第三話 呪いの解析と世界破壊(仮)計画
リディア・クレセントは、自分がしでかしたことの重大さを、まだ半分も理解していなかった。
彼女の腕の中には、フワフワとした黒い毛玉――数百年ぶりに復活した最恐の魔人アビス(ポメラニアン似)――が、不本意ながらも大人しく抱かれている。
そして、もう片方の手には、全ての元凶であるあの禍々しい黒い剣を、地面に引きずっていた。
崩壊を始めた遺跡を背に、彼女は、慣れた足取りで、故郷であるクレセント家の屋敷へと続く秘密の獣道を進んでいた。
(おい、小娘。さっさと俺様を降ろせ。不敬だぞ)
腕の中で、アビスの不遜な思考が、リディアの脳内に直接響き渡る。
リディアが(恐怖のあまり)「ハウス!」と叫んだ瞬間、犬の姿になったアビス。
彼は当初、自分が発する「キャン!」という鳴き声しかリディアには届いていないと思っていた。
だが、あの遺跡でリディアが「(アビスさん、黙ってください!)」と脳内で叫び返してきたことで、彼は一つの絶望的な事実に気づかされた。
人語は話せない。
だが、自分の思考は、この小娘にだけ、ダダ漏れになっているのだ、と。
リディアは、その脳内の声に、びくりと肩を震わせた。
「だ、ダメです! アビスさんは魔人とはいえ、今はとっても衰弱している(かもしれない)んですから! 私が運びます!」
(誰が衰弱だ! これは呪いだと言っているだろうが! それに、なんだその名前は! 俺様はアビスだ! 最恐の魔人アビスだぞ!)
アビスは、先ほどリディアが「わあ、黒くてフワフワだから、『クロ』ちゃんですね!」と、あまりにも安直な名前を付けようとしたことに、全力で抗議していた。
結局、リディアが聖剣(と彼女が思っている呪いの鍵)に刻まれていた古代文字を(奇跡的に正しく)読み解き、「アビス」という彼の本名が判明したのだが、彼にとってはどちらも屈辱であることに変わりはなかった。
「それにしても、アビスさん。あなたは、本当に、あの伝説の魔人様なのですか?」
リディアは、腕の中の小さな温かい毛玉に、素朴な疑問を投げかけた。
こんなに小さくて、フワフワで、おまけに、ちょっといい匂いまでした(土埃と、リディアの服の柔軟剤の匂いが混ざっているだけだった)。
(当たり前だ! この俺様こそが、かつて大陸全土を恐怖のどん底に陥れた、アビス様だ! …いいか、小娘。屋敷に着いたら、まずお前を人質に取り、お前の親玉を脅し、俺様の魔力を回復させるための生贄を百人ほど用意させ…)
「はいはい、分かりました。後で、温かいミルクをあげますからね」
(ミルクだと!? 馬鹿にするな! 俺様が飲むのは、貴族の血のワインだけだ!)
二人の(全く噛み合っていない)会話は、クレセント家の屋敷の、裏口にたどり着いたところで、唐突に終わりを告げた。
リディアは、こっそりと自室に戻り、この「アビス」と名乗る不思議な子犬と、呪いの剣(と彼女が思っている聖剣)のことを、どう父親に報告すべきか、必死に言い訳を考えるつもりだった。
だが、彼女の、その、ささやかな希望。
それは、裏口の扉を開けた瞬間、木っ端微塵に砕け散った。
「―――リディア」
地を這うような、低い声。
裏口の、薄暗い廊下。
そこに、腕を組み、仁王立ちになっていたのは、この世の何よりも彼女が恐れる存在だった。
クレセント家当主、バルドル・フォン・クレセント。
彼女の、厳格すぎる父親、その人であった。
「…父様…。あ、あの、ただいま、戻りました…」
リディアの顔から、血の気が引いていく。
バルドルの、その鷹のように鋭い目は、娘の、その泥だらけの姿と、その腕に抱かれた黒い毛玉を、一瞥した。
そして、次の瞬間、その視線は、彼女が背中に隠そうとしていた一本の剣に釘付けになった。
バルドルの顔が、驚愕と、怒りと、そして、ほんの少しの恐怖に、歪んでいく。
「…お前…。その剣は…!」
彼は、震える声で叫んだ。
「まさか…! あの、禁忌の遺跡へ、行ったのか!」
「あ、あの! これは、その! 探検をしていたら、道に迷ってしまいまして…!」
リディアの、あまりにも見え透いた嘘。
「嘘をつけ!」
バルドルの、雷鳴のような怒声が、廊下に響き渡った。
「その剣が何を意味するか知ってて、お前は…! あの、忌まわしき封印を解いたというのか!」
(フン、こいつが、この小娘の親玉か。まあ、こいつもついでに血祭りに上げてやるか…)
アビスの、あまりに不遜な思考が、リディアの脳内に響き渡る。
「だ、黙ってください、アビスさん! 私の父様に、なんてことを!」
リディアが、必死に叫び返す。
その、娘とアビスのやり取りを、バルドルは訝しげに見ていた。
「…リディア? お前、今、誰と、何を…」
「そ、それよりも、父様! この剣、見てください! 私が抜いたんです! きっとこれがクレセント家に伝わる伝説の聖剣なんですよ!」
リディアは、話題を逸らすため、ヤケクソになって、その禍々しい剣を父親の目の前に突き出した。
その、あまりに天然で、あまりに、的外れな一言に、バルドルのこめかみの血管がぷつりと切れそうになる。
「…聖剣、だと…?」
彼は、わなわなと震えながら、その剣に手を伸ばした。
「馬鹿者! それは、聖剣などではない! それは、我が一族が、数百年もの間、命を懸けて守り続けてきた、最悪の『呪いの鍵』だ! その剣が、どれほどの災厄をこの世に…!」
バルドルは、その剣の柄をリディアの手から強引にひったくった。
「あっ!」
リディアの手から、剣が離れる。
「…む…!」
バルドルは、その禍々しい剣を検めようと、眉をひそめた。
だが、次の瞬間。
剣は、バルドルの手から、すり抜けるように消え、シュンッ!という音と共に、リディアの目の前の床に、深々と突き刺さった。
「なっ…!?」
バルドルは、信じられないものを見る目で、その剣と娘を見比べた。
「…馬鹿な…。剣が、私の手を離れ…お前の元に…!? …まさか…! お前を『所有者』として認めたとでも言うのか…!?」
彼は、よろめきながら、壁に手をついた。
その鍛え上げられた手が、屈辱と絶望に震えている。
(フハハハハ! そうだ、もっと絶望しろ人間! その剣は、この小娘から離れねえんだよ!)
アビスが、リディアの腕の中で、楽しそうに、思考を飛ばす。
バルドルは、全てを悟った。
我が一族に伝わる、最悪の禁忌。
その全てが、現実になってしまったのだ、と。
「…リディア。…お前…。本当に、抜いてしまったのだな…」
彼の声には、もはや怒りはなかった。
ただ、底知れない絶望だけが響いていた。
彼は、諦めたように、今度は、リディアの腕に抱かれている黒い子犬へと、その鋭い視線を向けた。
「…して、その忌まわしき魔力の気配は…。その犬コロが…。まさか、アビス本人だとでも言うのか…?」
「あ、はい! アビスさん、です! ご挨拶してください!」
リディアが、アビス(犬)を父親の目の前に差し出す。
(フン、そうだ。この俺様こそが、最恐の魔人アビスだ。ひれ伏せ、愚かな人間よ。そして、さっさとこの呪いを解く方法を…)
「キャンキャン! ワンワン!」
アビスの、威厳に満ちた挨拶は、ただの子犬の威嚇の鳴き声になっていた。
バルドルは、その、あまりに情けない魔人の姿と、その魔人を満面の笑みで自分に差し出してくる天然な娘の姿を、交互に見比べた。
そして、深いため息をつくと、天を仰いだ。
「…我がクレセント家の歴史も…。これまで、か…」
彼は、全てを諦めた。
いや、諦めざるを得なかった。
バルドルは、震える手でリディアの肩を掴んだ。
「…いいか、リディア。…よく聞け」
彼の声は、これまでにないほど真剣だった。
「…お前が何をしでかしたのか、分かっているのか? …お前は、この世界を滅ぼしかねない災厄を解き放ったのだ」
「…はい…。父様が、いつも、お説教の時に、そう、仰っていました…」
「…聞いていたのか、お前…」
(いつも、途中で、眠ってしまっていましたが…)
リディアの、脳内の声に、バルドルは、気づくはずもなかった。
「…だが、起きてしまったことは仕方がない。…そして、その剣がお前を『所有者』として選んだ以上、もはや誰にもお前からその剣を引き離すことはできん。…そして、恐らくはその魔人(犬)もだ」
(その通りだ! 俺様とこの小娘は、呪いで繋がっちまった! さあ、どうする!? この絶望的な状況を!)
アビスの、楽しげな思考。
バルドルは、苦渋に満ちた決断を下した。
「…リディア。…お前は今日から、このクレセント家の屋敷から、一歩たりとも出ることを禁ずる」
「ええっ!?」
「そして、その魔人(犬)もだ! お前は、自らが解き放った災厄を、その身をもって監視し封印し続けるのだ! この、屋敷という牢獄でな! …分かったな!」
それは、最悪の、判決だった。
リディアの、ささやかな冒険は、終わりを告げた。
そして、アビスの、壮大な世界破壊計画もまた、始まる前に頓挫してしまったのだ。
(な…なんだと!? 軟禁だと!? ふざけるな! 俺様が、こんな田舎屋敷に閉じ込められてたまるか!)
「そ、そんな、父様!」
ア ビスとリディアの悲痛な叫び(と脳内の思考)が、クレセント家の重苦しい廊下に響き渡った。
◇
その夜。
リディアの自室は、彼女にとっての牢獄と化していた。
窓には、古めかしいが頑丈な鉄格子がはめられ、扉は、外から厳重に施錠されている。
そして、部屋の中には、彼女と、そして、彼女のベッドの下に追いやられた一匹の黒い子犬がいるだけ。
「…ひどいです、父様…。こんなのって、ありません…」
リディアは、ベッドの上で、膝を抱え、しくしくと泣いていた。
その彼女の足元。
ベッドの下の、冷たい床の上で。
アビスは、屈辱に震えていた。
(…くそ…。くそくそくそっ…! この俺様が、こんな小娘のベッドの下で丸まって寝るだと…!? ありえん…! これ以上の屈辱があるか…!)
彼は、床に置かれた、犬用の粗末な水入れを、忌々しげに睨みつけた。
(…だが。…まあ、いい)
彼は、すぐに思考を切り替えた。
最恐の魔人である彼にとって、絶望とは、克服すべきものではなく、利用するものだ。
この、軟禁生活。
それは、見方を変えれば、絶好の準備期間でもあった。
(フン…まずは、現状の把握だ。この忌々しい呪いの仕組みを、徹底的に解析してやる…)
アビスは、その小さな犬の体で、意識を集中させた。
魔力の大半は失われている。だが、彼の魔人としての膨大な知識と呪術への理解力は失われていなかった。
彼は、自らの内に残るわずかな魔力の残滓を辿り、その流れを歪めている「呪い」の構造を、その傲慢な精神力で強引に解き明かし始めた。
(…なるほどな。…あの忌々しい勇者め。死んだ後までご丁寧に「保険」をかけやがったか…)
数時間の瞑想(犬の姿で目を閉じているだけだが)の末、アビスは、この呪いの大まかな仕組みを突き止めていた。
(…あの黒い剣が「鍵」。そして、あの小娘が「所有者」。所有者が、俺様(魔人)に対して「危害」を認識した瞬間…いや、所有者に危害を加えようとした瞬間、か)
アビスは、あの遺跡での決定的な瞬間を反芻する。
(…俺様があの小娘を殺そうとしたその瞬間、あの小娘が何かを叫んだな…? 『ハウス』…だったか? フン、犬のしつけかよ)
その、あまりに間抜けな言葉が、呪文のトリガーとして設定されたらしい。
(…あの勇者め。俺様が復活した場合、所有者が最初に叫んだ言葉をそのまま「犬化」の呪文にするという、悪趣味なトラップを仕掛けやがったな…! もし、あの小娘が最初に「死ね!」と叫んでいやがったら、それが呪文になっていた、というわけか…)
アビスは、その、勇者の回りくどい悪趣味な「保険」に、忌々しげに舌打ちをした。
(…つまり、発動条件は、あの聖剣(呪いの鍵)を持つ小娘が、「ハウス!」と叫ぶこと。…これで、犬化だ)
彼は、自分の短い前足を見下ろした。
(…問題は、解除条件だ)
アビスは、さらに深く、呪いの構造の深層へと意識を沈めていった。
だが、そこだけが、まるで深い霧に包まれたかのように、巧妙に隠されていた。
(…なんだと…? 解除条件が、読めねえ…!?)
彼の魔人としてのプライドが、初めて焦りの色を帯びた。
(…くそっ! あの勇者め! 解除条件だけを、別の呪術体系で隠蔽しやがったな! なんて陰湿な野郎だ…!)
これでは、自分がいつ魔人に戻れるのか、分からないではないか。
(…チッ。どうやって戻るのかが分からねえとは…! だが、まあいい。やりようはある)
アビスは、すぐに思考を切り替えた。
解除条件が分からないのであれば、探ればいい。
そして、このままこの屋敷に軟禁されているのも、癪に障る。
(…フン。そうだ。俺様の留守中に好き勝手やっていたらしい、あの四天王ども。あいつらを粛清するいい機会だ)
アビスは、リディアが部屋に持ち込んでいた大陸地図を、その小さな犬の前足で広げた。
(…あいつらなら、この軟禁生活よりも、よっぽど面白い「実験」ができそうだ。…旅の道中で、この呪いの解除条件も探れるだろう)
地図の上には、四つの大きな印がつけられていた。
大陸の東西南北を、分割統治している四天王の居城。
彼は、その中で、最も近く、そして、最も頭の悪そうな男の居城に、その小さな黒い爪を立てた。
(炎の軍団長、イグニス。…まずは、お前からだ)
アビスの、世界破壊(という名の四天王粛清)計画が、不本意な軟禁生活の中で、今、静かに幕を開けた。
その、壮大な計画の最初の生贄が自分自身であることに、ベッドの上で泣きじゃくるリディアは、まだ気付くはずもなかった。




