第六話 炎の町
あの灼熱の荒野を(アビスにとっては、屈辱的な移動方法で)抜けた二人は、ついに最初の目的地である炎の軍団長イグニスの領地、「ヴォルカヌス火山地帯」の麓に位置する城塞都市へとたどり着いていた。
街は、その土地柄を反映してか、活気に満ち溢れていた。
黒い火山岩を切り出して作られた家々。
道行く人々は、屈強な鉱夫や、焼けた肌の商人たち。
そして、この領地を守るイグニス配下の魔族(人間に擬態している者も多い)たち。
誰もが、この灼熱の気候をものともせず、力強く生きている。
そして、その街の奥、険しい火山の頂上には、威圧するように黒曜石の城がそびえ立っていた。
あれが、イグニスの居城「ヴォルカヌス城」に違いない。
「わあ…! すごい活気ですね、アビスさん! 灼熱の土地と聞いていたので、もっと、こう…荒廃しているのかと…」
リディアは、久しぶりに見る「文明」に、目をキラキラさせていた。
彼女は、隠れ里で育ったため、世間知らずなところがある。
彼女にとって、四天王とは「世界を脅かす邪悪な存在」であり、その領地は、苦しみに喘ぐ人々がいる地獄のような場所だと、本気で思っていたのだ。
(フン。当たり前だろ。イグニスは、ああ見えても、内政と防衛のスペシャリストだ。俺様がそう育てたからな。あいつは、筋肉バカだが、領地を守る、という一点においては、四天王の中でも随一だ)
アビスは、リディアの背中のリュック(もはや彼の定位置だ)から顔を出し、懐かしい(そして、今から粛清すべき)部下の街並みを、冷徹に観察していた。
(…ほう。あの頃より防衛設備が強化されてやがる。城壁の高さもあの頃の倍はあるな。…俺様の留守中に、ずいぶんと好き勝手やってくれてるじゃねえか)
アビスの目的は、あくまで「粛清」と「呪い解除の手がかり探し」だ。
領地が栄えていようがどうだろうが、彼にとっては些細なことだった。
「さて、アビスさん! まずは情報収集ですね! 街の人にイグニスさんのことを聞いてみましょう!」
リディアは、勇者としての第一歩を踏み出すべく、意気揚々と、近くの露店で鉱夫が使うであろう無骨なピッケルを眺めていた男に、声をかけた。
「あの、すみません! この街を治めている、イグニスさんというのは、どういう方なんですか?」
ピッケルの男は、振り返ると、リディアの(場違いなほど上等な)旅装束と、その背中のリュックから顔を出している黒い犬を見て、怪訝な顔をした。
「…あ? イグニス様の、ことか…?」
男は、リディアの(場違いなほど上等な)服装と、その背中の犬を一瞥すると、急に視線を逸らし声を潜めた。
「…お嬢ちゃん、よそ者か。なら、忠告しとく。この街では、イグニス様のお名前を、気安く口にしねえことだ」
「え? ど、どうしてですか…?」
「…『ルール』だからさ。あの御方は、この街の『ルール』そのものだ。ルールに従順なうちは、何もされねえ。だが、ほんの少しでも、あの御方の機嫌を損ねてみろ。…昨日も、広場で騒いだ傭兵が、一瞬で、黒焦げの炭にされてたぜ」
男は、思い出しただけでも恐ろしいといった様子で、肩をすくめた。
「…まさに、炎の化身よ。…関わらねえのが、一番だ」
男は、それだけ言うと、荒々しく店主とピッケルの値段交渉を再開した。
(…フン。恐怖政治か。相変わらず、脳筋のくせにやることは悪くねえ)
アビスは、満足げに鼻を鳴らした。
(まあ、いい。領民に恐れられている、という情報は利用価値がある。…リディア、次だ。酒場に行くぞ。ああいう場所こそ、クズどもの本音(情報)が転がってるからな)
「え? さ、酒場ですか? まだ、お昼ですよ?」
(うるせえ! いいから、行くんだよ!)
アビスの指示に従い、リディアは、街で最も大きな酒場「炎の金槌亭」の重い扉を恐る恐る押し開けた。
昼間だというのに、店内は、仕事を終えた(あるいはサボっている)鉱夫や、傭兵らしき男たちで、ごった返していた。
リディアは、その、むせ返るような熱気と酒の匂いに、少し顔をしかめる。
(おい、小娘。一番騒がしいテーブルに行け。ああいう連中が、一番口が軽い)
アビスの指示通り、リディアが一番奥のテーブルへと進もうとした、その時だった。
ガシャン! と、派手な音を立てて、一人の、大柄な酔っ払いの傭兵が、リディアの前に立ちふさがった。
「おっと、お嬢ちゃん。こんなむさ苦しい場所に何の用だい? 見ねえ顔だが…」
傭兵の濁った目が、リディアの整った顔立ちと、その背にある禍々しい剣を、値踏みするように見た。
「…ひゃっ!?」
リディアは、そのあからさまな敵意に、思わず小さな悲鳴を上げた。
(チッ。雑魚が、絡んできやがったか。…おい小娘。そいつをさっさとその剣で叩き斬れ。邪魔だ)
(そ、そんなこと、できるわけないじゃないですか!)
リディアが脳内で抗議する。
傭兵は、ニヤリと汚い笑みを浮かべた。
「…なんだよ、その剣は。ずいぶんと物騒なモン持ってんな。…なあ、お嬢ちゃん。俺とちょっといいことしねえか? この街のいい場所案内してやるぜ?」
傭兵の手がリディアの肩に伸びた。
リディアは、恐怖で、体がすくみ上がってしまった。
(…使えねえ脳筋勇者めが。…まあ、いい。こういう時は…)
アビスは、リュックの中で、そっと息を潜めた。
彼は、この犬の姿でも、最低限の魔術は使える。
この傭兵の足元の石畳を、ほんの少し発火させて驚かせれば、それで十分だ。
アビスが、魔力を練ろうとした、まさにその瞬間。
「―――てめえら、何、やってやがる」
酒場に、地響きのような低い声が響き渡った。
傭兵が、びくりと肩を震わせ、その声の主を振り返る。
「…げっ! だ、団長…!」
酒場の入り口に、一人の巨漢が立っていた。
背は、リディアの父、バルドルよりも、さらに一回り大きい。
鋼のように鍛え上げられた、褐色の肌。
燃えるような、赤い短髪。
その男が、ただそこに立っているだけで、酒場全体の空気がビリビリと震えているかのようだった。
「…イグニス様! い、いえ、これは、その…!」
傭兵が、慌てて、弁解しようとする。
(…炎の軍団長、イグニス。…相変わらず頭の悪そうな面構えしてやがる)
アビスは、懐かしい(そして、これから殺す)部下の姿を冷ややかに観察した。
イグニスは、傭兵の弁解を聞く気などまるでない、というように、ゆっくりと男に近づいた。
「…俺様の『酒場』で、俺様の『所有物』である酒を飲みながら、よそ者に絡む。…てめえ、俺様の『ルール』を破ったな?」
「ひっ…! ち、違います、団長! こ、こいつは、よそ者で…!」
「…そうか。よそ者なら何をしてもいい、と。…それがてめえのルールか」
イグニスは、つまらなそうにそう言うと、その丸太のような腕をゆっくりと持ち上げた。
そして、次の瞬間。
その手が、傭兵の頭を鷲掴みにした。
「ぎゃあああああああ!!」
傭兵の体が、まるで松明のように、一瞬で燃え上がった。
「あ…! あああ…!」
リディアは、目の前で起きたあまりに残虐な光景に、声も出せずに立ち尽くす。
酒場にいた他の客たちは、その光景を、顔色一つ変えず、まるで日常の一コマであるかのように、静かに見つめている。
イグニスは、その黒焦げの炭と化した男を、ゴミでも捨てるかのように酒場の隅へと放り投げた。
(フン。…王様ごっこにうつつを抜かしてる割には、見せしめのやり方だけは忘れちゃいねえか。…だが、生ぬるいな。俺様なら、あの時点で酒場ごと燃やし尽くしてるぜ)
アビスは、イグニスの、相変わらずの残虐性に、満足げに頷いた。
イグニスは、騒ぎの元凶となった炭(もと傭兵)を一瞥すると、今度は、リディアへとその真っ直ぐな瞳を向けた。
「…小娘。…お前が持っているその剣。…どこで手に入れた?」
彼の声には、先ほどの傭兵とは比較にならない、圧倒的な圧があった。
リディアは、ゴクリと、唾を飲んだ。
(…やべえ。こいつ、この剣の魔力に気づきやがったか…?)
アビスが、内心で、舌打ちする。
(こ、答えてはいけません、アビスさん! 正体を知られたら…!)
リディアは、震えながらも、一歩、前に出た。
(フン。今さら遅えよ。…だが、まあ、こいつは脳筋だ。適当に言いくるめられるだろ)
リディアは、勇気を振り絞って、答えた。
「こ、これは、私の家に代々伝わる聖剣です!」
「…聖剣、だと…?」
イグニスは、眉をひそめた。
彼は、その剣から、聖なる力とは似ても似つかぬ、禍々しい邪悪な気配を感じ取っていた。
(…この小娘、…どこかで…)
イグニスの脳裏に、数百年前に自分たちの前に立ちはだかった、あの忌わしき勇者の姿が、一瞬よぎった。
「…まあ、いい。…聖剣だろうが何だろうが構わん。…だが、この街で揉め事を起こすんじゃねえ。…分かったな?」
イグニスは、それだけ言うと、背を向け、酒場のカウンターで、一番大きなジョッキを注文した。
リディアは、そのあまりの迫力に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
(…チッ。厄介なことになったな。あの脳筋、思ったより勘が鋭え)
アビスは、忌々しげに、思考を飛ばす。
(…あいつ、俺様の気配にも、気づいてやがるかもしれねえ。…だが、それがどうした)
アビスの残虐な笑みが、その犬の口元に浮かんだ。
(…むしろ好都合だ。あいつが俺様を警戒すればするほど、俺様の巧妙な罠が活きてくるってもんだ)
その夜。
二人がなんとか確保した宿屋の一室で。
アビスは、リディアが寝静まるのを待っていた。
「…すー…すー…」
リディアが、疲れ果てたように、ベッドで健やかな寝息を立てている。
酒場での一件で精神をすり減らした彼女は、早々に、眠ってしまったのだ。
(…フン。ようやく寝やがったか、この脳筋勇者め)
アビスは、ベッドの下の犬用の寝床(屈辱)から、そっと這い出した。
彼は、この街に着いてから、ずっと考えていた。
あの、炎の脳筋、イグニスを、どうやって、最も効率的に、そして、最も残酷に始末するか、を。
(…フン。正面からやり合っても、あの脳筋に負けるとは、一ミクロンも思ってねえ。あいつは所詮、俺様が作った『作品』だ)
(だが、真正面から力で捩じ伏せるなんざ、芸がねえ。せっかく数百年のブランクを経て再会するんだ。俺様の元・部下が、どれだけ無様に、どれだけ惨めに、どれだけ屈辱的に死ぬか。見せしめとして、盛大に祝ってやらねえとな)
(それに、あのバカは、正面からの真っ向勝負『だけ』しか能がねえ。…つまり、それ以外はザルだ)
アビスは、地図を広げた。
それは、彼が、数百年前の記憶を頼りに書き起こした、ヴォルカヌス城の見取り図だった。
(…あいつは、脳筋のくせに、変なところで几帳面だ。…必ず、一日三回、城の水源である地下水脈の視察を欠かさない。…ご苦労なこった)
アビスの、口元が、歪む。
(…敢えて、そこを、狙う)
彼の計画はこうだ。
まず、この街の下水道を通り抜け、ヴォルカヌス城の地下水脈へと侵入する。
そして、その、城全体の飲み水を賄う水源に、これでもかというほどの、遅効性の致死毒をブチ込む。
(…フハハハ! これで、イグニス本人だけでなく、城の兵士どもも皆殺しだ! なんて効率的なんだ!)
彼は、自分の完璧な計画に、うっとりと酔いしれた。
(…イグニスめ。てめえが毎日几帳面に「安全だ」と太鼓判を押したその水で、てめえの部下全員が苦しみながら死んでいく様を、見せてやるぜ。これ以上の屈辱はねえだろうよ!)
(…問題は、この小娘だが…)
アビスは、リディアの寝顔を一瞥した。
(…この計画を話した瞬間、この正義感バカが何を言い出すか、簡単に想像がつくぜ。「卑怯です!」とか喚き散らして、俺様の邪魔をするに決まってる)
彼は、静かに部屋の扉の鍵を開けた。
(…フン。今回は黙って行かせてもらうぜ。…お前が目を覚ます頃には、全て終わってる)
アビスは、その小さな犬の体で、音もなく宿屋を抜け出した。
彼の、残虐な粛清計画が、今、実行されようとしていた。




