第九話 魔人、復活
「…食らいやがれ! …『火山粉砕拳』!!!!」
イグニスの灼熱の拳が、一本道に立ちすくむリディアに向かって放たれた。
それは、彼女の勇者の血をもってしても、受け止めることも、避けることも不可能な、絶対的な必殺の一撃。
(…ああ…! まずい! まずいまずいまずい! 死ぬ! あの小娘が、死んじまう!)
その光景を見ていたアビス(犬)の思考が、かつてないほど、高速で回転していた。
彼が焦っているのは、リディアの命を心配してのことではない。
もしここでリディアが死ねば、この忌々しい「犬化」の呪いをかけた張本人(所有者)がいなくなってしまう。
そうなれば、自分は、永遠にこの無力な黒い毛玉の姿のまま、この世に取り残されることになるのではないか?
(…冗談じゃねえ! 俺様の世界破壊計画が、こんな脳筋同士の脳筋な戦いで終わってたまるか!)
だが、いまのアビス(犬)にはどうすることもできない。
イグニスの拳がリディアの顔面を捉える、まさにそのコンマ数秒前。
―――ピキッ。
アビスの体内で、何かが弾ける音がした。
彼を縛り付けていた呪いの鎖が、音を立てて砕け散ったのだ。
(…は?)
アビスの思考が一瞬停止した。
失われていた魔力が、まるで堰を切った激流のように、その小さな犬の体へと逆流してくる。
体が熱い。
魔力が膨張する。
犬の小さな器では受け止めきれないほどの膨大な力が、彼の魂の奥底から溢れ出してくる。
(…戻る…!?)
彼は、悟った。
これが、あの忌々しい勇者が巧妙に隠蔽していた、呪いの「解除条件」。
すなわち―――聖剣の所有者の、「生命の危機」。
(…フン。フハハハハ! なるほどな! そういうことかよ、あのクソ勇者!)
彼の小さな黒い毛玉の体は、その膨大な魔力に耐えきれず、まばゆい闇の光を放ち始めた。
「―――なっ!?」
イグニスは、その異常な魔力の奔流に気づき、リディアを仕留める寸前で、その拳を止めた。
彼が驚愕の表情で振り返った、その先。
先ほどまで、ただの黒い犬コロがいたはずの場所。
そこに、一人の男が宙に浮いて立っていた。
銀色の長髪が、魔力の余波で静かに逆立っている。
血のように赤い瞳が、目の前の光景に、心底、楽しそうに細められている。
数百年前と何も変わらない。
自分たちが命を懸けて仕えた、あの絶対的な支配者。
「…ア…」
イグニスの巨大な体が、わなわなと震え始めた。
それは、恐怖ではなかった。
歓喜だ。
「…アビス様…!? まさか…! 本当に、アビス様、なのですか!?」
イグニスの声が震えている。
彼は、目の前で起きている奇跡が信じられなかった。
アビスは、その銀髪をかき上げながら、ゆっくりと、リディアとイグニスの間に降り立った。
「…よう。久しぶりだな、イグニス」
その口調は、先ほどまでの犬のそれとは比較にならない、傲慢で、不遜な、魔人の声だった。
「…フン。数百年、留守にしてやったってのによ。テメエは相変わらず脳ミソまで筋肉でできてるみてえだな」
「アビス様! やはり! おお…! お待ちしておりました!」
イグニスのそれまでの戦闘態勢はどこへやら。
彼は、その場に片膝をつき、魔人への最大級の敬意を示した。
「…よくぞ、ご無事で…! このイグニス、アビス様がいつの日かお戻りになると信じておりました!」
その、あまりに感動的な主君との再会。
だが、アビスの反応は、イグニスの想像とはかけ離れたものだった。
ゴッ!
鈍い、音。
アビスの蹴りが、片膝をついたイグニスの顔面を正確に捉えていた。
「…がはっ!?」
イグニスの巨体が、数メートル吹き飛ばされ、彼がさっき自分で作ったマグマの溝のギリギリ手前で止まった。
「…ア…アビス、様…?」
イグニスは、何が起こったのか理解できず、混乱していた。
アビスは、その美しい顔を、心底不快そうに歪ませていた。
「…勘違い、すんなよ、脳筋が」
アビスの声は、絶対零度の冷たさを帯びていた。
「…俺様がテメエの前に現れたのは、感動の再会ごっこをするためじゃねえ」
アビスは、ゆっくりとイグニスに歩み寄る。
「…俺様の留守中に、俺様の大陸で、好き勝手に『王様ごっこ』をしてくれたテメエを、直々に粛清しに来ただけだ」
「…なっ!? う、裏切り者とは…! 俺は、アビス様の領地を、アビス様にお返しするその日まで、守って…!」
「…守った、だと?」
アビスは、イグニスの言葉を遮った。
「…フン。たしかにこの街は栄えてる。テメエは、俺様の教え通り、領地を上手く運営してた。…だがな、イグニス。テメエは、一番肝心なことを忘れてやがる」
「…肝心な、こと…?」
「…恐怖だよ」
アビスは、イグニスの胸ぐらを掴み、その巨体を片手で軽々と持ち上げた。
イグニスは、戦慄した。アビスのその筋肉質の腕から、自分を遥かに凌駕する圧倒的な力が伝わってくる。
「…テメエ、あの酒場で何て言いやがった? 『この街で揉め事を起こすな』? …フハハハ! 笑わせんじゃねえ!」
アビスは、高らかに笑った。
「…俺様がテメエに叩き込んだのは、そんな生ぬるい『ルール』じゃねえだろ? …『恐怖』こそが支配だ。…俺様のナワバリでは、俺様が不快に感じた瞬間、そいつは死ぬ。…それが俺様の『ルール』だ!」
アビスは、イグニスを、ゴミのように投げ捨てた。
「…テメエは、あの傭兵を見せしめに焼き殺した。…そこまでは良かった。…だが、あの小娘はどうだ? あの小娘もテメエのナワバリを荒らした侵入者だ。…なぜ殺さなかった?」
「…そ、それは…! あの剣が気になって…!」
「…フン。言い訳か。…テメエは弱くなったな、イグニス。…あの勇者に敗れた記憶が、テメエの牙を丸くしやがったか?」
アビスは、心底失望したようにため息をついた。
「…まあ、いい。…テメエに教えてやる。本当の炎魔法の使い方をな」
アビスが、その美しい指先を、イグニスに向ける。
「…『細胞燃焼』」
ジュッ。
という、乾いた音。
イグニスの、鋼鉄のようだった左腕が。
その肩から先が、一瞬にして蒸発し消え失せていた。
「…が…? あ…? 腕が…?」
イグニスは、自分の肩から先がキレイに消失している、その断面を見て、数秒間、何をされたのか理解ができなかった。
「…フン。…対象の細胞一つ一つを、百万℃の熱で焼き尽くす。…触れる必要もねえ。痛みも熱さも感じる暇もねえだろ? …芸術的だとは思わねえか?」
アビスは、自分の指先を見つめ、うっとりと笑った。
「ぎ…! ぎゃあああああああああああああっ!?」
数秒遅れて、イグニスの脳が、自らの腕が焼滅したという事実を認識する。
凄まじい喪失感が彼を襲った。
「お、おのれ…! アビス、様…!」
イグニスは、激怒に顔を歪ませた。
彼は、残った右腕に、ありったけの魔力を込めた。
「…俺を、裏切り者と呼ぶか…! いいだろう! アビス様! あんたがどれほどのモンか、この俺様の全力で試してやる!」
イグニスの右腕が、マグマのように赤く輝き始めた。
「…ほう? まだ、やる気か。…いいぜ、かかってこいよ、脳筋が」
アビスは、楽しそうにその反撃を待っている。
「…食らいやがれ! 『火山粉砕拳』!!!!」
イグニスが、残った右腕で、渾身の一撃をアビスに向かって放った。
リディアを絶望させた、あの必殺の拳。
だが、アビスは、その灼熱の拳を、避ける素振りさえ見せなかった。
彼はただ、静かに、自分に向かってくる拳に自らの人差し指一本を差し出した。
―――キィィィン!
甲高い、金属音。
イグニスの全力の一撃は、アビスのたった一本の指先によって、完璧に受け止められていた。
「…なっ!?」
イグニスの目が、驚愕に見開かれる。
「…どうした、イグニス。…そんなもんか? …俺様が鍛えた四天王が聞いて呆れるぜ」
アビスは、嘲笑うと、その指先にほんの少しだけ力を込めた。
「…『弾けろ』」
ゴッ!
「がはあっ!?」
イグニスの巨体が、自らの拳の数倍の威力で弾き飛ばされ、洞窟の壁に叩きつけられた。
「…ぐ…! う…!」
右腕は、あらぬ方向に折れ曲がり、全身を強打したイグニスは、もはや、立ち上がる力も残っていなかった。
その、圧倒的な力の差。
もはや、それは、戦闘ではなかった。
ただの、粛清。
いや、遊びだった。
イグニスは、ついに心が折れた。
彼は、残骸となった左肩を押さえながら、魔人の足元に這いつくばった。
「お、お許しください、アビス様…! 俺は、もう一度、アビス様の忠実な部下として…! ど、どうか、命だけは…!」
イグニスは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、命乞いを始めた。
その無様な姿。
アビスは、その命乞いを、満足そうに聞いていた。
そして、芝居がかったように、ポン、と手を打った。
「…フハハハ! そうか! そうだな、イグニス! テメエは使える脳筋だ。…うん、許してやる。…もう一度、俺様のために働け」
「あ…! あ、ありがとうございます…! この、ご恩は、一生…!」
イグニスが、心底安堵した表情で顔を上げた、その瞬間。
「―――なーんて言うと思ったか、このバーカ!」
アビスの表情が、聖母の微笑みから、悪魔の嘲笑へと一変した。
「え…?」
「…死ね。『細胞燃焼』」
「や(めて)…」
ジュッ!
イグニスの最後の言葉は、音にはならなかった。
彼の巨大な肉体は、一瞬にしてその形を失い、蒸発して消え去った。
(…ひ…)
その、あまりに一方的で、あまりに残虐な光景を、リディアは、意識が朦朧とする中で見ていた。
(…アビス、さん…?)
さっきまで、自分を助けてくれたと思っていた、銀髪の美しい魔人。
その彼が、今、目の前で、あの恐ろしかったイグニスを一方的に嬲り殺しにした。
命乞いをした相手を、騙し討ちにした。
その、アビスの顔に浮かんでいる、笑み。
その笑みは、酒場で、イグニスが傭兵を焼き殺した時に浮かべていた、あの残虐な笑みと同じだった。
いや、それ以上に、冷たく歪んでいた。
リディアは、悟った。
この銀髪の魔人は、イグニスとは比べ物にならない、本物の「悪」なのだ、と。
「フハハハハ! やはり、こうでなくてはな! 力こそが全てだ! さあ、小娘! 次の四天王のところに…」
アビスは、勝利の昂揚感に酔いしれながら、リディアを振り返った。
彼が今、最も恐れているのは、この小娘に死なれることでも、逃げられることでもなかった。
この、呪いが解けた最高の瞬間。
この、全能感に満ち溢れた魔人の姿。
それを、失うことだった。
だが、リディアは、彼のそんな思いなど、知る由もなかった。
彼女は、ただ、目の前の残虐な行為を止めるため、本能的にあの言葉を叫んでいた。
彼女は、アビスが、自分を助けてくれたことよりも、彼が、命乞いをしたイグニスを騙し討ちにした、その「卑怯さ」が許せなかったのだ。
「だめです! …ハウス!!!!」
(なっ…!?)
アビスは、その言葉を聞いた瞬間、全てを悟った。
(…しまった! こいつ…!)
だが、もう遅い。
リディアの手に握られた聖剣(呪いの鍵)が、その呪文に呼応し、眩い光を放った。
「…あああああああああ! 忘れてたァァアアアアアアアア!」
アビスの、絶叫。
彼の、完璧な魔人の肉体は、再びあの忌々しい光に包まれ、急速に縮んでいく。
そして、数秒後。
そこには、一匹の、黒いポメラニアン似の子犬が、呆然と立ち尽くしていた。
目の前には、灰と化した、イグニスの亡骸。
そして、背後には、自分を犬に戻した張本人。
アビスは、犬の姿のまま、ゆっくりとリディアに歩み寄った。
リディアは、その場で、力尽きたように倒れ込み、意識を失っていた。
「…………」
アビスの脳裏に、数秒前の、全能感が蘇る。
そして、今のこの無力な姿。
「キャイイイイイイイイイイン!(…くそがああああああああああっ!)」
最恐の魔人の、誰にも届かない絶叫が、地底湖の広大な洞窟に虚しく響き渡った。




