第十二話 氷の街の逃走劇
(そっちじゃねえ! この脳筋勇者がァ! 奴らの装甲は関節部分が薄いんだよ! そこを狙え!)
「は、はいっ!」
キィン!
リディアが、アビスの(脳内に響く)怒声に、半ばヤケクソで聖剣(呪いの鍵)を振るう。
禍々しい黒い刀身が、氷の衛兵の一体の肘の関節部分を正確に捉え、その腕を断ち切った。
衛兵は、バランスを崩し、その場に倒れ込む。
だが、すぐに、残りの一体が、寸分の狂いもない動きで、リディアの死角から、氷の槍を突き出してきた。
(避けろ! 後ろだ!)
「きゃあっ!」
リディアは、アビスの指示通り、ブリッジでもするかのような無様な体勢で後ろにのけぞり、その槍を紙一重でかわした。
彼女が、今、戦っているのは、イグニス領のような、個人の感情で動く魔族ではない。
リュミエールによってプログラムされた、氷の戦闘機械。
彼らの動きには、一切の無駄も躊躇も恐怖もなかった。
ただ、目の前の「バグ」を排除するためだけに最適化された動きを繰り返している。
見れば、先ほど腕を断ち切ったはずの衛兵も、すでに体勢を立て直し、残った左手で槍を構え直している。
そして、彼らの騒ぎを聞きつけた別の巡回班らしき衛兵たちが、通りの向こうから、規則正しい足音を立ててこちらへ向かってきていた。
その数は、すでに十体を超えている。
(アビスさん! キリが、ありません! 一体倒しても、すぐに新しい衛兵が応援に…!)
リディアが、ぜえぜえと息を切らしながら、脳内で叫ぶ。
(…チッ! 確かにキリがねえな!)
アビスは、リディアの背中のリュックの中で、忌々しげに舌打ちをした。
リディアの剣技は、勇者の末裔とは名ばかりの素人同然。
だが、彼女には、三つのチート級のアドバンテージがあった。
一つ。
アビス(犬)による、完璧な戦闘ナビゲート。
(右だ! 左だ! そこだ、斬れ! この、脳筋が!)
二つ。
聖剣(呪いの鍵)による自動防御。
リディアが避けきれない攻撃は、剣が勝手に動き、リディアの意思とは無関係に弾き返している,,
三つ。
リディア本人の、天然ゆえの異常な幸運と、勇者の血がもたらす無駄なタフネス。
(うわあ! 今、絶対、槍が当たると…! 石につまずいて避けられました!)
その三つが奇跡的に噛み合った結果。彼女は今、この無機質な殺人機械の群れ相手に、なんとか五分(?)の戦いを繰り広げることができていた。
(アビスさん! その「魔導コア」というのは、どこにあるんですか!?)
リディアが、衛兵の槍を弾き返しながら、脳内で叫ぶ。
(フン。…どうやら、この街の衛兵どもは、全て、あの丘の上の氷の城から遠隔操作されてるみてえだ。間違いねえ。大元のコアは、あの城の中だ)
アビスは、この街に入った瞬間から、この領地全体を覆う巨大な魔術の流れを感じ取っていた。
全ての魔力は、あの街の中央にそびえ立つ氷の城から発せられている。
(…城、ですか…!?)
リディアが、ゴクリと唾を飲んだ。
(おい、小娘! 逃げるぞ! こいつら相手に、無駄な体力使ってる場合じゃねえ! こいつらを、まく!)
(え? ま、まく、ですか!? こ、こんなに、たくさんいるのに…!)
(俺様の指示通りに動け! まずは、あの角を左だ!)
アビスのナビゲートは、戦闘よりも、むしろ、逃走経路の確保においてその真価を発揮した。
彼は、この街の構造が完璧に左右対称で論理的に作られていることを、一瞬で見抜いていた。
(…あのインテリ野郎らしい、趣味の悪い街並みだ。だが、それ故に、予測がしやすい)
「バグを、追跡! 排除せよ!」
リディアが、必死の形相で石畳を駆ける。
その後ろを、十数体の氷の衛兵が、寸分の狂いもない足並みで追跡してくる。
(…フン。予定通り、か)
アビスは、リュックの中でほくそ笑んだ。
リディアには「衛兵から逃げる(まく)」と説明している。
だが、彼がやっていることは陽動だ。
「逃げながら」、街中の衛兵の注意を引きつけ、自分たちの元へと集めているのだ。
彼の真の目的は、「魔導コア」の破壊による領民の「感情の解放(という名の発狂)」。
そのためには、邪魔な衛兵たちを、城からできるだけ引き離す必要があった。
(…いいぞ、小娘! もっと派手に暴れろ! テメエは「革命」のシンボルなんだからよ!)
(だ、誰が、英雄ですか! 私は、ただ、必死なだけです!)
リディアは、アビスのその悪意に満ちた本音(カオスを楽しんでいる)には気づかず、ただ、領民を救うためという正義感だけで、衛兵の群れを引き連れ、アビスのナビゲート通りに氷の街を駆け抜けていく。
(…よし。そろそろ、時間だ)
アビスは、この街の完璧な秩序を維持するシステムを思い出していた。
(…あのインテリ野郎は潔癖症だ。街の区画ごとに、決まった時間に防壁を下ろし、一斉に消毒を行う、趣味の悪いシステムを導入してやがったはず)
アビスの脳裏には、この街の完璧な地図と、衛兵たちの巡回ルート、そして、自動防壁の閉鎖時間が、完璧にマッピングされていた。
(…フン。あのインテリ野郎の几帳面さが仇になるぜ。おい、小娘! 次の十字路を右だ! そこに水路がある! 飛び込め!)
(ええ!? す、水路ですか!? こ、こんな、寒いのに…!)
(いいから、やれ! 死にたくなければな!)
(わ、分かりました!)
リディアは、迫り来る衛兵たちの槍を聖剣で弾き返しながら、十字路を右に曲がった。
そこには、アビスの言う通り、街を縦横に走る人工の水路があった。
「えいっ!」
リディアは、アビス(犬)を入れたリュックを胸に抱きしめ直すと、意を決して、その凍てつく水路へと飛び込んだ。
ザブン! という音が響く。
(…つ、冷たいいいいいっ!?)
水は、凍ってこそいないが、氷河が溶け出したかのような冷たさだ。
(うるせえ! 我慢しろ! それより、あの水門をくぐれ! 急げ!)
水路の先、数十メートル向こうに、この区画を分ける巨大な水門が見えた。
リディアが、必死の思いで氷のような水をかき分け、水門へと進む。
その直後。
「バグを追跡! 水路へ侵入!」
規則正しい号令と共に、十数体の衛兵たちも、一切の躊躇なく水路へと飛び込んできた。
彼らは、プログラムされた「バグの排除」という命令を遂行するためだけに動いている。
(…フン。来たな、バカどもが)
アビスが、ほくそ笑む。
(小娘! 急げ! あと十秒だ!)
(は、はいっ!)
リディアが、最後の力を振り絞り、水門の下をくぐり抜けた。そのまさに直後。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…!!!!
けたたましい音と共に、リディアが今くぐり抜けた水門が、凄まじい勢いで降下した。
(…!?)
水路に飛び込んだ衛兵たちは、目の前で閉ざされた分厚い鉄の壁を見上げ、動きを止めた。
「警告。セクター三の定期クリーニングを開始します。侵入したバグの追跡を中断。待機モードへ移行」
衛兵たちは、水路の中で棒立ちになったまま、その機能を停止させた。
(…フハハハ! かかったな、バカどもめ!)
アビスの高笑いがリディアの脳内に響き渡った。
アビスの陽動(=城下町に衛兵の主力を引きつけて無力化する)は、完璧に成功したのだ。
(はあ…はあ…! び、びしょ濡れです…! さ、寒い…! 死にます…!)
リディアが、水路のヘリに這い上がり、ガタガタと震える。
(うるせえ! これで城の防衛はガラ空きだ! 行くぞ! テメエの熱意で体を乾かしやがれ!)
(む、無茶苦茶です…!)
二人は、ずぶ濡れのまま、衛兵の気配が完全に消えた静寂の街を抜け、ついに氷の城の裏手にある小さな通用口へと辿り着いた。
◇
城内は、アビスの予想通り、静まり返っていた。
(…フン。あのインテリ野郎、自分の城には衛兵さえも置いてねえのか。徹底した潔癖症だぜ)
アビスが、呆れたように呟く。
リュミエールにとって、他者の存在そのものが「バグ」なのだろう。
(…だが、そのおかげで、こっちはやりやすい。おい、小娘。この魔力の流れを辿る。この城の中心、最上階だ。そこにコアがある)
(は、はい!)
リディアは、アビス(犬)をリュックから出すと、彼を抱きかかえ、その小さな鼻先が示す方向へと進み始めた。
城内は、全てが滑らかな氷で作られており、まるで巨大な水晶の内部に迷い込んだかのようだった。
そして、ついに二人は、城の最上階、玉座の間へと辿り着いた。
そこは、城の中で唯一、氷ではなく黒い大理石で作られた、巨大なホールだった。
そして、その中央。
玉座があるべき場所に鎮座していたのは、一つの巨大な氷の結晶体だった。
それは、まるで巨大な心臓のように、青白い光を放ちながら、ゆっくりと脈動していた。
(…あれが…! 魔導コア…!)
リディアが息をのんだ。
(ビンゴだ。この城、いや、この領地全ての魔力の源だ。こいつが、領民どもの感情を吸い上げ、抑制し、この街の秩序を維持してやがる)
アビスの目がギラリと光った。
彼はこの瞬間を待っていた。
彼は、リディアに思考が漏れないよう、細心の注意を払いながら、最後の確認をする。
(…いいか、小娘。あのコアを破壊すれば、領民たちの感情は「解放」される。…だがな。あれは強力な魔術装置だ。破壊の衝撃で何が起こるか分からねえ)
(え…?)
(ひょっとしたら、この城が崩れるかもしれねえ。だが、やらなきゃ、この街は救えねえ。そうだろ?)
アビスは、あえて、リディアに「リスク」を提示した。
リディアがここで「怖いからやめます」などと言い出さないように。
(…はい! 覚悟はできてます! やりましょう! 皆さんを助けるためです!)
リディアの、若草色の瞳に、まっすぐな正義の光が宿る。
(フハハハ! かかったな、脳筋勇者め!)
アビスは、内心、高らかに勝利の雄叫びを上げた。
彼がリディアに説明した計画。
それは、「魔導コアを破壊し、領民の感情を『解放』する、正義の『革命』」。
もちろん、真っ赤な嘘だ。
(この脳筋勇者が。本気で信じやがって。笑えるぜ)
アビスの真の目的。
それは、イグニス戦の毒殺計画よりも、遥かに悪質で残虐で、そして卑劣だった。
(あの魔導コアは、領民の感情を吸い上げて、この氷の街の秩序を維持する、制御装置だ。だがな。もし、あれを俺様の魔力で無理やり逆流させたらどうなる?)
アビスの口元が歪む。
(フハハハ! 決まってらあな!)
長年、抑圧されてきた、領民たちの膨大な感情。
それが、制御を失い、一気に暴走する。
それは、「解放」などという生易しいものではない。
「決壊」だ。
(…あの、人形みてえな領民どもは、溜め込んだ感に耐えきれず発狂する! 喜び、泣き、喚き、怒り、狂い、お互いを殺し合う、地獄絵図の完成だ!)
そのカオスな感情は、この氷の街の秩序を根底から破壊する。
そして、その地獄絵図こそが、あの潔癖症のインテリ野郎が、最も嫌い、最も恐れるもの。
(…フハハハ! 最高のショーだ! あのクソ真面目なツラが絶望に歪む瞬間が目に浮かぶぜ!)
アビスの狙いは、領民を「解放」することではなく、意図的に「暴走・発狂」させ、暴動を起こさせたり、衛兵たちに「バグ」として一方的に虐殺させること。
彼は、この「暴動」と「虐殺」という地獄絵図(=アビスにとっての最高のカオス)を発生させ、城の防衛システムが麻痺した隙に、リディアをリュミエールの元へ誘導し、リディアをピンチにさせて魔人に戻り、リュミエールにトドメを刺すつもりなのだ。
(…よし、小娘! 俺様をあのコアの近くまで運べ!)
(は、はい!)
リディアがアビス(犬)を抱きかかえ、脈動する魔導コアへと近づいた、その時だった。
「―――そこまでです」
冷たく静かな声が、ホールに響き渡った。




