第八話 絶体絶命のピンチ
「―――てめえら、何者だ?」
地を這うような、低い声。
アビスの卑劣な毒殺計画(未遂)の現場に現れたのは、この火山地帯の主、炎の軍団長イグニス、その人だった。
洞窟の奥、清らかな地下湖に、場違いな小娘と、その腕に抱かれた一匹の黒い犬。
イグニスの燃えるような赤い瞳が、侵入者二人を冷ややかに射抜いていた。
(…チッ。最悪のタイミングで、来やがったか…!)
アビスは、リディアの腕の中で、忌々しげに舌打ちをした。
あと、ほんの数秒。
あの小娘が余計な正義感を発揮しなければ、今頃、この水源は完璧な毒の泉と化し、イグニス軍団は明日の朝までに全滅していたはずだった。
リディアの、あの「ハウス!」の一撃は、アビスの計画を粉砕しただけでなく、彼に強烈な魔力の衝撃を与え、錬成していた呪毒も霧散してしまっていた。
そして今、目の前には、この火山地帯最強の脳筋が、立っている。
(…ア、アビスさん…。ど、どうしましょう…!?)
リディアの、パニックに陥った思考が、アビスの脳内に響く。
彼女は、腕の中のアビス(犬)と、目の前の巨漢を、交互に見比べて、完全に思考がフリーズしていた。
(うるせえ! こうなったら、やるしかねえだろ! あんな脳筋、さっさと倒しちまえ!)
(む、無理です! あんな、怖そうな人…! しかも、酒場で、人を燃やして…!)
(フン。だから、どうした。お前は、勇者の末裔なんだろ? さっさと、あの忌々しい剣で、斬りかかれ!)
二人が脳内でそんな不毛な言い争いをしている間も、イグニスは、一歩、また一歩と、距離を詰めてきていた。
「…おい。さっきから、黙ってやがるが…。何か言えよ」
ゴゴゴゴ…と、イグニスの巨大な拳が握り込まれる。
その、拳からは、まるで、陽炎のように、魔力が、立ち昇っていた。
(…やべえ。あのバカ、殴りかかってくる気だ…)
アビスが焦りを感じ始めた、その時。
「わ、私は、勇者の末裔! リディア・クレセントです!」
リディアが突如叫んだ。
彼女は、恐怖で震える足を叱咤し、アビス(犬)をそっと地面に降ろすと、イグニスの前に立ちはだかった。
そして、背中に背負っていた禍々しい聖剣(呪いの鍵)を抜き放った。
「あなたが、この地を苦しめる、炎の軍団長イグニスですね! 私はあなたを倒しに来ました!」
(…はああああ?)
アビスの思考が、今度こそ本気でフリーズした。
(こ、この、脳筋勇者がァ! 何を、真正直に、名乗り出てやがる! 倒しに来ました、じゃねえだろうが!)
リディアの、あまりに天然で、あまりに猪突猛進すぎる、その宣戦布告。
それは、アビスの卑劣な計画を全て台無しにする、最悪の一手だった。
「…ほう?」
イグニスの眉が、ピクリと動いた。
彼は、リディアのその馬鹿正直な名乗りと、彼女が構えた禍々しい黒い剣を、見比べた。
「…クレセント…。勇者の、末裔、だと…?」
イグニスの脳裏に、数百年前の、あの忌まわしい記憶が蘇る。
自分たち四天王を退け、そして、あの偉大なるアビス様を封印した、勇者の一族。
「…フン。フハハハハ! なるほどな! あの時の勇者の子孫か!」
イグニスは高らかに笑った。
「…いいだろう。数百年、退屈していたところだ。…あの時の借りを、その命で返してもらうぜ!」
イグニスが、その巨大な口を、カッと開いた。
喉の奥が紅蓮に輝く。
(…チッ! いきなりブレスかよ! この脳筋が!)
アビスが絶叫する。
(おい、小娘! 右だ! 右に転がれ!)
「きゃあ!」
リディアは、アビスの言葉とほぼ同時に、右へと転がった。
ゴオオオオオオオ!!!!
凄まじい炎の奔流が、先ほどまで彼女がいた場所を焼き尽くした。
岩盤が瞬時に沸騰し、ドロドロのマグマへと変わっていく。
(…ふう…。…危なかった…)
リディアが、胸をなで下ろし、体勢を立て直そうとした、その瞬間。
「…まだだ」
イグニスは冷ややかに笑うと、今度は、リディアが逃げた右側の地面を狙い、二射目のブレスを放った。
(避けろ! こっちだ! もっと下がれ!)
「きゃあっ!」
ゴオオオッ!
リディアが今しがた立っていた右側の岩盤も、マグマの溝へと変わっていく。
「え…?」
リディアは自分の足元を見た。
自分が、今、立っている、わずかな岩盤。
その、右側も、左側も、イグニスのブレスによって、灼熱のマグマの溝へと変わっていた。
彼女の背後は、洞窟の壁。
そして、正面には、イグニスが、立っている。
彼女は、幅二メートルほどの、一本の岩の道(リディアとイグニスを結ぶ道)に、取り残されてしまったのだ。
左右への、逃げ場は、もう、ない。
(…これだ! イグニスの常套手段だ! あいつは、ブレスで、敵の左右の退路を断ち、一本道に追い込んでから、本命の右の拳で仕留める!)
アビスの脳内に、かつての部下の戦術が蘇る。
「…フハハハ! 終わりだ、小娘! 左右に逃げ場はねえぞ!」
イグニスが、その灼熱の拳を握り締め、ゆっくりと一本道を歩いてくる。
(くそっ! この脳筋勇者が! 真正面からやり合うから、こうなるんだ!)
リディアは、ゴクリと、唾を飲んだ。
彼女は、震える手で聖剣(呪いの鍵)を握りしめ、構え直した。
「…ひっ…。…こ…来ないでください!」
「…無駄だ!」
イグニスは、リディアの目の前で立ち止まると、その鋼の拳を振り上げた。
そのあまりの威圧感に、リディアの体は金縛りにあったように動かない。
「死ねや、小娘!」
イグニスの灼熱の拳が、リディアの顔面めがけて放たれた。
(…ここまで、か…!)
アビスが、観念した、その時だった。
―――キィィィン!
甲高い、金属音。
イグニスの灼熱の拳は、リディアの顔面の数センチ手前で止まっていた。
リディアが両手で握りしめていた、あの禍々しい黒い剣。
その刀身が、リディアの意思とは無関係に、まるで盾のようにイグニスの拳を受け止めていたのだ。
「…なっ!?」
イグニスの目が驚愕に見開かれる。
(…ほう? 自動防御機能付きかよ、あのクソ剣…!)
アビスも、その予想外の展開に、目を見開いた。
リディア本人も、何が起こったのか分からず、ただ、目の前で火花を散らす拳と剣を見つめていた。
「…ほう? その剣…、小娘のお守りにしては上出来だ」
イグニスは、ニヤリと笑うと、拳を引いた。
「…だが、そいつは、あの忌々しい勇者の臭いがする。…気に食わねえ!」
イグニスは叫ぶと、今度は、リディアの手からその聖剣(呪いの鍵)を力ずくでひったくった。
「ああ!」
リディアの手から剣が奪われる。
(…なっ!? あのバカ、奪いやがった!)
アビスが、目を見開く。
イグニスは、その禍々しい黒い剣を高々と掲げた。
「…フン。こんな気味の悪い剣、このマグマで溶かしてくれるわ!」
イグニスが、その剣を足元のマグマの溝へと投げ捨てようとした、その瞬間だった。
―――シュッ!
剣は、イグニスの手から、甲高い音と共にかき消えた。
「…なっ!?」
イグニスの巨大な目が、驚愕に見開かれる。
そして、その消えたはずの黒い剣は、次の瞬間、リディアの震える両手の中に戻っていた。
(…ああ! よかった…! 戻ってきてくれたんですね、聖剣さん!)
(…チッ。あの忌々しい勇者の呪いか。…『所有者から、離れない』って、そういうことかよ…!)
アビスは、隠れ里で、バルドルが剣を投げ捨てようとして失敗した、あの出来事を思い出していた。
イグニスは、そのあまりに不可解な現象を理解できず、呆然としていた。
だが、その混乱は、すぐに、凄まじい怒りへと変わった。
「…てめえ…。今、何しやがった…?」
地獄の底から響くような声。
「い、いえ! 私じゃありません! この剣が勝手に…!」
「…黙れや!!!!」
イグニスの怒りが頂点に達した。
彼にとって、獲物が手からすり抜けたという事実は、何よりも許しがたい屈辱だった。
「…いいだろう。…その小娘も、その気味の悪い剣も、まとめて灰にしてやる…!」
イグニスの全身から魔力が溢れ出す。
彼の右腕が、灼熱の炎を纏い、マグマのように赤く輝き始めた。
(…まずい! あのバカ、本気でキレやがった! あれは、あいつの必殺の一撃…!)
アビスが、絶叫する。
(小娘! 避けろ! 死ぬぞ!)
「…え…?」
だが、リディアは動けなかった。
イグニスの殺気に、完全に体がすくんでしまっていたのだ。
「…食らいやがれ! …『火山粉砕拳』!!!!」
イグニスの灼熱の拳が、一本道に立ちすくむリディアに向かって、放たれた。




