第一話 悪夢の目覚め
辺境の地、"忘れられた谷"。
その奥深くに、王国の歴史からさえ半ば抹消されたかのようにひっそりと佇む、古代の遺跡がある。
勇者の家系クレセント一族によって、永きにわたり守護されてきたその場所。
だが、その守護の理由は、代々の当主にのみ口伝で伝えられる、一族最大の「禁忌」にあった。
「―――やっぱり、ここが一番わくわくします!」
その日、一族の掟を破り、禁忌の遺跡に一人足を踏み入れた者がいた。
リディア・クレセント。
クレセント家の長女にして、魔人を封印した初代勇者の血を引く、「勇者の卵」である。
彼女の燃えるような赤い髪が、遺跡の隙間から差し込むわずかな光を受けて、きらりと光った。
その若草色の瞳には、恐怖や罪悪感ではなく、未知の場所を探検する子供のような、純粋で、どこか見当違いな好奇心の光だけが宿っていた。
彼女が立っているのは、遺跡の最深部。
「封印の間」と呼ばれる石室だった。
部屋の中央には、一つの古びた台座があり、そこに、一振りの剣が深々と突き刺さっている。
それは、黒曜石のような禍々しい刀身を持つ、異形の剣だった。
剣の柄には、何重にも、古代の魔術言語が刻まれた呪符が巻き付けられ、その剣が決して抜かれてはならない「呪いの鍵」であることを、雄弁に物語っていた。
(これだわ…!)
リディアの瞳が、これまでにないほど輝いた。
彼女の家系に、代々伝わる言い伝え。
『封印の間にある剣を抜くこと、決してあたうべからず。それは、世界に再び災厄をもたらす、一族最大の禁忌なり』
父から、祖父から、それこそ耳にタコができるほど聞かされてきた言葉。
だが、リディアは、その「禁忌」の本当の重みを、全く理解していなかった。
なぜなら、その、一族の歴史で最も重要なお説教の時間、彼女は、いつも決まって、ぽかぽかとした日差しの中で気持ちよさそうに居眠りしていたからだ。
彼女の頭に残っているのは、「あそこには、なんかヤバいものがあるから、絶対に入っちゃダメ」という、子供向けの曖昧な警告だけ。
そして、彼女の「猪突猛進」で「超天然」な思考回路にとって、その警告は、抑止力ではなく、最高の「招待状」として機能していた。
(父様は「絶対に入るな」って言ってたけど、こんなにカッコいい遺跡なのに、入らないなんてもったいないわ!)
勇者の末裔でありながら、これといった手柄も立てられず、ただ「勇者の卵」と呼ばれるだけの日々。
退屈だった。
彼女は、自らの血に流れる冒険への渇望と、目の前の禁忌への好奇心に、抗うことができなかった。
そして今、彼女は、その探検の果てに、最大のお宝(と彼女が信じるもの)を、見つけてしまったのだ。
(わあ…! すごくカッコいい剣です!)
リディアは、台座に刻まれた、かすれた紋章を指でなぞった。
(もしかして、これが、一族に伝わる、初代勇者様が使ったっていう、伝説の聖剣かも!)
彼女は、自らが導き出した、あまりに前向きで、あまりに致命的な勘違いを、心の底から信じ込んでいた。
禍々しい呪符は、彼女の目には「聖剣の強すぎる力を抑えるための、古代の封印」としか映っていない。
(これを抜けたら、私も、本当の勇者として、認めてもらえるかもしれない!)
もはや、彼女の頭の中に、父の、あの厳格な「やめておけ」という言葉は、欠片も残っていなかった。
「…よーし!」
リディアは、覚悟を決めた(というより、好奇心に火が付いただけだった)。
彼女は、その、禍々しい剣の柄に、両手をかけた。
ずっしりとした、冷たい感触。
そして、その奥から、まるで「待っていた」とでも言うかのように、微かな、しかし、確かな魔力の脈動が伝わってくる。
「私の力、見せてあげます!」
彼女は、その剣を、伝説の聖剣だと信じ込み、渾身の力を込めて台座から引き抜き始めた。
ギ、ギギギギギギギ…!
耳障りな、石と金属が擦れる音。
柄に巻き付いていた呪符が、まるで悲鳴を上げるかのように、青白い炎を上げて燃える。
遺跡全体が、地響きを立てて、激しく揺れ始めた。
天井から、パラパラと、石屑が落ちてくる。
「くっ…! なんという、重さ…!」
だが、リディアは、諦めなかった。
彼女は、勇者の血統に受け継がれた、その細腕には不釣り合いなほどの怪力を、一点に集中させる。
そして、ついに。
―――ゴオオオオオオオオオオッ!!!
剣が台座から完全に引き抜かれた、その瞬間。
凄まじい轟音と共に、圧縮されていた暗黒の魔力が、まるで火山の噴火のように、天に向かって噴き出した。
「きゃあっ!」
リディアのか細い体は、その暴風のような魔力の奔流に木の葉のように吹き飛ばされ、石室の壁に強く叩きつけられた。
「…う…ぐ…」
薄れゆく意識の中、彼女は見た。
目の前で、空間そのものが、まるで黒い鏡のようにひび割れていくのを。
そして、その、ひび割れの向こう側。
数百年もの永きにわたり眠っていた、一つの絶対的な「悪意」が、ゆっくりとその意識を浮上させてくるのを。
(…ああ…。…うるせえな…)
それが、魔人アビスの、数百年ぶりの最初の「思考」だった。
(…なんだ、この不快な光は…。俺様の完璧な安眠を妨害する愚か者は、どこのどいつだ…?)
彼の、凝り固まっていた意識が、急速に覚醒していく。
自らを縛り付けていた、あの忌々しい初代勇者の光の封印。
それが、今、外側から破壊された。
(…解放されたっていうのか? …この俺様が?)
信じられない。
だが、確かな感覚。
力が、戻ってくる。
歴史上最大と言われる、あの圧倒的な魔力が。
強靱な肉体が。
(…そうだ。…そうだったな。…俺様は、アビス。…この退屈な世界を、破壊と混乱の渦に叩き込むために生まれた、絶対的な存在…!)
「フ…フフフ…」
闇の、その、さらに奥深く。
ひび割れた空間の裂け目から、一つの禍々しい笑い声が溢れ出した。
「―――フハハハハハハハハハハッ!!!」
空間が、完全に、砕け散った。
そして、その絶対的な虚無の中から、一人の男がゆっくりとその姿を現した。
闇よりもなお深い、漆黒のコート。
月光を凍らせたかのような、銀色の長い髪。
そして、その、美しい、しかし、どこまでも傲慢な顔に浮かべられた、絶対的な嘲笑。
伝説の魔人、アビスが、数百年の時を経て、今ここに、完全に復活したのだった。
「…ククク。…数百年ぶりのシャバか。…空気も、光も、何もかもが、相変わらず気に食わねえな…」
アビスは、ゆっくりと首を回し、自らの完璧な肉体の感触を確かめる。
そして、彼の、その血のように赤い瞳が、部屋の隅で気を失いかけている小さな影を捉えた。
「…ほう?」
彼は、興味深そうに、そのか細い獲物へと視線を移す。
「小娘。…お前か? お前が、この俺様の封印を解いたっていうのか?」
アビスは、まるで、面白い玩具でも見つけたかのように、その口元を歪めた。
「…ふぅん。そのか細い腕で、よくもまあ、あの勇者の忌々しい封印を破ったものだ。…礼を言わなきゃならんな」
彼は、ゆっくりと、リディアの元へと歩み寄る。
その一歩一歩が、リディアのか細い希望を踏み潰していく。
「…だ、だめ…。来ないでください…」
リディアは、震える手で、自らが引き抜いたあの禍々しい剣を構えようとした。
だが、体は、鉛のように重く、動かない。
アビスは、彼女の目の前でしゃがみ込んだ。
そして、その絶望に染まった顔を、まるで、初めて見る滑稽な生き物でも観察するかのように、面白そうに覗き込む。
「フフフ…。安心しろ、小娘。お前のその無謀な好奇心に敬意を表して、最高の栄誉をくれてやる」
彼は、その、美しい、しかし、どこまでも冷たい指先を、リディアの額へとゆっくり伸ばした。
「―――この俺様の手で、直々に血祭りに上げてやる。…復活の、最初の生贄としてな!」
アビスの高笑いが、崩壊を始めた古代の遺跡に響き渡った。
リディアの意識は、その絶対的な恐怖と絶望の中で、完全に途切れようとしていた。
(…ああ…。私、なんて馬鹿なことを…)
彼女の、勇者としての最初の冒険は、今、最悪の形でその幕を開けた。




