第10話 たからもの
「おくさま」
朝食へ向かう途中、ホールで声をかけられた。
今度は何だ……声のした方へ目をやると、クライノートが階段を駆け下りて来るのが見えた。
クライノートはあたしの横に立つと、うつむきがちに口を開いた。
「あの、あの、おくさま」
今日もクライノートはひとりだ。
いつも一緒だったあのグロ人形はどこに行ったんだろう。
そんなはずはないと思いつつ、書斎の隠し扉のことを思い出して背筋が寒くなる。
「あの、今日は、その、天気もいいですし」
天気が……いい?
いったい何を言ってるの?
相変わらず空は暗く、窓の外は重苦しい霧に覆われているというのに。
いや、待てよ……ぞわりと頭に嫌な考えがよぎる。
もしかして、こいつにとってはこれが『いい天気』なのか?
「あ、あの、その」
あたしの戦慄をよそに、クライノートはモゴモゴと言葉を続ける。
「よかったら、その、一緒に沼を見に行きませんか?」
かすかに震えるような細い声が引き金になって、胸の奥から不快なかたまりがこみ上げてきた。
全身に粘ついた水が絡みついて、呼吸を塞がれる苦しさが瞬時によみがえる。
なんなの? 本当に。
なんでそんなに沼を見せようとするの?
なんでこの幼い少女はあたしの嫌なところをまっすぐに苛んでくるんだろう。
まるであたしの心をざわつかせて楽しんでるみたいだ。
めまいがしてきた。
なんだか疲れた、今は何も考えたくない。
あたしは眉間を指で押さえながらできる限りの優しい声を出した。
「ごめん、今日はちょっと気分が悪くて……また今度行こうね」
クライノートの反応を待たずにあたしはきびすを返して階段を上がった。
とても、朝食を食べるような気分にはなれなかった。
◇
「おかあさま! はやくはやく」
クライノートがはしゃぎながら振り返る。
「ちゃんと足元に気をつけて。また転んでも知らないわよ」
聞いているのかいないのか、クライノートはくるりとドレスの裾をひるがえすと踊るように森の中をかけまわる。
「だって、沼を見るのが楽しみなんだもん」
顔を上げると、深い木立は柔らかいヴェールのような光に包まれて静かな佇まいを見せている。
今日も、本当にいい天気だ。
クライノートは元気がありあまっているといった様子で笑い声をあげながらぴょんぴょん飛び跳ねている。
まったく落ち着きのない……この間派手に転んで大泣きしたことをもう忘れたんだろうか。
「ほら、手をつないで一緒にいきましょう」
小さな手を握って木々の中を歩いていくと、だんだん空気が湿り気を帯びてきて、水草の濃いにおいが漂ってくる。
やがて、茂った木立の奥に水が見えてきた。
「わあい、沼だあ」
手をつないだまま飛びはねるクライノートの横で、あたしは固まった。
水面に、人影が見える。
かっと大きく見開かれた目、酸素を求めてあえぐような口、かきむしるように首元に寄せられた手。
え、ちょっと待って、なんだ、なんなの?
苦しみぬいた顔で天を仰ぎながら沼に浮かんでいたのは……見間違えるわけもない、紛れもなく、あたしだった。
水面に波紋が広がるように、視界がぐわんと歪む。
あれは、あたし?
もしあそこにいるのがあたしなら、今ここに立ってるあたしは何?
「よかったわね」
混乱をよそに、口が勝手に動いて言葉を話しだす。
「今度は壊しちゃダメよ」
「うん」
クライノートは嬉しそうに笑うと、壮絶な形相の溺死体に駆け寄った。
「よろしくね、小さなフリューリンク」




