第11話 祈りの鐘
目を覚ましたのはソファの上だった。
いつの間に眠っていたんだろう……カトレアが来てくれたのか、横たわった体の上にはブランケットが掛けられていた。
なんて、なんてひどい夢。
まだはっきりしない意識のなかで、薄気味悪い後味だけが体中にべったりとへばりついていた。
まるで太陽なんてはじめから存在していなかったみたいに部屋は暗い。
いま、何時だ?
嫌な感触を払うように軽く頭を振って顔を上げると、すぐ近くに歪なかたまりがあった。
心臓が止まるかと思った。
ひしゃげたような四肢、左右非対称の歪んだ瞳、開きっぱなしの唇からは歯がこぼれている。
テーブルの上では、いるはずのない侵入者、小さなリリーが暗い目であたしを見ていた。
「いやっ!」
思わず飛びのいて、ソファの背もたれに背中をぶつける。
小さな揺れがテーブルに伝わったのか、人形はぐらりと不安定に揺れて、倒れた。
そのとき、ぽきんと軽い音がして、人形の胴体から首が転がり落ちた。
長い金髪に包まれるように頭部は半回転して、じっとあたしを見据えた。
弛緩しきった唇が笑うようにひずむ。
「人殺し!」
ソファを引こうとした足が床の上をすべる。
一刻も早くこの場から離れたいのに、ソファは重くてびくともしない。
転がり落ちるようにソファから抜け出すと、あたしは部屋を飛び出した。
「人殺し!」
あたしを責める声が長い廊下を追いかけてくる。
どうしよう、逃げなきゃ、でも、どこに?
階段の踊り場で手すりをつかんだまま立ち止まる。
息が上がって苦しいのに、手足は凍りつきそうなほど冷たい。
だって、この屋敷を出たところで、あたしに行くところなんてない。
その時、階上から足音が聞こえた。
目を向けると、こちらに向かって階段を下ってくる小さな影が見えた。
「あ、あの」
あたしの前に立って、おずおずと口を開いたのはクライノートだった。
不吉な夢がさっと頭をよぎる。
「あの、お、お、」
うつむいていたクライノートが顔を上げた。
「お、お、」
クライノートは腕を広げると、きゅっとあたしに抱きついた。
「おかあ、さま」
鳥肌が立った。
ざらりと大きな手で撫でられたように、全身がおぞましさで塗りつぶされていく。
やめて。
「優しいお母さんに」
耳元でやけに明るい声が聞こえる。
「なりたかったのに」
「やめて!」
あたしが体を振りほどくと、クライノートはバランスを崩して床にひざをついた。
「あたしは、あなたの母親じゃない!」
カタン。
そのとき、カッコウ時計の扉が開いた。
聞こえてきたのは、カッコウの鳴き声でも、耳障りな金属音でもなかった。
ナイフを突きつけられたみたいに、鋭い戦慄が胸元から全身をめぐる。
いや、いやだ、やめて。
聞こえてきたのは荘厳に響く鐘の音。
あたしの罪を裁く鐘の音だった。
たまらずに階段を駆け下りると、あたしは屋敷の外へ飛び出した。
外は真っ白だった。
はやく、はやく、もっと遠くに、あの鐘の聞こえないところに。
もうどこに向かって走っているのかもわからない。
世界が白く塗りつぶされたみたいに前も横も、上も下もわからない。
でも、絶対に後ろを振り返ってはいけないことだけは何故か理解していた。
いやだ、怖い、たすけて。
どうしたらいい?
いったい何をすればあたしは許されるの?
「ねえ」
ぱきっと足の下で枯れ枝の折れる感触がした。
「どうして?」
鐘が響き渡る中、冷たい土の下に埋められた彼女。
「どうしてなの?」
霧の朝、ひとりきりで沼に浮かんでいた彼女。
「答えてよ」
いつだって、輝くように美しかった彼女。
もう、その頬に微笑みが戻ることはない。
「ねえ」
奪ったのは、あたしだ。
どうすればいい?
どこまで行けばこの声から逃れられる?
息が上がって、胸が苦しい。
でも、止まるのが怖い。
たすけて、たすけて、たすけて。
おかあさま……
「奥様!」
踏み出した足の下には地面がなかった。
ぐらりと、白かった視界が反転して泡と水草の世界に変わる。
なんだ、やっぱりカモなんていなかった。
走り続けた体に、水を吸った服が鎖のように重くまとわりついてもう動けない。
肌を刺す水は、冷たいというよりは痛かった。
おかあさま……ごめんなさい。
あたし、あきらめてもいいかな。
薄れゆく意識の中、まるで敬虔な信徒が祈りを捧げるように、あたしは静かに目を閉じた。




