第二話 最悪の呪文
「―――この俺様の手で、直々に血祭りに上げてやる。…復活の、最初の生贄としてな!」
アビスの高笑いが、崩壊を始めた古代の遺跡に響き渡る。
目の前に立つ、銀髪の魔人。
その、あまりに絶対的な存在感と、底知れない魔力の奔流を前に、リディア・クレセントの意識は、完全に刈り取られようとしていた。
(…ああ…。私、なんて、馬鹿なことを…)
彼女の、勇者としての最初の冒険は、今、最悪の形でその幕を閉じようとしていた。
アビスの、美しい、しかし、どこまでも冷たい指先が、リディアの額に触れようとした、まさにその瞬間。
「―――っ!」
リディアの体は、死の恐怖に反応し、本能的に最後の抵抗を試みた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、幼い頃、父の書斎で読んだ犬のしつけの本の一節。
『――言うことを聞かないやんちゃな子には、毅然とした態度でこう叫びなさい――』
そして、その横に描かれていた、小さな犬の可愛らしい挿絵。
「ハウス!」
リディアは、恐怖のあまり、ほとんど意味も分からず、ただその言葉を絶叫した。
「…は?」
アビスの、完璧な表情が、凍りついた。
ハウス?
なんだ、それは。
何かの、古代の呪文か?
いや、違う。
ただの、犬のしつけの言葉だ。
(…こいつ、俺様を、犬か何かと勘違いしているのか…?)
アビスの思考が、侮辱と、怒りで、一瞬停止する。
だが、その、ほんの一瞬の空白と同時に。
―――ピカッ!!!
リディアが、うっかり引き抜いてしまった、あの禍々しい黒い剣。
彼女の手に握られたままだったその「呪いの鍵」が、リディアの「ハウス!」という言葉に呼応するように、閃光を放った。
「なっ…!?」
アビスは、その、あまりに唐突な光に、目を見開いた。
それは、かつて自らを封印したあの忌々しい勇者の光と同質の、抗いがたい強制力の光。
光は、アビスの体を、まるで繭のように、優しく、しかし有無を言わさず、包み込んでいく。
(な、なんだ、これは!? 体から、力が…! 魔力が、抜けていく…!?)
アビスは、焦った。
史上最大と謳われた自らの絶対的な魔力が、まるで栓を抜かれた風呂の水のように、急速に失われていく感覚。
強靱な肉体は、その形を保てなくなり、ぐにゃりと粘土のように歪み始めた。
(馬鹿な! こんなことが、あるはずが…! この俺様が、こんな、訳の分からん光に…!)
彼の傲慢な思考は、そこで完全に途切れた。
彼の体は光の中で急速にその質量を失い、ほんの数秒後。
光が、すうっと、消え失せた時。
そこに、立っていたはずの、最恐の魔人の姿は、どこにも、なかった。
「…………え?」
リディアは、恐る恐る、目を開けた。
目の前に、誰もいない。
あの、銀髪の、美しい、しかし、恐ろしい魔人は、消えていた。
(…夢…? 私、夢を見ていたのでしょうか…?)
だが、遺跡の壁には、自分が叩きつけられた跡が、生々しく残っている。
手には、あの禍々しい剣が、まだ握られている。
夢ではない。
では、あの魔人はどこへ…?
彼女が、混乱しながら、視線を足元へと落とした、その時だった。
「…キャン!」
か細い、子犬の鳴き声。
リディアは、自分の足元を見た。
そこには、一匹の、小さな黒い犬が、ちょこんと立っていた。
フワフワの、真っ黒な毛並み。
クリクリとした、大きな黒い瞳。
その見た目は、王都の貴婦人たちの間で大人気の、愛玩犬、ポメラニアンによく似ていた。
その、あまりにも場違いで、あまりにも可愛らしい、小さな生き物が、自分を見上げて、何かを必死に訴えるように鳴いていた。
「…キャン! キャンキャン!」
その、情けない鳴き声と同時に。
リディアの脳内に、直接、全く別の恐ろしく威厳のある(そして、怒りに満ちた)声が響き渡った。
(…な、なんなんだ、この屈辱は…!)
リディアは、混乱した。
(え…? ど、どこから…?)
(ここだ! 目の前だ、この愚かな小娘がァ!)
声は、確かに、頭の中に響く。
だが、目の前にいるのは、愛くるしい小さな黒い子犬だけ。
子犬は、自分を睨みつけ、その小さな口で必死に吠え続けている。
「キャンキャン!」
(くそ! なぜ、声が出ん! この、情けない鳴き声は、なんだ!)
アビスは、混乱していた。
いや、混乱というより、もはや、怒りを通り越して、無我の境地に達していた。
自分が、犬になっている。
それも、こんな、小さくて、フワフワで、何の威厳もない、愛玩犬に。
手も、足も、短い。
視線が、低い。
そして、何より、言葉が、話せない。
喉から出るのは、「キャン」という、情けない鳴き声だけ。
だが、なぜか、自分の思考だけは、目の前の小娘の脳内に、直接届いているらしい。
(…くそ! お前! 何をしやがった! これも、あの勇者の忌々しい呪いか!)
彼は、目の前で自分を見下ろしている、全ての元凶、リディアを睨みつけた。
(おい! 小娘! さっさとこの呪いを解け! さもなくばお前を八つ裂きにしてやる!)
彼は、ありったけの殺意を込めて、吠えた。
「キャンキャンキャンキャン!」
「…わあ」
リディアは、思わず、声を漏らした。
(…可愛い…)
脳内に響く恐ろしい罵詈雑言と、目の前で必死に吠える愛くるしい子犬の姿。
その、あまりの、ギャップ。
彼女の目には、アビスの殺意に満ちた形相は、ただ自分にじゃれついてきている元気な子犬の姿としか映っていなかった。
(可愛い、だと!? ふざけるな! この俺様を捕まえて、可愛いだとォ!?)
「キャン! グルルルル…!」
アビスは、その小さな口で、牙をむき出し必死に威嚇した。
「あらあら、元気な子ですね」
リディアは、その威嚇さえも、「遊んでほしい」という合図だと完璧に勘違いしていた。
彼女は、恐る恐る、その小さな黒い毛玉に手を伸ばした。
(な、なんだ、お前! その手をどけろ! 俺様に気安く触るな!)
アビスは、その手を避けようとした。
だが、犬の短い手足では、リディアの動きから逃れることはできなかった。
彼女の、優しく温かい手のひらが、そのフワフワの頭を撫でた。
(…ひっ…!?)
アビスの思考が、再び停止した。
なんだ、この感覚は。
頭を、撫でられている。
それも、ついさっきまで自分が殺そうとしていた小娘に。
屈辱だ。
これ以上の屈辱はない。
だが。
(…き、気持ちいい…)
彼の本能が、その優しい手つきに抗うことを拒絶していた。
数百年の、孤独な封印。
その乾ききっていた魂に、温かい何かが染み渡っていくような、背徳的な快感。
アビスは、自分のプライドと本能の狭間で、激しく葛藤した。
(くそ…! やめろ…! やめるんだ…! こんなものに、屈してたまるか…!)
だが、彼の体は正直だった。
威嚇のために逆立っていた毛は、すっかりと元のフワフワに戻り、尻尾が無意識にぶんぶんと左右に振られていた。
「…やっぱり、可愛い…」
リディアは、その光景に、完全に毒気を抜かれていた。
脳内に響く、(やめろ! 尻尾! 振れるな! 俺の意志に反するなァ!)という悲痛な叫びさえも、もはや彼女にとっては、この可愛い生き物の愛嬌の一部にしか思えなくなっていた。
彼女は、自分がとんでもないことをしでかしてしまったという自覚はあった。
禁忌を破り、伝説の魔人を復活させてしまった。
だが、その魔人は、なぜか、目の前で自分に尻尾を振るこの可愛い子犬になってしまった。
(…どうしよう…。父様になんて言えば…)
彼女の脳裏に、厳格な父の顔が、浮かぶ。
『遺跡を探検してたら、魔人が出てきて、でも、ハウスって言ったら、犬になりました』
そんなこと、信じてもらえるはずがない。
(…でも、このまま、この子をここに置いていくわけにもいかないし…)
リディアは、黒い子犬を、そっと抱き上げた。
(なっ…!? 降ろせ! この無礼者! 俺様を抱き上げるなァ!)
アビスは、彼女の腕の中で、必死に、暴れた。
「キャンキャン! バウワウ!」
「よしよし、大丈夫ですよ。もう、怖いことはありませんからね」
リディアは、その抵抗さえも、「怯えている」のだと勘違いしていた。
彼女は、自分がこのとんでもない事態を引き起こしてしまったという責任感と、そして、目の前のこの小さな命(?)を守らなければならないという、勇者の末裔としての奇妙な使命感に燃えていた。
(…こうなったら仕方ありません。私がこの子の面倒を見るしか…!)
彼女は、アビス(犬)を、しっかりと抱きしめ直した。
そして、自分が引き抜いたあの禍々しい剣を、もう片方の手で拾い上げる。
「さあ、帰りましょう。私たちの、お家へ」
彼女は、崩壊しかけた遺跡を後にした。
腕の中では、史上最恐の魔人が、(お前の家は、俺の家じゃねえ! 降ろせ、このクソアマァ!)と、誰にも届かない(リディア以外には)悪態をつき続けていた。
こうして、最恐の魔人と勇者の卵の、あまりに奇妙であまりに理不尽な主従関係(とリディアは思っていない)が、今ここに成立したのだった。




