第十四話 絶対零度を超えるもの
「…ア…アビス、様…!? なぜ、ここに…!?」
氷の貴公子リュミエールの完璧に整えられた無表情が、初めて「驚愕」という非論理的な感情によって歪んだ。
彼が創り上げた、絶対零度の氷の牢獄。
その、爆発四散した残骸の中心に浮いていたのは、銀色の長髪をなびかせ、血のように赤い瞳で自分を冷ややかに見下ろす、絶対的な存在。
数百年前、自らがその完璧な論理の全てを捧げた、絶対的な主君――最恐魔人アビス、その人であった。
リュミエールの、完璧な論理の世界が、音を立てて崩れ始める。
彼が、この数百年かけて築き上げてきた完璧な「静止」の世界が、今、根底から覆されようとしていた。
アビスは、その、元・部下の、あまりに間抜けな驚愕の表情を、心底楽しんでいた。
リディアの、あの、馬鹿げた正義感(という名の呪い)のせいで、ずいぶんと面倒な遠回りをした。
だが、そのおかげで、最高の「お膳立て」が整った。
彼は、自らが作り出した禍々しい闇の魔力のオーラを、その身体から惜しげもなく解き放った。
その、圧倒的な魔力の奔流は、この、絶対零度で支配されていたはずの王座の間の空気を、瞬く間に塗り替えていく。
熱いわけではない。
冷たいわけでもない。
ただひたすらに、濃密で、全てを飲み込むかのような「闇」の気配。
アビスは、地面に降り立つと、ゆっくりとリュミエールへと歩み寄った。
「よう、リュミエール。久しぶりだな」
その声は、傲慢で、不遜で、しかしどこまでも甘美な、魔人の声。
「…アビス、様…。…あなた様は、あの勇者によって、封印されたはず…。なぜ、今、ここに…。しかも、あの醜悪な不純物と共に…?」
リュミエールは、目の前の信じがたい現実を、必死に自らの論理で再構築しようと試みていた。
「…なるほど。…理解しました。あなた様は、あの不純物の小娘に思考を汚染されているのですね。…哀れなことです。…ですが、ご安心を。このリュミエールが、今、あなた様を、その醜悪な呪縛から解放し、完璧な『静止』の世界へとお導きいたします」
「…は?」
アビスは、その、あまりに壮大な勘違いに、一瞬、思考を停止させた。
「…この、インテリ野郎。俺様が、あんな脳筋勇者に操られてるだと…? …はは。わははははは…! 面白い! 面白いじゃねえか、テメエ!」
アビスは腹を抱えて笑った。
「―――冷却します」
リュミエールは、もはや、一切の躊躇をしなかった。
彼の論理回路が、結論を導き出す。
たとえ、目の前の存在がかつての主君であろうと、この完璧な「静止」の世界を乱す「熱源」であるならば、それは排除すべき「不純物」に他ならない。
彼の指先に、再び、あの青白い光が収束していく。
絶対零度の魔力レーザー。
だが、その規模は、先ほどリディアに向けたものとは比較にならなかった。
玉座の間全体の魔力を根こそぎ吸い上げるかのような、膨大なエネルギーの奔流。
(…ほう? 本気で、来やがったか。…いいぜ、遊んでやるよ)
アビスは、その絶対的な破壊の光を前にしても、笑みを崩さなかった。
だが彼は、イグニス戦の苦い記憶を思い出していた。
(…チッ。…あの脳筋の時は、調子に乗りすぎて、あの小娘にドン引きされたからな。おかげで、勝利の余韻ゼロで犬に逆戻りだ)
彼は、イグニス戦で自らが直面した「最悪のジレンマ」を反芻する。
―――リディアの、機嫌を損ねると、「ハウス!」で犬に戻される。
(…フン。…面倒くせえ。つまり、あれだろ? こいつをブッ殺すのは確定として。…あの小娘に「うわあ、アビスさん、卑怯で、残虐!」と思われなきゃいいんだろ?)
彼は、リディアに約束させられた、「正々堂々」という、魔人にあるまじきクソみたいなワードを思い出す。
(…フハハハ! 分かったぜ、小娘! 見てやがれ! この俺様が、テメエの望む、最高に「正々堂々」とした戦い方を見せてやるよ!)
アビスは決めた。
今回は「卑怯な」騙し討ちはしない。
ただひたすらに、圧倒的な力で、真正面から、元・部下のその完璧な論理をプライドごと粉砕する。
それこそが、彼が思い描いた、「リディアの機嫌を損ねない」完璧な勝利のシナリオだった。
「…さあ、来いよ、インテリ野郎! テメエの自慢の『絶対零度』とやらで、この俺様を凍らせてみやがれ!」
アビスは、あろうことか、一切の防御も回避もせず、その身体をリュミエールの前に晒した。
「…非論理的な…。自ら死を望むとは」
リュミエールは、その挑発をただのバグとして処理した。
「…望み通り、あなたを完璧な『静止』へ還します。…『絶対零度』!」
リュミエールの指先から、青白い閃光が放たれた。
アビスの身体を、絶対零度の光が包み込む。
バリバリバリバリッ!
凄まじい音と共に、アビスの身体は、傲慢な笑みを浮かべたまま、一瞬にして氷の塊と化した。
それは、イグニスの炎さえも凍らせる、究極の凍結魔法。
リュミエールは、自らが作り上げた氷の芸術品を、無感動に眺めていた。
「…処理、完了。…熱源の完全な静止を確認。…これで、世界は再び完璧な秩序に戻りま…」
―――ピシッ。
彼が勝利を宣言しようとした、その時。
それを遮るように、その完璧なはずの氷の彫像に、小さな亀裂が入った。
「…な…!?」
リュミエールの論理回路が警鐘を鳴らす。
ありえない。
「絶対零度」は、全ての分子運動を停止させる、完璧な魔法。
内側から破るなど、物理的に不可能だ。
―――ピキピキピキッ!
亀裂は、一瞬にして、氷像全体へと広がっていく。
「…馬鹿な! 私の論理が…! 私の絶対零度が、なぜ…!?」
次の、瞬間。
―――バキイイイイイイイイイン!!!!
絶対零度の氷が、内側からの圧倒的な魔力によって四散した。
その中心に立っていたのは、無傷のアビス。
彼は宙に浮き、自らの肩に付いた氷の破片を鬱陶しそうに払いながら、呆然と立ち尽くすリュミエールを見下ろした。
「…な…なぜ、無事なのです…!? 私の絶対零度は完璧なはず…!」
「バーカ。お前が、凍らせたのは、俺様の魔力が作り出した、ただの氷の薄皮一枚だ」
アビスは、ニヤリと笑った。
そう、彼は、わざと攻撃を受けたのだ。
リュミエールの絶対零度が、自らの体に触れる寸前。
そのコンマ一秒の隙に、自らの魔力で、絶対零度の氷の膜を全身に張り巡らせ、あたかも自分が凍りついたかのように「見せかけた」のだ。
イグニスとは違い、こいつは、プライドが高いインテリだ。
こういう奴には、「力」でねじ伏せるよりも、その得意な「論理」の土俵で完璧に叩き潰したほうが、何倍も屈辱を与えられる。
それこそが、アビスが見出した、「正々堂々」と「卑怯」を両立させる最適解だった。
「…私を…、騙した、と…?」
「フン。テメエの、その、クソつまらねえ攻撃にはもう飽きた。今度は、俺様の番だ」
アビスは、その赤い目を細めた。
彼は、リュミエールが最も信奉する「絶対零度」という概念そのものを嘲笑うかのように、宣告した。
「見せてやるよ、インテリ野郎。テメエの、その、ちっぽけな物理法則の外側にある、本当の『冷気』ってやつをな。…『絶対マイナス百万度』」
バリ…バリバリ…。
アビスの詠唱と同時に、リュミエールの身体が足元から凍り始める。
「…な…!?」
リュミエールの、完璧な論理が、そのありえない単語を拒絶した。
「…マイナス、百万度…? …馬鹿な! そんな温度は物理的に存在しません! 絶対零度こそが最低の温度です! それが宇宙の法則です!」
彼が、抗議の声を上げる。
だが、アビスは、その論理的な悲鳴を、心底楽しそうに聞いていた。
「…フン。物理的に存在するかどうかじゃねえ。魔法っていうのは、『概念的』に存在すれば、それでいいんだよ。そんなこともわからねえようだから、テメエは二流なんだ」
「…ひ…!」
リュミエールは、初めて、本能的な恐怖に目を見開いた。
彼の論理が理解を拒む、未知の恐怖。
だが、絶対零度にも耐えうる彼の身体が足元から凍ってきているのが、アビスの言葉を何よりも雄弁に裏付けていた。
アビスは、その、恐怖に染まった顔を満足げに見届けると、指を振るった。
「終わりだ。テメエの大好きな『静止』の世界で、永遠に凍えてやがれ」
マイナス百万度の冷気が足元から一気に這い上がり、リュミエールの身体を包み込んでいく。
彼は、自らの肉体が、理解不能な概念によって停止させられていく、その恐怖に、叫び声を上げた。
「…そんな温度は存在しない…! しないんだあああああっ!」
それが、完璧な論理主義者、リュミエールの、最後の言葉だった。
数秒後。
そこには、恐怖の形相のまま完璧に凍結した、リュミエールの「氷の立像」だけが残されていた。




