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最恐魔人、勇者(♀)のペットになる  作者: 神凪 浩
第二章 炎の軍団長イグニス
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第十話 最悪のジレンマ

「キャイイイイイイイイイイン!(…くそがああああああああああっ!)」

 最恐の魔人の、誰にも届かない絶叫が、地底湖の広大な洞窟に虚しく響き渡った、

 アビスは、犬の姿のまま、呆然と立ち尽くしていた。


 目の前には、数分前まで大陸有数の強者だった、元・四天王のなれの果て(鎧の残骸)。

 そして、自らの背後には、自分をこの無力な姿に戻した張本人であり、今や洞窟の硬い岩盤の上で呑気に(?)気絶している、勇者の末裔(リディア)

 アビスの脳裏に、数秒前の、あの全能感が蘇る。

 魔人として復活し、裏切り者を一方的に蹂躙し、その命乞いを(卑怯なやり方で)弄び、完璧な悪意で消滅させた、あの最高の瞬間。

 それが、どうだ。

 たった一言。

「ハウス!」

 その犬のしつけの呪文で、自分はまた、このフワフワで小さな黒い毛玉に戻されてしまった。


(…ありえねえ…。俺様が…、この俺様が、あんな脳筋勇者(バカ)のせいで、犬になったり、戻ったり、しなくちゃならねえってのか…!?)


 屈辱。

 それ以外の言葉が見つからなかった。

 イグニスを倒したという勝利の昂揚感など、すでに消え失せている。

 アビスは、怒りに震えながら、気絶しているリディアの元へと短い足で歩み寄った。

(おい! 小娘! 起きろ!)

 アビスが脳内で怒鳴りつける。

 だが、リディアは、戦闘の疲労と最後の「ハウス!」で全精力を使い果たしたのか、ぴくりとも動かない。

(…チッ。このクソ忙しい時に、呑気に寝やがって…!)

 アビスは、リディアの頬を、その小さな前足(肉球)でペシペシと叩いた。

(起きろと言っているだろうが!)

「…ん……」

 リディアが、小さくうめき声を上げた。

 そして、ゆっくりと、その若草色の瞳を開いた。

「…あ…。…アビス、さん…?」

 彼女は、ぼんやりとした視界の中で、自分を覗き込んでいる黒い子犬の姿を認識した。

(そうだ、俺様だ! テメエのせいで、またこの無様な姿に戻されたアビス様だ!)

 アビスが、脳内で牙を剥く。

 その瞬間。

 リディアの記憶がフラッシュバックした。

 灼熱の炎。

 イグニスの恐ろしい形相。

 そして、アビスが復活し、イグニスを一方的に蹂躙し、命乞いを騙し討ちにし、消し去った、あの残虐な光景。

「―――ひっ!」

 リディアは、小さな悲鳴を上げると、アビス(犬)から距離を取ろうと後ずさった。

(…あ?)

 アビスは、その、あからさまな怯えの反応に、眉を(犬の)ひそめた。

「…あ、あの…。イグニスさんは…?」

 リディアが震える声で尋ねる。

(フン。あいつなら、もういねえよ。テメエの大嫌いな『卑怯』なやり方で、俺様が直々に掃除してやったぜ)

 アビスは、あご(犬の)でイグニスの残骸を示した。

 リディアは、その鎧の残骸を見て、顔を青ざめさせた。

 そして、アビス(犬)を睨みつけた。

「…な、なんて、ひどいことを…!」

(はあ!? ひどいこと、だぁ!?)

 アビスは、耳を疑った。

(テメエ、自分が何を言ってるか、分かってんのか!? あのままだったらテメエがあの脳筋の拳で、消し炭になってたんだぞ! それを、この俺様が、わざわざ魔人化までして助けてやったんだろうが!)

「そ、それは、そうですけど…!」

 リディアは、怯えながらも、反論した。

「…で、でも! あのやり方はありません! イグニスさんは、もう戦う力を失って、命乞いまでしていたのに…! それを、騙し討ちにするなんて…! まさに悪魔の所業です!」

(当たり前だろ! 俺様は、魔人だ!)

 アビスは、怒鳴りつけた。

(テメエこそ、なんなんだ! あのタイミングで「ハウス!」だと!? おかげで、俺様はまたこのザマだ! 俺様の、完璧な勝利の余韻を、ぶち壊しやがって!)

「う…! そ、それは…!」

 リディアは、言葉に詰まった。

 確かに彼女は、自分が助けてもらった直後に、その、恩人(?)を犬に戻してしまった。

「…だ、だって…。あんな卑怯な勝ち方、勇者の末裔として、見過ごすわけにはいきませんから…!」

(…だから、なんだってんだよ!)

 アビスは、苛立ちのあまり、その場でグルグルと回り始めた。

(…分かった。…もう、いい。…テメエのその、脳ミソまで筋肉でできてる正義感は分かった。…だがな、小娘。…この状況を、どう理解してやがる?)

 アビスはリディアに詰め寄った。

(…俺様が、魔人化するには、テメエが『生命の危機』になる必要がある。…そして、俺様が魔人化した後、テメエの気に食わねえやり方をすると、テメエは俺様を犬に戻す。…そうだろ?)

「…は、はい…。たぶん、そういうこと、みたいです…」

(…ふざけるなああああああああっ!)

 アビスの絶叫が、リディアの脳内に響き渡る。

(…つまり、こうか!? 俺様は、テメエという脳筋勇者(バカ)をわざとピンチにさせて魔人化し、テメエのご機嫌を損ねないように、残虐行為を控えて正々堂々と戦わなくちゃならねえってことか!)

「…あ…。…た、たぶん、そういうことに…」

(…できるかあああああああっ! そんな、クソ面倒くせえ、縛りプレイが!)

 アビスは、怒りのあまり、近くにあったイグニスの鎧の残骸をガリガリと噛み始めた。

(…俺様は魔人だぞ!? 卑怯で、残虐で、傲慢だから、魔人なんだ! それを、なんだ! 勇者(テメエ)の機嫌を伺いながら戦えだと!? 冗談じゃねえぞ!)

「…で、でも…。それしか、方法が…」

(…いや、待てよ…)

 アビスの動きが、ピタリと止まった。

 彼の脳裏に、一つの最悪の(最善の?)可能性が浮かび上がったのだ。

(…そうだ。…なぜ、俺様は、この小娘の機嫌なんざ取らなくちゃならねえんだ?)

 アビスは、ゆっくりと、リディアを振り返った。

 その、黒いクリクリとした瞳(犬の)の奥に、いつもの傲慢な光が戻っていた。

(…そうだよな。…呪いの解除条件が「生命の危機」なら…。…別に、こいつがそのまま死んでも、呪い自体は解けるんじゃねえのか…?)

「…え?」

 リディアの顔が凍りついた。

(…フン。…フハハハハ! そうだ! そうに決まってる! あのイグニスのバカを倒すためにこいつを利用したが…。もう用済みだ。…ここで、こいつを殺せば、俺様は永遠に魔人の姿に戻れるんじゃねえか?)

 アビスの思考が歓喜に震えた。

 そうだ。

 この小娘が死ねば、この忌々しい呪いも終わる。

「…ア、アビスさん…? …ま、さか…?」

 リディアが、じりじりと、後ずさる。

(…ああ、そうだ。…悪いな、小娘。…お前は、ここで死んでもらうぜ。…俺様の完全復活のためにな!)

 アビスは、そう思考すると、その小さな犬の体で、リディアに飛びかかろうとした。

 彼には魔力はほとんど残っていない。

 だが、この無防備な小娘一人の喉笛を食い破る牙くらいは残っている、と。

 アビスが、リディアに向かって、その短い足を踏み出した、その瞬間。


 ―――ズキン!


 アビスの頭に、まるで杭を打ち込まれたかのような激痛が走った。

「…キャンッ!?(…がっ!? な、なんだ、今の、痛みは…!?)」

 アビスは、その場にうずくまった。

 同時に、彼の脳裏に、先ほどの呪いの解析では見えなかった、最深部の情報が流れ込んできた。

 それは、あの忌々しい勇者が仕掛けた、本当の呪いの全容。

 呪いの、最悪の、安全装置(フェイルセーフ)だった。

(…馬鹿な…。…なんだと…?)

 アビスは、戦慄した。

 その呪いの内容はこうだ。

『…聖剣の所有者が死亡した場合、魔人アビスの魂は、呪われた形態で永久に固定される…』

 アビスは、ゆっくりと、自分の短い前足を見た。

 フワフワの黒い毛玉。

 ポメラニアン似の、子犬。

(…永久に…、固定…?)

 アビスの思考が、今度こそ、本当にフリーズした。

 もし、この小娘(リディア)が死ねば。

 自分は、永遠に、この無力な犬の姿のまま。

 魔人に戻る術は、永遠に失われる。

(…じょ、冗談じゃ…、ねえ…)

 アビスは、ガタガタと震え始めた。

 それは、怒りではなかった。

 純粋な、恐怖。

 死ぬよりも恐ろしい、結末。

 最恐の魔人が、永遠に、愛玩犬としてこの世に存在し続けるという、屈辱。

「…あ、あの…。アビスさん…? 大丈夫、ですか…?」

 リディアが、恐る恐る、近づいてくる。

 アビスは、そのリディアの姿が、もはや憎むべき小娘には見えなかった。

 彼女は、自分の魔人形態を取り戻すための唯一の「鍵」であると同時に、自分が永遠に犬になるかどうかを握る、最悪の「時限爆弾」でもあったのだ。

(…つまり…)

 アビスは、ついに、この勇者の呪い(クソゲー)の本当のルールを理解した。

(…俺様は、この小娘を利用して、敵と戦わなきゃならねえ。…そのためには、こいつを「生命の危機(ピンチ)」にする必要がある。…だが、万が一、こいつが本当に死んじまったら、俺様は永遠に(これ)だ。…おまけに、俺様が魔人に戻った後、残虐なことや卑怯なことをして、こいつの機嫌を損ねると、また犬にされる)


「キャイイイイイイイイイイン!(…ふざけやがってええええええええええっ!)」


 アビスの絶叫が、再び洞窟に響き渡った。

 リディアは、その、あまりの魂の叫びに、びくりと肩を震わせた。

「ひゃあ!? な、なんですか、急に!」

(うるせえ! テメエのせいだぞ、このクソアマ!)

 アビスはリディアに八つ当たりした。

 だが、彼の内心は、絶望のどん底だった。

 最強の魔人が、なぜこんな脳筋の小娘一人のご機嫌を伺いながら、命まで守ってやらなきゃいけないのか。

 これ以上の理不尽があるだろうか。

「…と、とりあえず、アビスさん…。ここから出ましょう…。街の人たちに見つかったら大変です…!」

 リディアは、妙に現実的なことを言い出した。

(…チッ。…そうだな。…こんな気味の悪い場所に、長居は無用だ)

 アビスは、憎々しげに、イグニスの残骸を一瞥した。

 彼は、この最悪のジレンマを抱えたまま、次なる四天王の元へと向かわなければならないのだ。

 洞窟から宿に戻ったリディアは、アビス(犬)を再びリュックに仕舞うと(アビスはもはや抵抗する気力もなかった)、聖剣(呪いの鍵)を手に、イグニスの領地を後にした。

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