第二十話 大地の迷宮
「…さあ、バザルト。…ここからは、お前の出番だ。…あの小娘が、お前の自慢の「大地の迷宮」で、どれだけ泣き喚くか…。…見せてもらいましょうか」
モルフェは、書斎の隣の空間に控える、巨大な岩の顔に向かって、冷たく告げた。
「…フン。…承知した。陰湿な幻術遊びは、終わりだ。ここからは、純粋な『力』であのネズミどもを潰す」
バザルトの、重々しい声が、響いた。
モルフェは、チェス盤の次の駒を、静かに進めた。
◇
「はあ…はあ…。な、なんとか、なりましたね…!」
リディアは、目の前に現れた隠し扉の奥、下へと続く長い石の階段を、恐る恐る降りていた。
アビス(犬)は、リディアのリュックサックの中で、先ほどの「ありえない幸運の一致」から、まだ立ち直れていなかった。
(…くそっ…。…なんなんだ、この小娘は…。…俺様の完璧な計算とナビゲートが、こいつの、天然の脳筋ムーブと、意味不明な幸運のせいで、台無しだ…!)
アビスはイライラしていた。
彼の計画は、罠をギリギリで回避させ、リディアを適度に「ピンチ」に陥らせ、魔人復帰のトリガーを引くことだった。
だが、リディアは、ピンチになるどころか、アビスの論理を遥かに超えた「非論理」によって、罠そのものを無力化してしまったのだ。
(…これじゃあ、俺様が、魔人に戻れねえじゃねえか!)
アビスの、最大のジレンマ。
リディアが死ぬと、永遠に犬。
リディアがピンチにならないと、魔人に戻れない。
その絶妙なバランスが、リディア本人の常識外れな幸運によって、崩壊しつつあった。
(ここからは、あの脳筋のナワバリだ。幻術みてえな小細工はねえ。その代わり、全てが物理で潰しに来るぞ。今度こそ気を引き締めろ、小娘!)
「は、はいっ!」
リディアは、アビスの、その、いつも以上に焦ったような思考に首を傾げながらも、力強く頷いた。
長い階段を、下りきった、その先。
二人が辿り着いた場所は、モルフェの、あのねじくれた森とは、全く異質な空間だった。
そこは、天井が見えないほど巨大な地下の大空洞。
森のような不快な湿気はなく、ただ、ひんやりとした乾いた岩の匂いが満ちていた。
無数の巨大な石筍と鍾乳石が、天と地から牙のように突き出し、複雑な迷路を形成している。
(…フン。「大地の迷宮」か。…相変わらず、趣味の悪いナワバリだぜ)
アビスは、その無骨な景色を見渡した。
「わあ…。綺麗、です…。なんだか、お城みたい…」
リディアは、その、まるで自然が作り出した巨大な聖堂のような荘厳な光景に、思わず見惚れていた。
(…綺麗、だと? テメエの脳ミソは、どこまでお花畑なんだ…)
アビスが、呆れ返った、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!!
凄まじい地響き。
二人が、今、立っている広間の入り口と出口が、突如として、巨大な岩盤によって塞がれてしまった。
「ひゃあっ!? ま、また、閉じ込められました!」
リディアが悲鳴を上げる。
(…チッ! 挨拶代わりかよ、あの脳筋が!)
アビスの思考と同時。
今度は、左右の岩盤の壁が、凄まじい轟音と共に、二人を圧殺すべく迫ってきた。
「(ま、また、これですかー!?」
リディアは、吊り橋の上での、あの圧殺トラップの悪夢が蘇り、顔面蒼白になった。
(…落ち着け、小娘! あの時とは違う!)
アビスの冷静な思考が響く。
(…これは、モルフェの陰湿な罠じゃねえ! …バザルトの、単純な脳筋トラップだ! …つまり、必ず動力源がある!)
「ど、動力源、ですか!? どこに…!」
(…あの壁の模様だ!)
アビスが、鋭い動体視力で、迫り来る岩盤の表面をスキャンする。
左右の壁。
その全く同じ位置。
そこに、他とは色の違う、魔力を帯びた鉱石が埋め込まれているのを、彼は見逃さなかった。
(…あの二つの鉱石! …あれが、この壁を動かしてる魔力の核だ! …その忌々しいストーカー剣をぶん投げろ!)
「は、はいっ!」
リディアは、もう慣れたものだった。
彼女は、背中から聖剣(呪いの鍵)を引き抜くと、迫り来る左の壁の核に向かって、それを投げつけた。
「やあああっ!」
ガキイイイイン!
聖剣が、核を正確に粉砕する。
左の壁の動きが止まった。
(…よし! …だが、もう片方はどうする!? 剣が戻ってくるまで待ってたら、間に合わねえぞ!)
アビスが叫ぶ。
右の壁は止まっていない。
このままでは、リディアは、左の壁と右の壁に挟まれて圧殺される。
「も、もう、ヤケです!」
リディアは、あろうことか、その迫り来る右の壁に向かって、真正面から突進した。
(…はあ!? この、脳筋が、何を…!?)
「せいやあああああっ!」
彼女は、自らの拳を、残された右の壁の魔力の核に叩き込んだ。
彼女の、勇者の血がもたらす、異常な身体能力。
その小さな拳が、魔力の核にめり込む。
―――バキイイイイイン!
凄まじい轟音と共に、魔力の核が、リディアの純粋な怪力によって粉砕された。
右の壁の動きが止まった。
「…はあ…はあ…。…な、なんとか、なりました…」
リディアは、拳から血を流しながら(すぐに勇者の血で治癒し始めているが)、荒い息をついた。
(…………)
アビスは、リュックの中で絶句していた。
(…こいつ…。…今…。物理で、バザルトの魔術核をブチ壊しやがったのか…? …本当に、人間かよ、テメエは…)
アビスの元・部下であるバザルトの大地の魔力は、絶対的な硬度を誇る。
それを、ただの人間の拳が破るなど、ありえない。
(…いや、待てよ…。さっき、こいつ、あの聖剣を投げたな…? …あのクソ剣を握った時…。こいつの手に、俺様の混沌の魔力の残滓が、一瞬付着したのか…?)
アビスは、必死に、この非論理的な現象を説明しようと試みた。
だが、真実はもっと単純だった。
リディアが、ただ、脳筋で怪力で身体が丈夫なだけだった。
それだけだ。
(…くそっ…。また、ピンチに、ならねえ…。俺様の、魔人化が、遠のく…!)
アビスの焦りが募る。
二人が、停止した圧殺トラップの先へ進むと、そこは、石筍が林立する迷路になっていた。
(…チッ。…ここからは本格的な迷宮か。…おい、小娘。ここは、モルフェの幻術みてえなセコい法則性はねえ。全てが物理だ。俺様の言う通りに進め)
アビスの、魔人としての魔力感知能力が、この複雑な迷宮の構造を立体的に把握していく。
(…右だ。…いや、待て。…左の壁の魔力が薄い。…こっちの壁は、叩けば壊せるな。…近道だ)
「え? 壊すんですか?」
(いいから、やれ! そのクソ剣で叩き斬れ!)
ガキイイイイン!
リディアは、言われるがままに、聖剣(呪いの鍵)で、アビスが指示した壁を破壊し、ショートカットを繰り返していく。
モルフェの陰湿な知能トラップとは真逆。
バザルトの単純な物理迷宮は、アビス(の知識)とリディア(の脳筋パワー)のコンビの前には、もはや障害ですらなかった。
だが、迷宮の中盤に差し掛かった、その時。
ゴゴゴゴゴゴ…!
二人の行く手を塞ぐように、周囲の岩盤や石筍が集まり、一つの巨大な人型を形成し始めた。
身の丈は五メートルを超える、巨大な岩のゴーレム。
それが、十体。
迷宮の通路を、完全に塞いでいた。
「ひゃあっ!? ゴ、ゴーレムです! しかも、たくさん!」
リディアが、聖剣を構える。
(…チッ。…バザルトの眷属か。…あの脳筋、迷路がダメなら、今度は物量で押してきやがったか!)
アビスのプランが、またしても崩壊しつつあった。
この、ゴーレムの群れ。
リディアは、これを突破できるだろう。
だが、それでは、彼女が「ピンチ」になる隙がない。
(…くそっ! …こうなったら、ヤケだ!)
アビスは、あえて間違った指示を出すことにした。
(…おい、小娘! あの、一番デカいゴーレムの頭を狙え! あそこが弱点だ!)
「え? あ、頭ですか? あんな高いところに…!」
(いいから、やれ! 飛びかかれ!)
「わ、分かりました!」
リディアは、アビスの、その無茶苦茶な指示を信じ、一番手前のゴーレムの岩の腕を駆け上がり、その巨大な頭部めがけて、聖剣を振りかぶった。
だが、その頭部は、このゴーレムの中で最も硬い、最強の防御箇所だった。
ガキイイイイイイイン!!!
凄まじい、金属音。
聖剣(呪いの鍵)は、その、あまりの硬さに、弾き返された。
「きゃあっ!?」
リディアは、バランスを崩し、ゴーレムの肩から真っ逆さまに落ちていく。
(…よし! …いいぞ、小娘! そのまま地面に叩きつけられろ! 骨の、二、三本、折れやがれ! そうすりゃ、俺様が…!)
アビスが魔人化の準備に入った、その時。
リディアの幸運が、またしても発動した。
彼女が落ちた、その先。
そこには、運悪く(?)、別のゴーレムが歩いていた。
リディアは、そのゴーレムの頭部に運良く(?)着地すると、そのままバランスを取り、近くの石筍へと飛び移った。
「…ふう…。…あ、危なかったです…!」
(…………は?)
アビスの思考がフリーズした。
(…なんでだ…。…なんで、こいつは、ピンチにならねえんだ…!?)
「アビスさん! 頭は、ダメみたいです! 硬すぎます!」
(…ああ、そうだな…。…チッ! …だったら股下だ! 股下をくぐり抜けやがれ!)
アビスは、もうヤケクソだった。
「ま、股下、ですか!?」
(いいから、やれ!)
「わ、分かりました!」
リディアは、石筍から飛び降りると、一番近くにいたゴーレムの股下を、スライディングでくぐり抜けようと試みた。
だが、彼女の勇者の血統は、ここでも無駄な幸運を発揮する。
彼女がスライディングした、その瞬間。
運悪く(?)、そのゴーレムが一歩前に足を踏み出したのだ。
「あっ!?」
リディアの身体が、ゴーレムの岩の足にぶつかり、その場で止まってしまった。
「きゃあ! う、動けません! 服が、引っかかって…!」
(…よし! 来た! 今度こそ来たぞ、脳筋が!)
アビスは歓喜に打ち震えた。
ゴーレムが、リディアの、その無防備な背中に気づき、その巨大な岩の拳を振り上げた。
(…そうだ! そのまま、潰されかけろ! 生命の危機だ! 俺様の魔人化のトリガーになれえええ!)
リディアが、絶体絶命のピンチに陥った、その時。
―――ゴゴゴゴゴゴ…!
突如、そのゴーレムの足元の地面が、崩落した。
いや、違う。
リディアが服を引っ掛けていた、岩の突起。
それが、運悪く(?)、このゴーレムを支えていた迷宮の床の「楔」の役割を果たしていたのだ。
「…え?」
リディアが振り向くと、自分を攻撃しようとしていたゴーレムが、その足元の巨大な落とし穴に落ちていくところだった。
ゴオオオオオオオ!
ゴーレムは、奈落の底へと消えていった。
「…はあ。…た、助かった…?」
リディアは、無傷でその場に取り残された。
(……………)
アビスは、リュックの中で、もはや言葉も出なかった。
怒りも、焦りも、通り越して、ただ純粋なドン引き。
(…なんなんだ、こいつの幸運は…。俺様の魔人化計画の最大の障害は、モルフェでも、バザルトでもねえ。…こいつ本人だ…!)
アビスは、ついに、この「呪い」の本当の攻略法に気づき始めていた。
リディアの幸運が強すぎる。
並大抵の罠では、彼女は決して「生命の危機」にはならない。
(…くそっ! …こうなったら、もうアレしかねえか…!)
アビスの卑劣な思考が、ついに、最後の手段へとシフトしていく。
その時だった。
一体のゴーレムが落ちたことで迷宮のバランスが崩れたのか、天井から絶え間なく巨大な岩が落ちてくる長い通路が、二人の目の前に現れた。
(…チッ。…最後の関門かよ)
アビスが、毒づく。
「アビスさん! 落石地帯です!」
(…フン。見えるぜ、小娘。この先が、このクソみてえな迷宮の出口だ。…だが、あの落石の雨の中を、どうやって突破する…?)
アビスが、リディアがどう泣き言を言うか待っていると、リディアは、なぜか目をキラキラと輝かせていた。
「…アビスさん! あそこ、見てください!」
(…あ? …何を、見ろってんだ…?)
リディアが指差す、その落石地帯の天井。
そこに、バザルトの魔力とは明らかに異質な、モルフェの幻術の残滓が揺らめいていた。
(…あれは…! …リ、リンゴ飴!?)
そうだ。
そこには、森の入り口で見た、あのリンゴ飴の幻影が、なぜかこの落石地帯の天井に無数に浮かんでいたのだ。
(…モルフェ! …こんな土壇場で、何の嫌がらせだ!?)
アビスは、モルフェの、理解不能な悪趣味に戦慄した。
だが、リディアは違った。
彼女の脳筋な思考は、そのありえない光景を、こう解釈した。
「…アビスさん! 分かりました! あれは、きっと、『ご褒美』です! …あそこまで辿り着いたら、あのリンゴ飴が食べられるんですよ!」
(…………はあ!?)
アビスは、もはや、ツッコむ気もしなかった。
「よし! 行きますよ、アビスさん! あの、リンゴ飴、目指して!」
(お、おい、待て、小娘! あれは罠だ! いや、罠ですらねえ! ただの幻だ!)
アビスの制止も聞かず、リディアは、聖剣(呪いの鍵)を頭上に高く掲げた。
「やあああああああっ!」
彼女は、落石が降り注ぐ死の通路へと、リンゴ飴(幻)だけを目指して突進していった。
ガイン! ガイン! ガギン!
凄まじい、轟音。
聖剣(呪いの鍵)の「自動防御」が、彼女の頭上に降り注ぐ全ての落石を、凄まじい勢いで弾き返していく。
(…ああ、そうかよ…。もう、いいよ…。好きに、しろよ…)
アビスは、リュックの中で、全てを諦めた。
リディアは、アビスのナビゲートも、自らの幸運も、何もかも必要とせず、ただひたすらに、リンゴ飴(幻)への食欲と、聖剣のオートガード性能だけを頼りに、その死の落石地帯を無傷で突破してしまったのだ。
「…はあ…はあ…! …つ、着きました! …あれ? リンゴ飴、消えちゃいました…」
通路を抜けきった瞬間、あのリンゴ飴の幻影は全て消え失せていた。
(…当たり前だろ、バカが…)
アビスは、もはや、怒る気力もなかった。
(…チッ。…ついに、着いちまったか…)
アビスは、疲れたように顔を上げた。
二人が、今、立っている、その場所。
そこは、この大地の迷宮の最深部。
モルフェとバザルトが待ち受けるであろう、玉座の間の、巨大な扉の前だった。
一方、その頃。
モルフェの、書斎。
水晶玉で、その一部始終を見ていたモルフェは、そのありえない結末に、もはや笑うことさえ忘れていた。
「…バザルト…。見たか、今のを…」
「…ああ…。見た…。俺のゴーレムが、あんな間抜けな倒され方を…。俺の落石トラップが、ただの食欲で突破されるとは…」
バザルトの岩の声も、心なしか自信を失っている。
モルフェは、ゆっくりと立ち上がった。
「…理解した。あの、小娘。あれは、我々の「論理」も「物理」も通用する相手ではない。…あれは、この世界の理の外にいる「非論理」そのものだ」
そして彼は、水晶玉に映る、あのリュックの中の小さな黒い犬を睨みつけた。
「…そして、あの犬。あれこそが、全ての元凶。…あの小娘を、導き、利用し、我々の罠を見破り、破壊した、全ての黒幕。…フフフ。ようやく会えますね。アビス様」
モルフェは、ついに、全てを確信した。
「…バザルト。もう小細工は不要だ。これより、最終作戦行動に移行する」
「…フン。望むところだ」
モルフェは、チェス盤の駒を、全てなぎ払った。
「…本当の地獄は、ここからですよ」




