第十話 最悪のジレンマ
「キャイイイイイイイイイイン!(…くそがああああああああああっ!)」
最恐の魔人の、誰にも届かない絶叫が、地底湖の広大な洞窟に虚しく響き渡った、
アビスは、犬の姿のまま、呆然と立ち尽くしていた。
目の前には、数分前まで大陸有数の強者だった、元・四天王のなれの果て(鎧の残骸)。
そして、自らの背後には、自分をこの無力な姿に戻した張本人であり、今や洞窟の硬い岩盤の上で呑気に(?)気絶している、勇者の末裔。
アビスの脳裏に、数秒前の、あの全能感が蘇る。
魔人として復活し、裏切り者を一方的に蹂躙し、その命乞いを(卑怯なやり方で)弄び、完璧な悪意で消滅させた、あの最高の瞬間。
それが、どうだ。
たった一言。
「ハウス!」
その犬のしつけの呪文で、自分はまた、このフワフワで小さな黒い毛玉に戻されてしまった。
(…ありえねえ…。俺様が…、この俺様が、あんな脳筋勇者のせいで、犬になったり、戻ったり、しなくちゃならねえってのか…!?)
屈辱。
それ以外の言葉が見つからなかった。
イグニスを倒したという勝利の昂揚感など、すでに消え失せている。
アビスは、怒りに震えながら、気絶しているリディアの元へと短い足で歩み寄った。
(おい! 小娘! 起きろ!)
アビスが脳内で怒鳴りつける。
だが、リディアは、戦闘の疲労と最後の「ハウス!」で全精力を使い果たしたのか、ぴくりとも動かない。
(…チッ。このクソ忙しい時に、呑気に寝やがって…!)
アビスは、リディアの頬を、その小さな前足(肉球)でペシペシと叩いた。
(起きろと言っているだろうが!)
「…ん……」
リディアが、小さくうめき声を上げた。
そして、ゆっくりと、その若草色の瞳を開いた。
「…あ…。…アビス、さん…?」
彼女は、ぼんやりとした視界の中で、自分を覗き込んでいる黒い子犬の姿を認識した。
(そうだ、俺様だ! テメエのせいで、またこの無様な姿に戻されたアビス様だ!)
アビスが、脳内で牙を剥く。
その瞬間。
リディアの記憶がフラッシュバックした。
灼熱の炎。
イグニスの恐ろしい形相。
そして、アビスが復活し、イグニスを一方的に蹂躙し、命乞いを騙し討ちにし、消し去った、あの残虐な光景。
「―――ひっ!」
リディアは、小さな悲鳴を上げると、アビス(犬)から距離を取ろうと後ずさった。
(…あ?)
アビスは、その、あからさまな怯えの反応に、眉を(犬の)ひそめた。
「…あ、あの…。イグニスさんは…?」
リディアが震える声で尋ねる。
(フン。あいつなら、もういねえよ。テメエの大嫌いな『卑怯』なやり方で、俺様が直々に掃除してやったぜ)
アビスは、あご(犬の)でイグニスの残骸を示した。
リディアは、その鎧の残骸を見て、顔を青ざめさせた。
そして、アビス(犬)を睨みつけた。
「…な、なんて、ひどいことを…!」
(はあ!? ひどいこと、だぁ!?)
アビスは、耳を疑った。
(テメエ、自分が何を言ってるか、分かってんのか!? あのままだったらテメエがあの脳筋の拳で、消し炭になってたんだぞ! それを、この俺様が、わざわざ魔人化までして助けてやったんだろうが!)
「そ、それは、そうですけど…!」
リディアは、怯えながらも、反論した。
「…で、でも! あのやり方はありません! イグニスさんは、もう戦う力を失って、命乞いまでしていたのに…! それを、騙し討ちにするなんて…! まさに悪魔の所業です!」
(当たり前だろ! 俺様は、魔人だ!)
アビスは、怒鳴りつけた。
(テメエこそ、なんなんだ! あのタイミングで「ハウス!」だと!? おかげで、俺様はまたこのザマだ! 俺様の、完璧な勝利の余韻を、ぶち壊しやがって!)
「う…! そ、それは…!」
リディアは、言葉に詰まった。
確かに彼女は、自分が助けてもらった直後に、その、恩人(?)を犬に戻してしまった。
「…だ、だって…。あんな卑怯な勝ち方、勇者の末裔として、見過ごすわけにはいきませんから…!」
(…だから、なんだってんだよ!)
アビスは、苛立ちのあまり、その場でグルグルと回り始めた。
(…分かった。…もう、いい。…テメエのその、脳ミソまで筋肉でできてる正義感は分かった。…だがな、小娘。…この状況を、どう理解してやがる?)
アビスはリディアに詰め寄った。
(…俺様が、魔人化するには、テメエが『生命の危機』になる必要がある。…そして、俺様が魔人化した後、テメエの気に食わねえやり方をすると、テメエは俺様を犬に戻す。…そうだろ?)
「…は、はい…。たぶん、そういうこと、みたいです…」
(…ふざけるなああああああああっ!)
アビスの絶叫が、リディアの脳内に響き渡る。
(…つまり、こうか!? 俺様は、テメエという脳筋勇者をわざとピンチにさせて魔人化し、テメエのご機嫌を損ねないように、残虐行為を控えて正々堂々と戦わなくちゃならねえってことか!)
「…あ…。…た、たぶん、そういうことに…」
(…できるかあああああああっ! そんな、クソ面倒くせえ、縛りプレイが!)
アビスは、怒りのあまり、近くにあったイグニスの鎧の残骸をガリガリと噛み始めた。
(…俺様は魔人だぞ!? 卑怯で、残虐で、傲慢だから、魔人なんだ! それを、なんだ! 勇者の機嫌を伺いながら戦えだと!? 冗談じゃねえぞ!)
「…で、でも…。それしか、方法が…」
(…いや、待てよ…)
アビスの動きが、ピタリと止まった。
彼の脳裏に、一つの最悪の(最善の?)可能性が浮かび上がったのだ。
(…そうだ。…なぜ、俺様は、この小娘の機嫌なんざ取らなくちゃならねえんだ?)
アビスは、ゆっくりと、リディアを振り返った。
その、黒いクリクリとした瞳(犬の)の奥に、いつもの傲慢な光が戻っていた。
(…そうだよな。…呪いの解除条件が「生命の危機」なら…。…別に、こいつがそのまま死んでも、呪い自体は解けるんじゃねえのか…?)
「…え?」
リディアの顔が凍りついた。
(…フン。…フハハハハ! そうだ! そうに決まってる! あのイグニスのバカを倒すためにこいつを利用したが…。もう用済みだ。…ここで、こいつを殺せば、俺様は永遠に魔人の姿に戻れるんじゃねえか?)
アビスの思考が歓喜に震えた。
そうだ。
この小娘が死ねば、この忌々しい呪いも終わる。
「…ア、アビスさん…? …ま、さか…?」
リディアが、じりじりと、後ずさる。
(…ああ、そうだ。…悪いな、小娘。…お前は、ここで死んでもらうぜ。…俺様の完全復活のためにな!)
アビスは、そう思考すると、その小さな犬の体で、リディアに飛びかかろうとした。
彼には魔力はほとんど残っていない。
だが、この無防備な小娘一人の喉笛を食い破る牙くらいは残っている、と。
アビスが、リディアに向かって、その短い足を踏み出した、その瞬間。
―――ズキン!
アビスの頭に、まるで杭を打ち込まれたかのような激痛が走った。
「…キャンッ!?(…がっ!? な、なんだ、今の、痛みは…!?)」
アビスは、その場にうずくまった。
同時に、彼の脳裏に、先ほどの呪いの解析では見えなかった、最深部の情報が流れ込んできた。
それは、あの忌々しい勇者が仕掛けた、本当の呪いの全容。
呪いの、最悪の、安全装置だった。
(…馬鹿な…。…なんだと…?)
アビスは、戦慄した。
その呪いの内容はこうだ。
『…聖剣の所有者が死亡した場合、魔人アビスの魂は、呪われた形態で永久に固定される…』
アビスは、ゆっくりと、自分の短い前足を見た。
フワフワの黒い毛玉。
ポメラニアン似の、子犬。
(…永久に…、固定…?)
アビスの思考が、今度こそ、本当にフリーズした。
もし、この小娘が死ねば。
自分は、永遠に、この無力な犬の姿のまま。
魔人に戻る術は、永遠に失われる。
(…じょ、冗談じゃ…、ねえ…)
アビスは、ガタガタと震え始めた。
それは、怒りではなかった。
純粋な、恐怖。
死ぬよりも恐ろしい、結末。
最恐の魔人が、永遠に、愛玩犬としてこの世に存在し続けるという、屈辱。
「…あ、あの…。アビスさん…? 大丈夫、ですか…?」
リディアが、恐る恐る、近づいてくる。
アビスは、そのリディアの姿が、もはや憎むべき小娘には見えなかった。
彼女は、自分の魔人形態を取り戻すための唯一の「鍵」であると同時に、自分が永遠に犬になるかどうかを握る、最悪の「時限爆弾」でもあったのだ。
(…つまり…)
アビスは、ついに、この勇者の呪いの本当のルールを理解した。
(…俺様は、この小娘を利用して、敵と戦わなきゃならねえ。…そのためには、こいつを「生命の危機」にする必要がある。…だが、万が一、こいつが本当に死んじまったら、俺様は永遠に犬だ。…おまけに、俺様が魔人に戻った後、残虐なことや卑怯なことをして、こいつの機嫌を損ねると、また犬にされる)
「キャイイイイイイイイイイン!(…ふざけやがってええええええええええっ!)」
アビスの絶叫が、再び洞窟に響き渡った。
リディアは、その、あまりの魂の叫びに、びくりと肩を震わせた。
「ひゃあ!? な、なんですか、急に!」
(うるせえ! テメエのせいだぞ、このクソアマ!)
アビスはリディアに八つ当たりした。
だが、彼の内心は、絶望のどん底だった。
最強の魔人が、なぜこんな脳筋の小娘一人のご機嫌を伺いながら、命まで守ってやらなきゃいけないのか。
これ以上の理不尽があるだろうか。
「…と、とりあえず、アビスさん…。ここから出ましょう…。街の人たちに見つかったら大変です…!」
リディアは、妙に現実的なことを言い出した。
(…チッ。…そうだな。…こんな気味の悪い場所に、長居は無用だ)
アビスは、憎々しげに、イグニスの残骸を一瞥した。
彼は、この最悪のジレンマを抱えたまま、次なる四天王の元へと向かわなければならないのだ。
洞窟から宿に戻ったリディアは、アビス(犬)を再びリュックに仕舞うと(アビスはもはや抵抗する気力もなかった)、聖剣(呪いの鍵)を手に、イグニスの領地を後にした。




