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最恐魔人、勇者(♀)のペットになる  作者: 神凪 浩
第三章 氷の貴公子リュミエール
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第十四話 絶対零度を超えるもの

「…ア…アビス、様…!? なぜ、ここに…!?」


 氷の貴公子リュミエールの完璧に整えられた無表情が、初めて「驚愕」という非論理的な感情によって歪んだ。

 彼が創り上げた、絶対零度の氷の牢獄。

 その、爆発四散した残骸の中心に浮いていたのは、銀色の長髪をなびかせ、血のように赤い瞳で自分(リュミエール)を冷ややかに見下ろす、絶対的な存在。

 数百年前、自らがその完璧な論理の全てを捧げた、絶対的な主君――最恐魔人アビス、その人であった。


 リュミエールの、完璧な論理の世界が、音を立てて崩れ始める。

 彼が、この数百年かけて築き上げてきた完璧な「静止」の世界が、今、根底から覆されようとしていた。


 アビスは、その、元・部下の、あまりに間抜けな驚愕の表情を、心底楽しんでいた。

 リディアの、あの、馬鹿げた正義感(という名の呪い)のせいで、ずいぶんと面倒な遠回りをした。

 だが、そのおかげで、最高の「お膳立て」が整った。

 彼は、自らが作り出した禍々しい闇の魔力のオーラを、その身体から惜しげもなく解き放った。

 その、圧倒的な魔力の奔流は、この、絶対零度で支配されていたはずの王座の間の空気を、瞬く間に塗り替えていく。

 熱いわけではない。

 冷たいわけでもない。

 ただひたすらに、濃密で、全てを飲み込むかのような「闇」の気配。

 アビスは、地面に降り立つと、ゆっくりとリュミエールへと歩み寄った。

「よう、リュミエール。久しぶりだな」

 その声は、傲慢で、不遜で、しかしどこまでも甘美な、魔人の声。

「…アビス、様…。…あなた様は、あの勇者によって、封印されたはず…。なぜ、今、ここに…。しかも、あの醜悪な不純物(バグ)と共に…?」

 リュミエールは、目の前の信じがたい現実を、必死に自らの論理で再構築しようと試みていた。

「…なるほど。…理解しました。あなた様は、あの不純物(バグ)の小娘に思考を汚染されているのですね。…哀れなことです。…ですが、ご安心を。このリュミエールが、今、あなた様を、その醜悪な呪縛から解放し、完璧な『静止』の世界へとお導きいたします」

「…は?」

 アビスは、その、あまりに壮大な勘違いに、一瞬、思考を停止させた。

「…この、インテリ野郎。俺様が、あんな脳筋勇者(バカ)に操られてるだと…? …はは。わははははは…! 面白い! 面白いじゃねえか、テメエ!」

 アビスは腹を抱えて笑った。


「―――冷却します」


 リュミエールは、もはや、一切の躊躇をしなかった。

 彼の論理回路が、結論を導き出す。

 たとえ、目の前の存在がかつての主君であろうと、この完璧な「静止」の世界を乱す「熱源」であるならば、それは排除すべき「不純物(バグ)」に他ならない。

 彼の指先に、再び、あの青白い光が収束していく。

 絶対零度の魔力レーザー。

 だが、その規模は、先ほどリディアに向けたものとは比較にならなかった。

 玉座の間全体の魔力を根こそぎ吸い上げるかのような、膨大なエネルギーの奔流。

(…ほう? 本気で、来やがったか。…いいぜ、遊んでやるよ)

 アビスは、その絶対的な破壊の光を前にしても、笑みを崩さなかった。

 だが彼は、イグニス戦の苦い記憶を思い出していた。

(…チッ。…あの脳筋(イグニス)の時は、調子に乗りすぎて、あの小娘にドン引きされたからな。おかげで、勝利の余韻ゼロで犬に逆戻りだ)

 彼は、イグニス戦で自らが直面した「最悪のジレンマ」を反芻する。

 ―――リディアの、機嫌を損ねると、「ハウス!」で犬に戻される。

(…フン。…面倒くせえ。つまり、あれだろ? こいつをブッ殺すのは確定として。…あの小娘に「うわあ、アビスさん、卑怯で、残虐!」と思われなきゃいいんだろ?)

 彼は、リディアに約束させられた、「正々堂々」という、魔人にあるまじきクソみたいなワードを思い出す。

(…フハハハ! 分かったぜ、小娘! 見てやがれ! この俺様が、テメエの望む、最高に「正々堂々」とした戦い方を見せてやるよ!)

 アビスは決めた。

 今回は「卑怯な」騙し討ちはしない。

 ただひたすらに、圧倒的な力で、真正面から、元・部下のその完璧な論理をプライドごと粉砕する。

 それこそが、彼が思い描いた、「リディアの機嫌を損ねない」完璧な勝利のシナリオだった。

「…さあ、来いよ、インテリ野郎! テメエの自慢の『絶対零度』とやらで、この俺様を凍らせてみやがれ!」

 アビスは、あろうことか、一切の防御も回避もせず、その身体をリュミエールの前に晒した。

「…非論理的な…。自ら死を望むとは」

 リュミエールは、その挑発をただのバグとして処理した。

「…望み通り、あなたを完璧な『静止』へ還します。…『絶対零度(アブソリュート・ゼロ)』!」

 リュミエールの指先から、青白い閃光が放たれた。

 アビスの身体を、絶対零度の光が包み込む。


 バリバリバリバリッ!


 凄まじい音と共に、アビスの身体は、傲慢な笑みを浮かべたまま、一瞬にして氷の塊と化した。

 それは、イグニスの炎さえも凍らせる、究極の凍結魔法。

 リュミエールは、自らが作り上げた氷の芸術品アビスを、無感動に眺めていた。

「…処理、完了。…熱源(バグ)の完全な静止を確認。…これで、世界は再び完璧な秩序に戻りま…」


 ―――ピシッ。


 彼が勝利を宣言しようとした、その時。

 それを遮るように、その完璧なはずの氷の彫像に、小さな亀裂が入った。

「…な…!?」

 リュミエールの論理回路が警鐘を鳴らす。

 ありえない。

 「絶対零度(アブソリュート・ゼロ)」は、全ての分子運動を停止させる、完璧な魔法。

 内側から破るなど、物理的に不可能だ。


 ―――ピキピキピキッ!


 亀裂は、一瞬にして、氷像全体へと広がっていく。

「…馬鹿な! 私の論理が…! 私の絶対零度が、なぜ…!?」

 次の、瞬間。


 ―――バキイイイイイイイイイン!!!!


 絶対零度の氷が、内側からの圧倒的な魔力によって四散した。

 その中心に立っていたのは、無傷のアビス。

 彼は宙に浮き、自らの肩に付いた氷の破片を鬱陶しそうに払いながら、呆然と立ち尽くすリュミエールを見下ろした。

「…な…なぜ、無事なのです…!? 私の絶対零度は完璧なはず…!」

「バーカ。お前が、凍らせたのは、俺様の魔力が作り出した、ただの氷の薄皮一枚だ」

 アビスは、ニヤリと笑った。

 そう、彼は、わざと攻撃を受けたのだ。

 リュミエールの絶対零度が、自らの体に触れる寸前。

 そのコンマ一秒の隙に、自らの魔力で、絶対零度の氷の膜を全身に張り巡らせ、あたかも自分が凍りついたかのように「見せかけた」のだ。

 イグニスとは違い、こいつ(リュミエール)は、プライドが高いインテリだ。

 こういう奴には、「力」でねじ伏せるよりも、その得意な「論理」の土俵で完璧に叩き潰したほうが、何倍も屈辱を与えられる。

 それこそが、アビスが見出した、「正々堂々」と「卑怯」を両立させる最適解だった。

「…私を…、騙した、と…?」

「フン。テメエの、その、クソつまらねえ攻撃にはもう飽きた。今度は、俺様の番だ」

 アビスは、その赤い目を細めた。

 彼は、リュミエールが最も信奉する「絶対零度」という概念そのものを嘲笑うかのように、宣告した。

「見せてやるよ、インテリ野郎。テメエの、その、ちっぽけな物理法則(ルール)の外側にある、本当の『冷気』ってやつをな。…『絶対マイナス百万度アブソリュート・マイナス・ミリオン』」


 バリ…バリバリ…。


 アビスの詠唱と同時に、リュミエールの身体が足元から凍り始める。

「…な…!?」

 リュミエールの、完璧な論理が、そのありえない単語を拒絶した。

「…マイナス、百万度…? …馬鹿な! そんな温度は物理的に存在しません! 絶対零度こそが最低の温度です! それが宇宙の法則です!」

 彼が、抗議の声を上げる。

 だが、アビスは、その論理的な悲鳴を、心底楽しそうに聞いていた。

「…フン。物理的に存在するかどうかじゃねえ。魔法っていうのは、『概念的』に存在すれば、それでいいんだよ。そんなこともわからねえようだから、テメエは二流なんだ」

「…ひ…!」

 リュミエールは、初めて、本能的な恐怖に目を見開いた。

 彼の論理が理解を拒む、未知の恐怖。

 だが、絶対零度にも耐えうる彼の身体が足元から凍ってきているのが、アビスの言葉を何よりも雄弁に裏付けていた。

 アビスは、その、恐怖に染まった顔を満足げに見届けると、指を振るった。

「終わりだ。テメエの大好きな『静止』の世界で、永遠に凍えてやがれ」

 マイナス百万度の冷気が足元から一気に這い上がり、リュミエールの身体を包み込んでいく。

 彼は、自らの肉体が、理解不能な概念によって停止させられていく、その恐怖に、叫び声を上げた。

「…そんな温度は存在しない…! しないんだあああああっ!」

 それが、完璧な論理主義者、リュミエールの、最後の言葉だった。


 数秒後。

 そこには、恐怖の形相のまま完璧に凍結した、リュミエールの「氷の立像」だけが残されていた。

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