第十七話 最悪の同盟
リディアとアビス(犬)が、混沌と化した氷の領地を後にしてから、数日が経過した頃。
大陸の中央部に位置する、広大な「幻惑の森」。
そこは、一年中、濃い霧に包まれ、足を踏み入れた者は二度と戻れないと噂される魔の領域だった。
森の木々はありえない角度にねじ曲がり、地面には、現実には存在しないはずの色彩の花々が咲き乱れている。
その森の最深部。 常人であれば辿り着くことすら不可能な空間の歪みの中心に、アビスの元・四天王「策略家」モルフェの居城は、まるで、見る者の認識を嘲笑うかのようにそびえ立っていた。
城の内部は、物理法則を無視していた。
床が壁になり、壁が天井になる。
まっすぐ歩いているつもりが、いつの間にか元の場所に戻っている。
その、城の中心。
無限に続く歪んだ回廊が、唯一、そのねじれを解き、正常な空間を保っている、巨大な書斎。
そこで、一人の男が、静かにチェスの駒を弄んでいた。
痩身の、長身。
顔色は、リュミエールとはまた質の違う、病的なまでの白さ。
黒檀のような艶やかな黒髪を長く伸ばし、その片目は前髪で隠されている。
彼こそが、アビスの、元・四天王の一人、「策略家」のモルフェだった。
彼は、目の前のチェス盤(駒は全て、彼が一人で動かしている)を眺め、その薄い唇を歪めた。
「…チェックメイト、だ。…これで、三百三十三回連続、私の勝ちだ」
彼は、自分自身との対局に勝利し、心底退屈そうにため息をついた。
その静寂を破るように、書斎の空間が、ゴゴゴゴ…と不気味に歪み始めた。
何もない空間から、巨大な岩の塊がせり出し、それが徐々に一つの無骨な顔を形成していく。
まるで、岩盤そのものが意志を持ったかのようだった。
「…モルフェ」
岩の顔から、地響きのような重々しい声が響いた。
その声の主は、アビスの元・四天王、最後の一人。
「大地」のバザルト、その人であった。
「…やあ、バザルト。…相変わらず趣味の悪い登場の仕方だね。私の完璧な書斎の空気が、土臭く汚れてしまうじゃあないか」
モルフェは、チェスの駒を指先で弄びながら、顔も上げずに答えた。
「…フン。貴様のその、ネチネチとした幻術の瘴気よりはマシだ」
バザルトの声には、あからさまな不快感がこもっている。
知恵のモルフェと、脳筋のバザルト。
二人は、四天王の中でも、特に犬猿の仲だった。
「…それで? わざわざ私の領域に干渉してきた用件は何かな? …言っておくが、私は今、非常に退屈している。つまらない話なら、今すぐその岩の顔ごと、亜空間に吹き飛ばすが?」
「…フン。貴様にも関係のある話だ。…イグニスの領地からの通信が完全に途絶した」
バザルトのその報告に、モルフェは、ようやくその指を止めた。
「イグニス、だって…?」
モルフェはゆっくりと顔を上げた。
その、前髪に隠されていない片方の目が、蛇のように細められる。
「…フン。…知っているよ、バザルト。あの脳筋がしくじったという報告は、三日前に受けている」
「それだけでは、ない」
ガイアの声が、一段と低くなる。
「…今しがた入った報告だ。…リュミエールの領地からも通信が途絶した」
「…………なに?」
モルフェの薄い笑みが消えた。
「…リュミエールの領地は、今、完全にカオスと化しているらしい。…あの潔癖症のインテリ野郎が最も嫌う「混沌」だ。…城は崩壊し、領民どもは発狂していると…」
「…イグニスと、リュミエール。炎と氷。混沌と秩序。あの対極の二人が、こうも短期間で立て続けにやられるとはな…」
モルフェは、立ち上がり、書斎の窓辺へと歩いた。
窓の外には、ありえない色彩の霧が渦巻いている。
「…偶然ではない。…何か、とんでもない異常事態が発生していると考えるのが妥当だろう」
モルフェは、チェス盤の上に二つの黒い駒を置いた。
「…フン。…だが、好都合だ!」
バザルトが、その岩の顔を歪めて笑った。
「…あの目障りな二人が消えたんだ! …奴らの領地は、今日からこの俺様のものだ!」
「…早まるな、脳筋が」
モルフェは、バザルトのその短絡的な思考を、冷たく遮った。
「…まだ、分からないのか? …これは、我々にとっても最大の脅威だぞ」
「…脅威、だと…?」
「…そうだ。私は、三日前に、イグニスの領地から魔力の残滓を回収させた。そして分析した」
モルフェの目が危険な光を帯びる。
「…イグニスの領地の中心には、奇妙な魔力の残滓があった。…それも、我々が決して忘れることのできない、あの懐かしい魔力の気配がな」
「…なに…? イグニスの、領地に…?」
バザルトの岩の顔に、動揺の色が走った。
「…この禍々しい混沌の気配。あのイグニスの炎を上回る絶対的な熱量。…イグニスの件だけでも疑わしかったが、今聞いたリュミエールの件で、確定した」
モルフェは、自らの記憶の奥底にある、あの絶対的な恐怖と歓喜の記憶を辿っていた。
「…あのリュミエールが最も嫌う「混沌」を引き起こし、あの完璧な「秩序」を破壊する。…そんな芸当ができるのは、この世に一人しかいない」
数百年前。
自分たち四天王を束ねていた、絶対的な王。
その王だけが持つことを許された、混沌の魔力。
モルフェは、ゆっくりと振り返り、その薄い唇で、その忌まわしき名前を告げた。
「…そうだ。我らが主。アビス様だ」
「…馬鹿な…! アビス様、だと…!?」
バザルトの岩の声が、驚愕に震えた。
「…あの御方は、勇者によって封印されたはずだ! …今さら復活など…!」
「…だが、事実は事実だ、バザルト」
モルフェは冷静に告げた。
「…あの御方が復活なさった。そして、我らに連絡もなく、イグニスとリュミエールを粛清した。…これが意味することは分かるな?」
モルフェの、策略家の脳が、警鐘を鳴らす。
アビスは、自分たち四天王を、裏切り者として認識している、と。
「…フン!」
バザルトが、その驚愕を、怒りへと変えた。
「…あの暴君が戻ってきたところで、今さら頭を垂れる俺様では、ない! むしろ、返り討ちにしてくれるわ!」
バザルトが、その岩の顔を歪める。
「…ほう? 大きく出たな、バザルト。…忘れたのか? 我々四天王が束になってかかっても、あの御方には指一本触れられなかったという事実を」
「…数百年前の話だ! あの御方が封印されている間、俺様たちは、この大陸を支配し、力を蓄えてきた! …今なら、勝てる!」
「…フン。だからお前は脳筋だと言うんだ」
モルフェは、心底呆れたように、ため息をついた。
「論理的に、考えろ、バザルト。なぜアビス様は、我々四天王を一気に始末せず、それぞれの領地を回って一人ずつ殺すという面倒なことをしておられる? アビス様の性格からすると、考えられないことだ。恐らくは、一人ずつ相手にしなければならない理由がある―――復活直後で、魔力が弱体化しておられるに違いない。弱体化しておられて四天王を一人ずつしか倒せないのなら、我々にも勝機はある。我々は手を組むべきだ」
「…なに…? …この俺様が、テメエと…?」
バザルトの声に、あからさまな嫌悪感がこもる。
「…そうだ。あの御方を一人で相手するのは自殺行為だ。…お前も私も、イグニスやリュミエールのように各個撃破されて終わりだ」
モルフェは、チェス盤の上の二つの黒い駒を、指で弾き飛ばした。
「…だが二人なら。…私の幻術があの方の思考を惑わせ、その隙に、お前の大地があの方の動きを封じる。…私の「幻」とお前の「大地」が完璧に組めば、勝機はある」
モルフェの、その冷徹な提案。
バザルトはしばらく沈黙した。
彼も、脳筋とはいえ、アビスのあの絶対的な恐怖は骨身に染みている。
一人では勝てない。
それは事実だろう。
「…いいだろう」
バザルトは、重々しく頷いた。
「…だが、勘違いするな、モルフェ。…アビス様を倒した後、次にお前を殺すのは、この俺だ」
「…フン。望むところだ。せいぜい、私の幻術に踊らされて自滅しないことだね」
こうして、アビスが知る由もない場所で、残る二人の四天王による、最悪の同盟が結成された。
彼らは知っていた。
アビスが次に狙うのは、自分たちであることを。
彼らは、イグニスやリュミエールのように、一人ずつ各個撃破されるつもりはなかった。
彼らは、二人の全ての力を結集し、かつての主君を迎え撃つ最悪の罠を仕掛け始めた。
策略家の幻術と、大地の絶対的な物理。
その二つが組み合わさった地獄の迷宮が、アビスの到着を静かに待ち構えることとなった。
◇
一方、その頃。
リディアとアビス(犬)は、大陸を縦断する街道で、またしても不毛な喧嘩を繰り広げていた。
(…だから! なぜテメエは、そんなに燃費が悪いんだ、まだ、歩き始めて半日だぞ!)
アビスが、リディアの背中のリュックから、思考を飛ばす。
(だ、だって、お腹が空いたんですから、仕方ないじゃありませんか! …あ! アビスさん! 見てください! 大きなリンゴ飴の屋台がありますよ!)
リディアが、街道沿いの小さな村の屋台を見つけ、目をキラキラさせる。
(…リンゴ飴、だと…? …テメエは本当に、緊張感というものがねえな…)
アビスは、深いため息をついた。
(…まあ、いい。…どうせ次の相手は、あの陰険なモルフェと、脳筋のガイアだ。…あいつら、どうやって残虐に始末してやるか…。 フハハハ!)
(ま、また、卑怯なことを、考えてるんじゃ…!)
(うるせえ! 黙ってリンゴ飴でも食ってろ、この脳筋が!)
リディアとアビス(犬)は、自分たちを待ち受ける最悪の罠がすでに仕掛けられているとは露知らず、街道を南へと進んでいくのだった。




