第五話 灼熱の荒野
クレセント家の屋敷を脱出し、数日が経過した。
リディアとアビス(犬)の二人旅は、早くも、アビスにとって筆舌に尽くしがたい苦行となっていた。
「わあ、アビスさん! 見てください! ついに荒野です! これをまっすぐ抜けたら、イグニスさんの領地ですね! なんだか、本格的な冒険の始まり、って感じがします!」
(……冒険、ねえ。フン、能天気な小娘だ。お前が今から向かってるのは、お前が『ごっこ遊び』で倒してきたゴブリンとはワケが違う、俺様の元・四天王の領地だぞ)
リディアの背負うリュックサック(犬用スペースが無理やり増設された)の中で、アビスは、灼熱の太陽から逃れるように、毛玉になって丸まっていた。
屋敷を脱出したはいいが、そこから先が問題だった。
最初の目的地、炎の軍団長イグニスの領地は、ここから南西に位置する「灼熱の火山地帯」。
クレセント家の領地(比較的涼しい)からそこへ向かうには、広大な灼熱の荒野を数日間、徒歩で横断しなければならなかった。
そして、現在。
彼らは、その荒野の、ど真ん中にいた。
「…はぁ…はぁ…。あ、暑いです……」
リディアが、額の汗を手の甲で拭う。
遮るもののない荒野で、太陽の光が容赦なく突き刺さる。
(…暑い…)
リディアの背中のリュックの中で、アビスもまた、限界を感じていた。
(…暑いなんてもんじゃねえぞ、これ…!)
犬(ポメラニアン似)という、このフワフワで、毛量だけは無駄にリッチな肉体。
それは、寒さには(多少)強かったが、この、灼熱の荒野とは最悪の相性だった。
アビスの思考が、茹だるような暑さで、朦朧とし始める。
(…くそ…。この、クソみてえな毛皮のせいで、熱が、全部、体内にこもりやがる…!) 彼は、犬の本能に従い、リュックの中で、はっ、はっ、と、舌を出して、体温を逃がそうと試みた。
だが、その姿は、リディアの目には、こう映っていた。
「あらあら、アビスさん。そんなに、はしゃいじゃって。よっぽど、お外に出られたのが、嬉しかったのですね?」
(違うわ!!! 暑くて死にそうなんだよ!!!)
アビスは、全力で、脳内に抗議の声を飛ばした。
だが、リディアは、その思考を完璧にポジティブに誤解していた。
「もう、はしゃぐと余計に暑くなりますよ? …あ、そうだ! いいことを思いつきました!」
リディアは、ガサゴソと、リュックの横に括り付けていた水筒を取り出した。
(お? やっと気づいたか、小娘。水か。まあ、貴族の血には劣るが、無いよりはマシだ…)
アビスが、そう期待した、次の瞬間。
リディアは、その水筒の水を、自分のハンカチに、惜しげもなく浸し始めた。
(…は? 何やってんだ、お前? 水を、布に、吸わせて…)
アビスの疑問は、すぐに、絶望へと変わった。
リディアは、その水でびしょ濡れのハンカチを、満面の笑みで、アビスのフワフワの頭の上へと乗せたのだ。
―――ビシャッ。
(………………………は?)
アビスの思考が、完全にフリーズした。
頭が、濡れている。
水が、滴っている。
せっかくのフワフワの毛並みが、水を含んで、見るも無惨な束になって顔に張り付いている。
「どうです、アビスさん! 冷たくて気持ちいいでしょう? 私のハンカチ、特別に貸してあげますね!」
リディアは、我ながら名案だ、と、誇らしげに胸を張った。
(…き、貴様ァァアアアアア!!!!)
アビスの脳内で、何かがキレる音がした。
(俺様が誰だか分かってんのか! この、最恐の魔人である俺様の頭を、水浸しにしやがって…!)
彼は、怒りに任せて、ブルブルブル! と激しく頭を振った。
水飛沫がリディアの顔に飛び散る。
「きゃっ! もう、アビスさんたら、そんなに喜ばなくても! 水、飛んじゃいますよ!」
(喜んでねえ!!! 怒ってんだよ!!!)
アビスは、あまりの屈辱に、本気で涙が出そうになった。
だが、彼の受難はまだ始まったばかりだった。
灼熱の荒野を、さらに、数時間。
(…もう、ダメだ…。暑くて、死ぬ…。いや、死なねえけど、この屈辱で、プライドが死ぬ…)
アビスは、リュックの中で、完全に伸びていた。
そのぐったりとした様子を見て、リディアも、ようやく、彼が本当に暑さに参っていることに気づいたようだった。
「…アビスさん。大丈夫ですか? なんだか、本当にぐったりと…」
(…今ごろ、気づいたか、この、鈍感勇者が…)
「…いけませんね。このままでは、アビスさんが熱中症に…。…あ!」
リディアが、また、何かを、閃いた。
(…やめろ…。その顔、嫌な予感しかしねえ…)
リディアは、おもむろに、背中に背負っていたあの禍々しい黒い剣を抜き放った。
(なっ!? 何しやがる、小娘!)
「大丈夫です、アビスさん! この聖剣様が、きっと、私たちを守ってくれます!」
彼女は、そう言うと、そのクソ重たい黒い剣を、自分の頭の上に掲げた。
「…どうです? 聖剣様が、太陽の光を遮ってくれて…」
(…………)
「…………」
二人は、沈黙した。
剣は、細い。
当たり前だが、日傘になるはずもなかった。
剣の細長い影がリディアの顔に一本の黒い線を引いているだけで、それはあまりにもシュールで滑稽な光景だった。
(…こいつ、本気で言ってるのか…? 俺様、もしかして、とんでもねえバカに捕まったんじゃねえか…?)
アビスの脳裏に、深刻な疑念が浮かび上がる。
「…だ、ダメ…みたいですね…」
リディアが、恥ずかしそうに剣を降ろした。
(フン! そもそも、こんな、呪いの元凶が、役に立つわけ…)
アビスの、思考は、そこで、止まった。
彼は、気づいた。
(…ん? 待てよ? この邪魔くせえ剣…。確かに黒くてデカい。…俺様が直接持てば、いい日傘になるんじゃねえか…?)
魔人アビスのプライドは、すでに暑さで蒸発していた。
(おい、小娘! その剣、俺様によこせ! 俺様が持ってやる!)
「え? アビスさんが、ですか? …でも、犬のそのお手々で持てるわけ…」
(うるせえ! いいから、よこせ!)
アビスは、リュックから強引に這い出すと、リディアが背負い直そうとしていた剣の柄に、その短い前足でしがみついた。
そして、渾身の力を込めて、その剣を自分の方へ引き寄せようと試みた。
「(う、ぐぐぐ…! なんだ、これ…! クソ重てえ…!)」
見た目以上に、その剣は重かった。
犬の非力な筋力ではびくともしない。
「あ、アビスさん! 無理しちゃ、ダメです!」
リディアが、慌てて彼を助け起こそうとする。
(離せ! 俺様は、こんな、鉄クズ一本に、負けるわけには、いかねえんだよ!)
アビスは、犬としての本能も、プライドも、何もかもをかなぐり捨て、そのクソ重たい剣に、まるで木登りでもするかのようにしがみついた。
だが、次の瞬間。
あの、忌まわしき、ストーカー性能が、発動した。
剣は、アビス(犬)を、「所有者から剣を引き離そうとする敵対者」と誤認したのだ。
―――バチィッ!!!
「ギャン!?」
アビスの小さな黒い体が、紫色の魔力の火花に、弾き飛ばされた。
彼は、荒野の乾いた地面の上を、数メートル、無様に転がった。
「アビスさん!!!」
リディアの、悲鳴。
アビスは、土埃の中で咳き込みながら、立ち上がった。
全身の毛が、静電気で逆立っている。
(…あの、クソ剣…! 俺様を攻撃しやがった…!)
「だ、大丈夫ですか、アビスさん!? 聖剣様が、アビスさんを、敵だと勘違いしたみたいで…!」
リディアが慌てて駆け寄ってくる。
(…もう、いい…。もう、何もかも、どうでもいい…)
アビスは、その場で地面にうつ伏せに寝転がった。
暑さ。
屈辱。
ストーカー剣。
そして、天然の、飼い主。
(…俺様、もう帰りたい…。あの、暗くて涼しい封印の遺跡に…)
魔人アビスの世界破壊計画は、その第一歩を踏み出す遥か手前で、あまりにも過酷な自然環境と、天然勇者(の卵)のせいで、破綻しかけていた。
そんな彼の絶望には、全く気づかないまま。
リディアは、その焦げ臭い毛玉を優しく抱き上げると、再びリュックサックに詰め込んだ。
「さあ、アビスさん! 元気を出してください! あの山の向こう側が、きっとイグニスさんの領地ですよ!」
(…もう、喋るな…。俺は、寝る…)
アビスは、犬であることを最大限に利用し、この理不尽な現実から逃避するように、意識を手放した。
彼らの、前途多難すぎる旅は、まだ始まったばかりだ。




