逃げろメロス
これまで多くの教師と出会ってきた。面白い人、淡白な人、怖い人、教えるのが上手い人、なめられる人など、それぞれの性格や雰囲気があったが、それでも卒業式前日に辞めるのはあの先生だけだろう。
高校時代に、俺はサッカー部内でイジメられていた。
理由は今でも分からないが、日常的に部活後には私物や金が無くなり、学年に関わらず部室内で殴られ蹴られた。
そんなある日、突然、学年も教科も接点がない先生から退部することを勧められた。サッカーが好きで小学校から続けていたから躊躇すると、
「お前の好きなサッカーはここにはないよ」と言い、
「俺も教師を辞めるんだ」と、諦めたような顔で。
それから俺は高校2年生の夏にサッカー部を退部して、週末に活動している地域のクラブチームに入れてもらいサッカーを続けた。そして先生はその年度の卒業式前日に退職した。
俺をイジメていた一人のそいつもきっと必死だったのだろう。
退部するとイジメはなくなり、俺は授業が終わるとすぐに下校するようになった。試験期間中で部活動は全て休みのある日、駅で同級生のバスケ部エースは他高生と笑いながら話していると、俺をイジメていたそいつから声をかけられる。
「誰、友達?」
と他高生から聞かれるとエースは
「いや、違う」
とすぐにそいつの方は向きもせず他高生と笑いながら話しだした。まるで最初から話しかけられておらず、存在など把握していないように。俺は嫌なものを見た気がして咄嗟に目を晒す。嗤うこともバカにすることも哀れに思うことも出来ずただ目を晒した。一瞬だけ目に入ったそいつの顔はとても見ていられなかったから。
今日、昼の営業時間終了間際に先生は来店した。
「まだ、いけますか?」そして、
「頑張ってるな」と、嬉しそうに。
「おー、美味いよ、このラーメン」
先生はスープを一口飲み麺を啜ると、カウンターに背を向けている俺に言った。
「そうですか、良かったです」
他のお客さんに言われたら、可能な限り振り向いて笑顔で礼を言うが、先生には適当に答えた。
突然の再会による照れなのでも、卒業式前日に退職した憤りでもなかった。そもそも高校時代も接点は退部を勧めてくれたことだけで、それ以外は会話すらなかったのだ。先生は食べ終わると
「ご馳走さん」と言い、
「ありがとうございました」と、俺は答えた。
食べ終わったラーメンの丼は空だった。
俺をボールに見立てドリブルだシュートだ、もちろん冗談ですよ先輩と、笑いながら蹴り続けていたサッカー部の後輩は、夜のピークタイムに事前に何の連絡もなく来店して、注文もせずにカウンターにいる俺に、今度自分の会社が運営するイベントに出店してほしいと言ってきた。企画書を置き「先輩、マジで店にとってメリットしかないよ」と笑いながら。俺は静かに「出店しているこのラーメン屋店長は、昔、自分達が集団で連日ボコボコにして、金や物を盗んでいたサッカー部の先輩だとイベントの紹介文に記載するのか?」と答える。俺達のそんな会話を周囲のお客さんや店員が驚いた顔で見ると、後輩は隠そうともしない舌打ちをして出ていった。俺はそんな後輩に対して明らかに怒っている、元キックボクサーの従業員を必死に宥めていた。彼は現役時代に試合後は必ず食べに来てくれて「試合に勝つことはもちろんですが、これを食べるのを楽しみに減量を耐えていました」と顔の腫れがまだまだ目立ち、口内も切れて熱い食べ物がしみるのに笑顔でそう言った。わざわざ引退の報告に来てくれ、この先はまだ何も決まっていないとのことだったから、ちょうど従業員が一人独立することになり、欠員が出るから良ければ働かないかと尋ねると「ありがとうございます。ぜひ働かせて下さい。根性はあります。知名度はあまりありませんが、味に惚れた元キックボクサー日本チャンピオンが働いていると、少しは宣伝になると思います」と、旨そうにラーメンを食べている時と同じ顔で答えた。
昔勤めていたラーメン屋の店長は開店準備中に俺を訪ねてきて、いつだって感謝の気持ちを忘れるなと言ってきた。自分の店がどれだけ未熟な俺に目をかけて育ててきたのか、期待していたのか、それをちゃんと周囲や取材で話しているのかと。その店は繁盛していたが、先代が交通事故で亡くなると今の店長である息子が後を継いだ。すると店長によるパワハラで従業員達が辞め、コストカットのため低品質の材料を使い味が落ち、市役所による不衛生改善の命令でどんどん客足は遠のき、今では閑古鳥が鳴いている。俺の好きなラーメンはもうその店にはなかった。だから逃げた、あの時と同じように。
先生はあれからどうしていたのだろう。
あの日々、立ち竦みただ耐えていた俺に逃げることを勧めてくれた先生は、卒業式前日に突然退職した。事情は何も知らないし興味もなかった。だから今日もお客として来てくれたけど、何も聞かなかったのだ。
本当に?
昼の営業時間終了間際、先生が来店した時点で暖簾は下げた。最後のお客である先生にラーメンを提供するともう何も作る必要はないのに、カウンターに背を向けて何も入っていない鍋を見ながら適当に菜箸をいじっていた。
どうして?
『「頑張ってるな」「おー、美味いよ、このラーメン」』
『「そうですか、良かったです」』と、後ろ向きで泣くのを必死に堪え答える。
『「ご馳走さん」』
『「ありがとうございました」』と、誰もとても聞き取れない涙声で答える。
そんな俺に苦笑して、事情を全て知る妻がすぐさまいつもの元気な声で言う。
「ありがとうございましたー。是非、またお願いします!」
もし、また来店してくれたら、ちゃんと言おう。
退職前に一言お礼が言いたかったこと、
俺が頑張っているラーメンを、美味いと言ってくれてありがとうございました、と。




