第十九話 地獄のコンボトラップ
アビスのナビゲートに従い、リディアが、幻の崖(実際は安全な道)を渡ってから、数時間が経過した。
道は、相変わらず、不気味なねじくれた木々と毒々しい花々に囲まれている。
「…アビスさん。…なんだか、さっきから、同じ場所をぐるぐる回っているような気がするのですが…」
リディアが、不安そうに声を上げた。
確かに、先ほどから、全く同じ形の、幹に巨大な人面瘡のようなコブがある木を、何度も通り過ぎている気がする。
(…やっと気づいたか、この脳筋め)
アビスは、リュックの中で、忌々しげに呟いた。
(…モルフェの、第二の罠だ。空間認識そのものを歪ませる悪趣味な結界だ。普通に歩いているだけでは、永遠に、この同じ場所をループさせられる)
「ええ!? そ、そんな…! じゃあ、どうすれば…!」
(…うるせえ! 黙って、俺様の言う通りに歩け! モルフェの思考パターンなんざ、お見通しだ)
アビスは、かつての部下の、その陰湿な性格を思い出していた。
(…あいつは、策略家を気取ってるが、所詮は、ただの几帳面な潔癖症だ。あいつの仕掛ける罠は、必ず、完璧な「論理」と「法則」に基づいている)
アビスの、犬の瞳が、この一見無秩序に見える森の、魔力の流れの「法則性」を、見抜き始めていた。
(…フン。…なるほどな。あの木の人面瘡みたいなコブ。あれが、この幻術の「起点」か)
アビスは、リディアに、奇妙な指示を出し始めた。
(おい、小娘! 次の人面瘡の木を、右だ! そこから、五歩進め!)
「は、はいっ!」
(よし。止まれ。そこから、後ろに、三歩!)
「ええ!? う、後ろ、ですか!?」
(いいから、やれ! …そうだ。そこから、左に、七歩だ!)
リディアは、まるで子供の遊び(「だるまさんがころんだ」の亜種)のようで、訳が分からなかった。
だが、彼女は、アビスの指示通りにその不規則なステップを踏み続けた。
数分後。
リディアが、アビスの「そこから、斜め前に、二歩!」という最後の指示に従い、足を踏み出した、その瞬間。
ブワッ、と。
目の前の紫色の霧が、まるでカーテンが開くように晴れ渡った。
「あ…!」
目の前に、先ほどまでの、ねじくれた森とは全く違う、開けた空間が広がっていた。
二人は、モルフェの無限ループの結界を突破したのだ。
(…フン。…こんな、もんだろ)
アビスが、ドヤ顔で(犬だが)鼻を鳴らす。
(あいつの結界は、常に、「七歩進んで、三歩下がる」ような特定の法則で構築されてやがる。その逆のパターンを踏めば、こうして簡単に出られるんだよ)
「さ、さすがです、アビスさん! 頭がいいんですね!」
リディアが、素直に、感心した声を上げる。
(…なっ…!? あ、当たり前だろ! この俺様を誰だと思ってやがる!)
アビスは、思いがけない賞賛に、しどろもどろになりながら、リュックの奥に慌てて顔を隠した。
(…フン。だが、安心するのはまだ早えぞ、小娘。…ここからが、本番だ)
アビスの声が、再び険しさを取り戻した。
二人が、今、立っている場所。
そこには、不気味なほど静かな湖が広がっていた。
そして、その湖の向こう岸へと、一本の古びた吊り橋がかかっている。
「…吊り橋…? …あんなところに道がありますよ、アビスさん!」
リディアが、希望に満ちた声を上げる。
(…馬鹿野郎。…あんな、分かりやすいものが、罠じゃなくてなんだってんだ)
アビスは、その吊り橋を冷ややかに観察した。
(…チッ。またコンボかよ。あのモルフェとバザルトの悪趣味な共作だぜ、あれは)
「え? どこが罠なんですか? ただの古い吊り橋に見えますけど…」
(…目を凝らせ、小娘。あの吊り橋を吊っているワイヤーを見ろ)
「わ、ワイヤー、ですか…?」
リディアは目を凝らした。
ワイヤーは、ただの古い蔦のように見える。
(…あの蔦は、蔦にカモフラージュした、岩の蛇だ。バザルトの眷属だぜ、あれは)
「ひっ!?」
リディアは、慌てて聖剣を構えた。
(…だが、それだけじゃねえ。あの、ワイヤーは、ただの脅しだ。あれは動かねえ)
「え? 動かない?」
(ああ。…本命は、あの吊り橋の板の方だ。あの板、一枚一枚が、全てモルフェの「幻術」だ)
「ぜ、全部、幻ですか!? じゃあ、渡ったら湖に落ちちゃうんじゃ…!」
(いや、それも、違う。…あの、幻術の板はな、特定の順番で踏まねえと、即座にあのワイヤーがテメエを丸呑みにする仕組みになってやがる)
アビスは、その、あまりに陰湿なコンボトラップに、感嘆(という名の殺意)を覚えていた。
つまり、こうだ。
①モルフェの幻術(特定の順番で踏まないと即死)
②バザルトの物理トラップ(岩の蛇が即死を実行する)
この二つが完璧に組み合わさっている。
どちらか一方の能力だけでは、この罠は成立しなかった。
(…チッ。あの、犬猿の仲だった二人が、ここまで完璧なコンボトラップを仕掛けてくるとはな…。…よっぽど俺様のことが怖いと見える…)
アビスは、二人が、アビスの弱体化を推察していたことなど、知る由もなかった。
「ア、アビスさん! ど、どうするんですか、これ!? 正しい順番なんて分かるわけ…!」
リディアが、半泣きになっている。
(…フン。慌てるな、脳筋が。この俺様にかかれば、あんな子供騙しのパズルなんざ、解けて当然だ)
アビスの、魔人の瞳が、その吊り橋の魔力の流れの「法則性」を、再び読み解き始めた。
(…フム。…なるほどな。あいつ、自分の誕生日を順番にしてやがるのか…。…悪趣味が過ぎるぜ…)
アビスは、モルフェの個人的な情報をなぜか知っていた。
そして、その数字の羅列が、この即死パズルの唯一の正解ルートであると、一瞬で見抜いたのだ。
(…おい、小娘。今から俺様が言う通りに飛べ)
「と、飛ぶんですか!?」
(そうだ。絶対に間違えるなよ。まず三番目の板。次に二番目の板。その次は五番目だ)
「む、無理です! そんな、飛び石みたいに…!」
(やるんだよ! それとも、あの、岩の蛇に、丸呑みにされたいか!?)
「ひっ! や、やります!」
リディアは、聖剣を背負い直し、意を決して湖の上へと跳躍した。
「えいっ!」
トン!
彼女は、アビスの指示通り、三番目の板に無事に着地した。
(…よし! 次だ! ここから二番目!)
「やあっ!」
トン!
彼女は、まるで、川の飛び石を渡る子供のように、不安定な足場で、アビスの指示通りにステップを踏んでいく。
その間も、吊り橋を吊る岩の蛇は、不気味にその岩の瞳をリディアに向けたまま、動かない。
(…いいぞ! そのまま、行け! あと、五歩だ!)
リディアは、汗だくになりながらも、その奇跡的なステップを続けた。
そして、ついに。
「…はあっ! つ、着きました…!」
彼女は、無事に、向こう岸の安全な地面へと辿り着いた。
(…フン。やれば、できるじゃねえか)
「はあ…はあ…。もう、心臓が、止まるかと…」
(…チッ。大袈裟なヤツだ。…あんなもん、ただの数字遊びだろ)
アビスが毒づいた、その時だった。
―――ゴゴゴゴゴゴゴ…!
凄まじい、地響き。
リディアが今渡り終えた、その吊り橋。
いや、吊り橋があったはずの空間。
その両岸の岩盤が、突如として、内側へと、凄まじい勢いで迫り始めたのだ。
「なっ!?」
(まずい! これは、バザルトの物理トラップだ!)
アビスは気づいた。
モルフェの幻術パズルは、ただの前座。
本命は、この、バザルトの圧殺トラップだったのだ。(…あの、バザルト! あの、モルフェの罠が破られた瞬間に、この物理トラップが発動するように仕組んでやがったのか!)
「アビスさん! 壁が! 壁が、迫ってきます!」
リディアが悲鳴を上げる。
左右から、巨大な岩盤が、二人(一人と一匹)をミンチにすべく迫ってくる。
この狭い一本道では、逃げ場はない。
(くそっ! こうなったら、あの剣で壁を斬り裂け、小娘!)
「む、無理です! 硬すぎます! 剣が通りません!」
リディアは、ヤケクソで、聖剣を、迫り来る岩盤に叩きつけた。
ガキイイイイン!
だが、岩盤はビクともしない。
聖剣の黒いオーラ(混沌の魔力)も、バザルトの純粋な大地の魔力の前には、分が悪いようだ。
(…くそっ! 万事休すか…!)
アビスが、絶望に目を閉じた。
このままでは、リディアが圧殺される。
リディアが、圧殺されるとどうなる?
―――俺様は、永遠に、犬のまま。
(…ふざけやがってえええええええ! こうなったらヤケだ! おい、小娘! その剣を構えろ! そして、目を瞑れ!)
「ええ!? め、目を瞑る、ですか!?」
(いいから、やれ! あとは、俺様がなんとかしてやる!)
「わ、分かりました!」
リディアは、もうどうにでもなれ、という思いで、聖剣を正面の岩盤に突きつけると、目を固く瞑った。
岩盤が、迫る。
リディアの聖剣の切っ先が、岩盤に触れた。
その、瞬間。
―――カチリ。
小さな、音がした。
「…え?」
リディアが、恐る恐る、目を開ける。
迫っていた岩盤が、止まっている。
それどころか、彼女が、聖剣の切っ先を当てていた、その岩盤の一点。
そこが、まるで隠し扉のように、内側へとゆっくりと開き始めていた。
「(…………は?)」
リディアとアビス(犬)の、間の抜けた声が重なった。
隠し扉の奥からは、モルフェの城へと続く、安全な階段が現れた。
(…な…なんでだ…?)
アビスは、混乱した。
(…聖剣がスイッチだったのか…? いや、違う…。剣の魔力とは別の反応が…)
アビスが、その、ありえない幸運(?)の、原因を、必死に探っていた、その時。
モルフェの書斎。
水晶玉で、その一部始終を監視していたモルフェは、そのありえない結末に、初めてその完璧なポーカーフェイスを崩していた。
「…馬鹿な…。…なぜ、あの小娘が、あのスイッチを起動できた…?」
あの隠し扉のスイッチ。
それは、この二重トラップの、唯一の解除キー。
だが、その起動条件は、モルフェとバザルトしか知らないはずだった。
「…あのスイッチが起動する条件は、ただ一つ…。…この幻惑の森に、千分の一の確率で生える毒キノコ、『幻惑泣き』の、胞子を吸い込んだ者だけが起動できる、はず…!」
モルフェは、信じられないというように、水晶玉を睨みつけた。
彼は、水晶玉の映像を巻き戻した。
そして発見した。
リディアが、森の入り口で。
(あ! あのキノコ、なんだか美味しそうです!)
(馬鹿野郎! それは、『幻惑泣き』だ! 食ったら、三日三晩、悪夢を見て泣き続けることになるぞ! 触るな!)
(えー! でも、ちょっとだけ…!)
そう言って、アビスの警告を無視し、その毒キノコを指でツンツンと突いていたことを。
その時、リディアが吸い込んでいた、微量の胞子。
それこそが、今、この絶体絶命の圧殺トラップを無効化する、唯一の「鍵」だったのだ。
「…なんという幸運。…いや、これは、幸運などという論理的なものではない。…まるで、世界の法則があの小娘に味方しているとでもいうような…」
モルフェの、策略家の脳が、初めて、理解不能な「非論理」な存在を認識した。
「…面白い…。…実に、面白いですよ。この、イレギュラーな幸運を持つ小娘…。…フフフ。…退屈しなくて、済みそうだ」
モルフェは、心底楽しそうに笑った。
「…さあ、バザルト。…ここからは、お前の出番だ。…あの小娘が、お前の自慢の「大地の迷宮」で、どれだけ泣き喚くか…。…見せてもらいましょうか」
モルフェは、チェス盤の次の駒を、静かに進めた。




