第十一話 氷の領地
イグニスが、灰すら残さず消滅した、あの地底湖の洞窟。
その忌まわしき戦場を後にしてから、すでに数日が経過していた。
リディアとアビス(犬)は、大陸の南に位置するイグニスの領地から、次なる四天王の領地がある大陸の北、「永久凍土の国ニヴルヘイム」を目指し、船に乗っていた。
(…くそっ…。…さっきから、ガタガタ震えやがって…。うるせえんだよ、この脳筋勇者が!)
リディアの背負うリュックサックの中で、アビスは、全身の毛を逆立てながら、不機嫌極まりない思考を飛ばしていた。
無理もない。
灼熱の火山地帯から一転、彼らが今いるのは、極寒の氷海の上だ。
甲板には、氷の粒を含んだ風雪が容赦なく吹き付け、船室にいるリディアの体温をも奪っていく。
(…ひっ…。…だ、だって、寒いものは、寒いんですから…! アビスさんこそ、さっきから、私のリュックの中で、丸まって、震えているじゃありませんか!)
(当たり前だろ! このクソ犬の体は寒さに弱えんだよ! もっと、リュックの口を閉めやがれ!)
(も、もう閉まってます! これ以上閉めたら、アビスさんが窒息しちゃいます!)
(フン。それより、小娘。本当に分かってんだろうな?)
アビスの思考が、急に、ドスの利いた低いものに変わった。
(…は、はい…。…例の『ジレンマ』のことですね…?)
リディアは、ゴクリと唾を飲んだ。
アビスがこの呪いの最悪の全容を突き止めてから。二人の奇妙な主従関係は、新たな緊張関係に突入していた。
アビスのジレンマ。
一、敵を倒すには魔人に戻る必要がある。
二、魔人に戻るには、リディアが「生命の危機」になる必要がある。
三、だが、リディアが本当に死んでしまうと、アビスは永遠に犬のまま。
四、おまけに、魔人に戻った後、リディアの機嫌を損ねることをすると、「ハウス!」で犬に変えられる。
(いいか、小娘。俺様は、テメエがどうなろうと知ったこっちゃねえ。だがな。俺様が永遠に犬の姿になることだけは絶対に許さねえ)
アビスの思考には、本気の殺意がこもっていた。
(…もしテメエが、俺様の指示を無視して勝手な脳筋行動をかましてうっかり死んでみやがれ。その時は、俺様は、テメエの魂を地獄の果てまで追いかけて、永遠に責め苦を与え続けてやるからな!)
(ひいいいいいっ!? わ、分かってます! 分かってますから!)
リディアは必死に頷いた。
彼女は、あのイグニスを蒸発させた魔人の脅しが、決して冗談ではないことを理解していた。
だが、同時に、彼女も決して譲れない一線があった。
(…で、ですが! …だからと言って! アビスさんがイグニスさんにしたような、あの、卑怯で残虐なやり方を見過ごすわけにはいきません! 約束してください! 次の四天王とは正々堂々戦ってください!)
(チッ。まだ言うか、この脳筋が)
アビスは忌々しげに舌打ちをした。
(フン。分かった、分かった。正々堂々、だろ? ああ、やってやるよ。テメエのその、クソみてえな正義感に免じてな)
(ほ、本当ですか!?)
リディアの顔が、ぱあっと明るくなった。
(ああ、本当だとも。だからテメエは、俺様の言う通りに動け。俺様が「死にかけろ」と言ったら死にかけろ。いいな?)
(そ、それは、ちょっと、ハードルが高いですけど…。…でも、卑怯なことをしないと約束してくれるなら…! はい! 頑張ります!)
リディアは、単純だった。
彼女は、アビスが、自分の正義感に折れてくれたと、本気で勘違いしていた。
だが、アビスの内心は真逆だった。
(…フハハハハ! チョロい、チョロすぎるぜ、この脳筋勇者め!)
アビスは、リュックの暗闇の中で、邪悪な笑みを浮かべていた。
(…そうか。…そうだよな。…なにも、俺様が直接手を下す必要はねえんだ。…あの、イグニスの時みてえに、リディアにバレなきゃいいんだよ)
彼は、イグニスとの戦いで学んだのだ。
この小娘は、恐ろしく単純でチョロい。
それっぽい大義名分(正義の革命、だの、領民の解放、だの)を与えてやれば、それがどれほど卑劣な計画の一部であろうとも、勝手に納得し、自ら危険に飛び込んでいく。
(フン。次の相手はリュミエールか。あいつはイグニスとは違う。頭が切れるインテリ野郎だ。だが、それ故にプライドが高い)
アビスは、次の獲物の顔を思い浮かべた。
(…あいつを始末する、最も卑怯で残虐で、そして、この小娘にバレない方法…。フフフ。決まったぜ)
アビスの、新たなる卑劣な計画は、彼の頭の中ですでに完成していた。
そして、その計画の生贄は、今、(アビスさんが、改心してくれた…!)と盛大に勘違いし、船室の中で凍えながら、希望に胸を膨らませていた。
◇
数日後。
二人はついに、第二の四天王の領地「永久凍土の国ニヴルヘイム」の城下町に辿り着いていた。
リディアは、その、あまりに異様な光景に、息を飲んだ。
(…な…? なんて静かな街なの…?)
活気に満ち溢れていたイグニスの城下町とは真逆。
この街は、まるで時間が止まっているかのように、静まり返っていた。
家々は全て、寸分の狂いもなく、同じ形、同じ高さで、整然と並んでいる。
道行く人々は、誰一人、私語を交わさず、まるで糸で操られた人形のように、無表情で正確な歩幅で歩いている。
物売りがいない。
子供の笑い声がしない。
酒場の喧騒もない。
ただ、凍てついた風の音だけが、完璧に整備された石畳の上を吹き抜けていく。
(…フン。相変わらず気味の悪い領地だ。あの、潔癖症のインテリ野郎らしいぜ)
アビスは、リュックの隙間から、吐き気がするというように、その完璧に管理された街並みを見渡した。
彼が知る、氷の貴公子リュミエールは、四天王の中でも随一の論理主義者であり、潔癖症だった。
彼が愛するのは「美」ではない。
「完璧な静止」と、「絶対零度」。
彼にとって、あらゆる感情、動き、生命活動こそが、「無秩序で醜い不純物」であり、排除すべき対象だった。
その時。コツ、コツ、コツと、規則正しい足音が、二人の後ろから近づいてきた。
「…止まりなさい」
冷たく無機質な声。
リディアが振り返ると、そこには、氷のように白い鎧を身につけた衛兵が二人、立っていた。
その顔は兜で隠され、表情は窺えない。
「…あなたたちは、旅行者ですね。この街のルールを説明します。一つ、感情を表に出してはいけません。笑うこと、泣くこと、怒ること、全て禁止です」
「え…!?」
リディアが驚きの声を上げる。
「今、あなたは、ルールに違反しました。『驚き』という感情の発露です。今回は見逃しますが、次はありません」
衛兵は淡々と告げた。
「二つ、許可なく走ってはいけません。三つ、許可なく声を発してはいけません。以上です。理解しましたね?」
(…な…! なんて滅茶苦茶なルールなんですか!?)
リディアが脳内で絶叫する。
(…フン。…始まったな。…リュミエールの趣味の悪いおままごとが)
アビスは、楽しそうに、その様子を眺めていた。
「…返事を、しなさい」
衛兵が、リディアに詰め寄る。
「あ、は、はい! わ、分かりました!」
リディアが慌てて頷いた、その時。
「―――あはははは!」
甲高い子供の笑い声が、静寂な通りに響き渡った。
リディアと、衛兵が、同時にその声の方を向く。
通りの向こうから、小さな男の子が雪玉を転がしながら走ってくる。
その顔は、この街の誰とも違う、生命力に満ち溢れた笑顔だった。
「あ…!」
リディアが、その無邪気な笑顔に、ほっと息をついたその瞬間。
「警告。レベル3の感情汚染を検知」
衛兵の一人が、無機質にそう告げると、その手を男の子に向けた。
「即時、冷却します」
それが何を意味するか。リディアは、イグニスの領地を出た後、アビスが(不機嫌そうに)語っていた、次の四天王の情報を思い出していた。
『次のリュミエールというインテリ野郎はな、感情を「不純物」としか思ってねえ。ルールを破ったヤツは、容赦なく「冷却」される…』
(…冷却…! まさか、凍死させるということですか!?)
リディアの脳裏を最悪の予測がよぎった。
「―――やめてくださいっ!」
リディアは、思考より速く動いていた。
彼女は、衛兵と男の子の間に割り込み、その聖剣(呪いの鍵)で冷気を弾き返した。
キィィン! と、甲高い音が響き渡る。
「…なっ…!?」
衛兵たちが、初めて狼狽の声を上げた。
(…ほう? やるじゃねえか、脳筋勇者)
アビスが、感心したように、思考を飛ばす。
「あなたたち! たかが笑ったくらいで、子供を凍死させるつもりですか!?」
リディアの声は、正義感と怒りに震えていた。
「警告。不適合者が他の不適合者を擁護。これは、レベル5の重大な規約違反です。抵抗する場合、実力で排除します」
衛兵たちが氷の槍を構える。
(…アビスさん! こうなったら、やるしかありません! あの人たちを止めます!)
(フン。まあ、いいぜ。だがな、小娘。ただこいつらを倒したところで、何も解決しねえぞ?)
アビスの思考が、リディアの脳内に響く。
(こいつらは、ただの駒だ。衛兵を操ってる大元のヤツを叩かなきゃ、この気味の悪りい街は元に戻らねえ)
(大元の、ヤツ…?)
(ああ。恐らく、この街のどこかに、領民全員の感情を無理やり抑制してる、魔道具があるはずだ。…『魔導コア』とでも言うか)
アビスが、さも、今思いついたかのような口調で告げる。
(そいつをブッ壊せば、領民どもは感情を取り戻す。そうすりゃ、こんな狂ったルールも終わりだ)
(…魔導コア…! …分かりました! やってみせます!)
リディアは、アビスのその言葉を、疑うことさえしなかった。
彼女は、聖剣(呪いの鍵)を握りしめ、衛兵たちに向き直った。
(アビスさん! その「魔導コア」の場所まで、案内お願いします!)
(…フン。…仕方ねえな)
アビスは、リュックの中で、邪悪な笑みを浮かべた。
(かかったな、脳筋勇者め。テメエがこれからやろうとしてることは、ただの器物損壊じゃねえ。あの、潔癖症のインテリ野郎が最も嫌う、「秩序の破壊」。…つまり、「革命」という名の大混乱だぜ)
アビスの卑劣な計画の第二弾。
それは、リディアの正義感を利用し、彼女を「革命の英雄」に仕立て上げ、リュミエールの「完璧な静止」を内側から崩壊させること。
そして、その混乱中で、リュミエールを始末する。
リディアに、一切、気づかれることなく。
(さあ、行くぞ、小娘! 派手なお祭りの始まりだぜ!)
(は、はいっ!)
リディアは、アビスの、その悪意に満ちた思考に気づくはずもなく、ただ、「領民を救うため」という正義感に燃え、氷の衛兵たちに斬りかかっていくのだった。




