第十五話 意外な結末
「…だから、テメエは二流なんだ」
アビスは、自らの「概念魔法(絶対マイナス百万度)」によって完璧な氷の立像と化した元・部下の姿を、冷ややかに見下ろしていた。
指一本でイグニスを弾き飛ばし、このインテリ野郎の論理をプライドごと叩き潰す。
魔人として復活した、この全能感。
やはり、力こそが全てだ。
彼が、自らの圧倒的な勝利の余韻に浸っていた、その時。
「…ん…うう……」
弱々しい、うめき声。
アビスは、ゆっくりと、声のした方を振り返った。
そこには、彼が破壊した氷の牢獄の残骸の中で凍える、リディアの姿があった。
彼女は、氷の牢獄が爆発四散した際に、気絶していたのだ。
「…はっ…! …はぁ…はぁ…!」
リディアのまつ毛が震え、ゆっくりと、その若草色の瞳が開かれた。
彼女の身体は、まだ、絶対零度の余波で凍えている。
水路に落ちてずぶ濡れになった服が、バリバリに凍りつき、まるで氷の鎧のようだった。
だが、そんなことよりも、彼女は目の前の光景に息をのんだ。
「…アビスさん…!」
魔人形態のアビスが立っている。
そして、その目の前には、あの恐ろしかった氷の貴公子リュミエールが、なぜか恐怖の表情のまま、完璧に「凍結している」姿があった。
(…チッ。…起きやがったか、この、クソ面倒くせえ、時限爆弾が)
アビスは、内心で、忌々しげに舌打ちをした。
彼は、イグニス戦で自らが直面した「最悪のジレンマ」を忘れてはいなかった。
―――リディアの機嫌を損ねると、「ハウス!」で犬に変えられる。
(…フン。…イグニスの時は、調子に乗りすぎて、あの小娘にドン引きされたからな。…おかげで、勝利の余韻ゼロで、犬に逆戻りだ)
イグニス戦の、失敗。
あの屈辱を、二度と繰り返すわけにはいかない。
アビスは、決めていた。
今回は、「卑怯な」騙し討ちはしない。
ただ、ひたすらに、圧倒的な力で、真正面から、元・部下のその完璧な論理をプライドごと粉砕した。
そして、何より。
彼は、リュミエールをまだ殺してはいない。
ただ凍らせただけだ。
(…これなら、あのリディアも、文句はあるめえ)
全てはアビスの計算通り。
彼は、この瞬間のために、あえてこのインテリ野郎を、殺さずに、凍らせただけで無力化したのだ。
全ては、この脳筋勇者の機嫌を損ねないため。
「…はっ…! アビスさん! また、ひどいことを…!」
リディアは、上半身を起こし、戦闘の決着を悟ると、いつものように非難の声を上げようとした。
だが、彼女は、目の前の光景に言葉を失った。
リュミエールは、イグニスの時のように、消え去ってはいない。
血も流れていない。
ただ、美しい氷像のように凍っている。
「…え…?」
リディアは混乱した。
「…凍って…ますけど…。…今回は、殺しては、いない…のですか…?」
その、あまりに間の抜けた声に、アビスは、待ってました、とばかりに振り返った。
その表情は、完璧だった。
傲慢な魔人のそれではなく、まるで「仕方なく、やってやった」とでも言いたげな、面倒くさそうな表情。
「フン。…当たり前だろ」
アビスは、リディアに思考が漏れないよう細心の注意を払いながら、さも当然というように答えた。
「…あのバカの時、お前がうるさかったからな。『卑怯だ』の『残虐だ』の、喚き散らしやがって)」
「う…! そ、それは事実じゃありませんか!」
「…チッ。…だから今回は、無力化してやっただけだ。…俺様のやり方じゃねえがな。…これなら文句ねえだろ?」
アビスは、あえて、恩着せがましく、そう告げた。
(本当は凍った時点で死んでるけどな)
アビスの内心の呟きは、リディアには聞こえない。
リディアは、アビスのその言葉に目を丸くした。
「…アビスさん…!」
彼女の若草色の瞳が、キラキラと輝き始めた。
(…え? …今、私の、ためにって…?)
彼女の脳内で、都合のいい解釈が始まる。
「…アビスさん、私が、『卑怯なことは、ダメです』って、言ったから…。…本当は、殺したかったはずなのに…。…私のために我慢して、凍らせるだけで、済ませてくれたんですか…!?」
(…フハハハ! チョロい! チョロすぎるぜ、この脳筋勇者め!)
アビスは、内心で、高らかに勝利の雄叫びを上げた。
リディアは、アビスが敵を物理的に殺さなかったというその一点だけで、彼が自分のために「改心」してくれたのだと、盛大に勘違いしていた。
彼が、実際には、リュミエールの精神をそのプライドごと粉々にへし折ったことなど、知る由もなかった。
「…アビスさん…! あ、ありがとうございます…!」
リディアの、その、尊敬の眼差し。
それこそが、アビスが望んだ完璧な結果だった。
(…フン。…まあ、こんな、もんだろ)
アビスは、リディアのその盛大な勘違いに、満足げに頷くと、踵を返した。
「…さて、と」
彼は、この部屋に来た本来の目的を、忘れてはいなかった。
あの、忌々しい、魔導コアだ。
(…フン。…こいつのせいで、面倒なことになったからな)
アビスは、自分が立てたあの卑劣な計画(領民の発狂)のことなど、すっかり忘れていた。
いや、もはや、どうでもよくなっていた。
魔人化した今、地獄絵図が起きようが、起きまいが、些細なことだ。
(…だが、こいつは気に食わねえ。…腹いせにブッ壊してやるぜ)
彼は、ただ「ムカついたから」という理由だけで、その脈動する魔導コアに近づくと、力任せにその足を振り上げた。
「アビスさん!? 何を…!?」
リディアの制止の声も聞かず。
「…ふんっ!」
ドゴッ!
アビスの蹴りが、魔導コアにクリーンヒットした。
だが、その瞬間。
アビスの予想しなかった事態が、起こった。
魔導コアは、アビスの蹴りの威力に耐えきれず、その台座から弾き飛ばされ、放物線を描いて飛んでいったのだ。
そして、その飛んでいった先。
そこには、完璧な氷の立像となって立ち尽くしている、リュミエールの姿があった。
―――ガツーン!
魔導コアが、リュミエールの氷像に、ピンポイントで直撃した。
そして、次の瞬間。
―――パリイイイイイイイイイイイイイイン!!!!
リュミエールの氷像と、魔導コアが、ともにあっけなく粉々に砕け散った。
もちろん、その中身ごと。
リュミエールの死亡が、誰の目にも確定した瞬間だった。
「「…………あ…………」」
アビスとリディアの間の抜けた声が、静かな玉座の間に響き渡った。
アビスは、冷や汗を流した。
(…やべえ…。…事故だ。…これは、不可抗力だ…!)
リディアは、目を見開いた。
さっきまで、「無力化しただけ」と言っていたアビス。
そのアビスが、今、目の前で、とどめを刺した(ように見えた)。
「…アビスさん…?」
リディアの、声が、震えている。
「…お、おい、小娘! 待て! 今のは事故だ! わざとじゃねえ! あのコアが、偶然、リュミエールの所に飛んで…!」
アビスの、必死の言い訳。
だが、それは、リディアの耳には届いていなかった。
彼女の脳裏をよぎったのは、ただ一つの、「裏切られた」という事実。
さっき、「改心してくれた」と感動した、あの気持ちは何だったのか。
やはり、この魔人は、根っからの悪党で、嘘つきなのだ。
「…うわああああああああん! やっぱり、嘘つきです! 今回は、殺さないって、言ったのにいいいいいい!―――ハウス!!!!」
「なっ…!?」
アビスは、その言葉を聞いた瞬間、絶望に打ちひしがれた。
(…しまった! こいつ、こんなところで、やりやがった…!)
だが、もう遅い。
リディアの手に握られた聖剣(呪いの鍵)が、その呪文に呼応し、眩い光を放った。
「…ああああああああ! なんでだああああああああっ!?」
アビスの、絶叫。
彼の完璧な魔人の肉体は、再び、あの忌々しい光に包まれ、急速に縮んでいく。
そして、数秒後。
そこには、一匹の、黒いポメラニアン似の子犬が、呆然と立ち尽くしていた。
目の前には、粉々に砕け散ったリュミエールと、魔導コアの残骸。
そして、背後には、自分を犬にした張本人。
アビスは、犬の姿のまま、ゆっくりと振り返った。
リディアは、その場で、「うわああああああん!」と、子供のように泣きじゃくっていた。
「…………」
アビスの脳裏に、数秒前の全能感が蘇る。
そして、今の、この無力な姿。
「キャイイイイイイイイイイン!(…くそがああああああああああっ!)」
最恐魔人(犬)の絶叫が、元・部下の墓標となった玉座の間に、虚しく響き渡った。




