエッタの婚約者だし、あたしにはハーゼルがいるし、それにそもそもこんなの、絶対に遊びだ。


 わかっているのに。

いまだに心臓が激しく鳴って、息が苦しい。


『フリューリンク』


 ヴァールハイトさまの声が頭から離れない。


『可愛い』


 優しい唇を思い出して、胸がぎゅっと切なくなる。


 ベッドから半身だけ起こして鏡を見る。

相変わらず前髪は変だったけど、そんなことはもうどうでもよくなっていた。





 中庭では小柄な女の子が、男子学生に囲まれて楽しげに笑っている。

ひとつ後輩の、確かあの子も男爵家の出身だ。


「いつも家柄の高い男子とばっかり話して……あそこまで必死だとなんだか痛ましいわね」


 花びらのような可憐な唇に笑みがこぼれる。

リリエッタは今日も抜群に美しい。


 リリエッタはヴァールハイトのキスを知っているんだろうか。

あの力強い腕に抱きしめられたことがあるんだろうか。


「フリューリンク?」


 リリエッタの声であたしの意識は現実に戻ってくる。


「どうしたの? 最近変だよ」


 リリエッタは案じるようにあたしを見た。


「何か悩みがあるなら言って、私にできることだったらなんでもするから」


 あたしは軽く首をふる。


「ううん、なんでもないよ。でも、ありがとう」


 リリエッタの顔をまっすぐ見れなくて、あたしは視線を中庭に移した。

さっきまで晴れていたのに、薄く霧がかって景色はぼやけていく。


 前髪が伸びるよりもずっと早く、あたしはヴァールハイトと深い仲になっていた。





 リリエッタは大事な友達だ。

それなのに、あたしはヴァールハイトと会うことをやめられない。


 リリエッタへの罪の意識に押しつぶされそうになる一方で、激しい嫉妬心に苛まれる。

ヴァールハイトにとって、あたしはあくまでもお手軽な遊び相手、どんなに体を重ねたところで愛しているのはリリエッタだ。


 友達と婚約者を裏切って心も体も薄汚れていくあたしと違って、きれいなままでヴァールハイトに愛されて、ずっとそばにいることができるリリエッタが妬ましくて仕方がなかった。


 愛してくれない男に身も心も捧げきって、理不尽に友達を妬んで、こんな自分は嫌なのに、苦しくて苦しくてたまらないのに、あたしはヴァールハイトに溺れていくのを止められない。


 だって知らなかった。


 人を好きになることが、こんなに、全てを持っていかれるほど激しい衝動だったなんて、こんな、おかしくなるほどの熱情が自分の中にあったなんて、あたしは知らなかった。


 理性も自制心もすっかり無くしてしまったあたしは、これからどうなってしまうんだろう。


 ヴァールハイトとリリエッタを祝福して、何事もなかったような顔をしてハーゼルと結婚なんて、とてもできるとは思えない。


 恐ろしかった。


 ヴァールハイトへの思いになす術もなく狂っていく自分が、そして、ヴァールハイトが去ったあと、あたしはいったいどうなってしまうのか、恐ろしくてたまらなかった。


 この歪な関係に終止符を打ったのは、あたしでもヴァールハイトでも、リリエッタでもなかった。


 あの日、あたし達が『会って』いたのは倉庫だった。

薄暗くて埃っぽい部屋の固いソファの上、あたしはヴァールハイトに組み敷かれて呼吸を乱していた。


 誰も来るはずのない校舎の隅、夢中になっていたあたし達はドアが開いた音にも気が付かなかった。


「フリューリンク?」


 耳に馴染んだ声に、高ぶっていた体が一瞬で凍りつく。


「いるの?」


 間違いない、リリエッタの声だった。

ガサガサと、備品の間を分け入るような音が聞こえてくる。


 なんで……? どうしてここにリリエッタが?


「こんなところに呼び出して、話したいことって……」


 逃げ場のない部屋、声はどんどん近づいてくる。


 やめて、やめて……来ないで……あたしを見ないで。


「やっぱり何かあった……」


 リリエッタの言葉はそこで止まった。


 あたしをソファに押しつけたまま固まるヴァールハイトの背中ごしに、立ち尽くすリリエッタと目が合った。


 光の届かない倉庫の奥、リリエッタは少し笑ったようにも見えた。


「何を、してるの?」


 突然のことに頭がうまく回らない。

違う……違うの、でも、何が?


 リリエッタは不気味なものでも見るように後ずさると、よろけながら倉庫を出て行った。


 バタン、と扉の閉まる音が妙に響く。


 ヴァールハイトはため息をついて服装の乱れを直すと、呆然としているあたしを残してその場を離れた。





 違う……違う……違う。


 何が? 何も違わない。


 あたしはヴァールハイトと関係を重ねながら、素知らぬ顔で浮気に悩むリリエッタの話を聞いていた。

ずっと、リリエッタを欺いていた。


 これが、裏切りでなくて何だ。


 ベッドの上で、ぎゅっとひざを抱えこむ。


 明日が来るのが恐ろしい。

あたしは、どんな顔をしてリリエッタに会えばいい?


 リリエッタがあたしを許してくれるなんて思わない。

こんなことになって、今さら友達だなんて言えるわけがない。


 あたしは、どうすればいい?


 ブランケットにくるまっているのに、いつまでも震えが止まらなかった。


 窓の外では、苦しみに呻くようなカエルの声がいつまでも響いていた。





 あの夜、なんであたしは部屋で震えていたんだろう。

自分を守ることばっかりで、なんでリリエッタの気持ちをもっと考えられなかったんだろう。


 卑怯だと思われたって、嫌われたって、リリエッタに会って、本当に思ってたことを伝えればよかった。

大事な友達だって伝えればよかった。


 リリエッタをひとりにしてはいけなかったのに。


 翌朝、物言わぬ姿となって沼に浮かぶリリエッタが発見された。

辺りには濃い霧が立ちこめていた。


 リリエッタの葬儀には参列できるわけもなく、木立に身を隠すようにしてあたしはリリエッタが土に埋められていくのを見ていた。

ヴァールハイトはうつろな目で一度だけこちらを見たけど、何もいなかったかのように目をそらした。


 アカデミーでは、友達の振りをしながら裏でヴァールハイトと通じて、リリエッタを死に追いやった悪女としてあたしのことが広まっていた。

あの事件以来一度も講義に出ないまま、あたしはアカデミーを退学した。

しばらくして、ハーゼルの家から婚約解消の申し入れがあった。


 そういえば、あたしの名前を使ってあの日リリエッタを倉庫に呼び出したのは、ヴァールハイトに横恋慕していた先輩だったとか。


 どうでもいい……本当に、すべてがどうでもよかった。


 なんで、リリエッタがあんな死に方をしなければいけなかったんだろう。

リリエッタはもう、笑うことも、悩むことも、皮肉を言うこともできない。


 リリエッタを傷つけて、冷たい沼の底まで追いつめて、ひとりきりで逝かせて、どうしてあたしはこうしてのうのうと生きているんだろう。


 あたしはいったい何に裁かれたくて、何に許しを求めているんだろう。


 リリエッタはもうどこにもいないのに。

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