幻と現の交差路(夜編)
都会の夜は、過剰にきらめいていた。
ネオンが流れる水脈のように連なり、街全体を見えない川へと変えていく。
光は溢れ、溺れるほどに濃密で、わたしの足元までも鮮やかに染め上げていた。
タクシーのドアが幾度も息をするみたいに開閉し、排気ガスの匂いが低く街に溜まる。
看板の反射は水たまりでちかちか踊り、わたしの靴底を一瞬ごとに塗り替えた。
「こんな街に出てきてまで、吸える場所を探してるのか」
おぬしの声が、耳ではなく脳のどこかの古い回路をコツンと叩いた。
「仕方ないぴこ……吸える場所が減ってるんだぴこ」
「人混みは嫌いじゃなかったか」
「好きじゃないぴこ。でも、煙を吐きたい夜があるぴこ」
歩道橋をくぐり抜けると、わたしはふと立ち止まる。
見慣れたはずの街並みが、どうしても“以前の世界にはなかった光景”に見える。
誰に説明できるわけでもない違和感が、街の灯りに照らされてじわりと濃くなる。
呼吸をする。肺が膨らみ、縮む。その一連の動作が、まだぎこちない。
吐き出した息は白く、街灯の下で糸のようにほどける。
それなのに、妙に甘美でもあった。
「息するたびに、人間になった気がするぴこ」
「もう人間だろう」
「でも、人間ってこんなに呼吸を意識するぴこ?吸って、吐いて……それだけなのにぴこ」
おぬしは笑ったのか、ため息をついたのか、判別しづらい揺れで黙った。
わたしはポケットの中から箱を探り、一本をつまむ。
フィルターは夜気で冷たく、紙の乾いた匂いが指先に移る。
マッチを探す。箱の角のざらつきが指に引っかかる。
「むせるなよ」
「むせたら笑ってくれていいぴこ」
「笑うに決まってる」
わたしはまだ火を点けない。火をつけてしまえば、すぐに終わってしまう気がした。
終わってしまうものは、始める前がいちばん長い。
雑踏を縫って、狭い路地へ入る。
食欲を逆撫でするような匂い、消えかけの行灯、壁に貼られた古びた矢印の紙。
「喫煙スペース →」と雨に濡れた字がかすれている。
その先、半開きの扉の向こうに小さな空間があった。灰皿と換気扇と、剥がれかけたポスター。
そこに先客がひとり。
年齢も性別も曖昧で、輪郭はぼんやりしている。
わたしに気づくと、軽く顎を上げた。
「ここ、すわります? どうぞ」
「助かるぴこ」
ただそれだけのやり取りで、胸の奥が少し温かくなる。
「ただの社交辞令じゃないか」
「“人”として扱われたぴこ。今日はそれで十分ぴこ」
先客は静かに火を点ける。
煙が真っすぐに立ち、換気扇に吸い上げられていく。
その帯が壁のポスターを横切るたび、一瞬だけ文字が鮮明になる。
「雨、降るかな」
先客が窓の外に顎をしゃくった。雲は低く、街の灯りを反射して薄い橙に染まっている。
「降ったら、匂いが変わるぴこ」
「匂い?」
「アスファルトの上に、季節の骨格が浮き上がるぴこ。湿ったビニール傘と混ざって、ちょっと甘いぴこ」
「へえ。詩人だ」
わたしは笑い、マッチの箱を開ける。
マッチを手にしたとき、ふと“硫黄の朱色”という言葉が頭に浮かんだ。
――正確な表現ではない。けれど、その曖昧さごと焼き付けておきたいと思った。――
木の軸の並び。擦る前の静けさ。
一本を抜き取り、箱の側面に押し当て、少しだけ迷う。
「いけ」
「まだぴこ」
「お前はいつも、最後の一歩の手前に長く立っている」
「そこに、風景があるぴこ」
擦る。薄い光が世界の端を白くして、次に柔らかな橙に変わる。
炎が指先に小さな熱を残し、わたしはその点を見つめ続ける。
「ほら、手が震えてる」
「これが、人間ぴこ」
煙が立ち上がり、肺に薄い熱が入ってくる。
むせそうになる。けれど、目は閉じない。
薄い痛みは、世界をくっきりさせる。
「下手じゃない」
「下手でも、今日は褒めてほしいぴこ」
「褒めるさ。完璧より、今日のほうがいい」
先客は口角を上げて微笑み、やがて「じゃ」と短く言い置いて去っていった。
名前も、連絡先も、何も残さずに。
その人が吸い込まれていった扉の閉まる音だけが、ここまで届く。
「追いかけないのか」
「追いかける理由がないぴこ。置いていける夜もあるぴこ」
「潔いな」
「今日は、そういう気分ぴこ」
わたしは深く吸い、ゆっくり吐く。
煙は天井の角で渦を巻き、何かの形になりかけて、すぐほどけた。
「決めたのか」
「決めるぴこ。“人”として歩くぴこ」
「迷ってもか」
「迷うから、歩けるぴこ。答えがなくても、しばらくはそれでよいぴこ」
「なら、わしも共に歩こう。声だけになっても」
わたしは火を踏み消す。じゅっ、と音がして、薄い匂いが立ちのぼる。
扉を押し開ければ、外の空気は室内より軽い。
街の音は途切れず続き、誰もわたしを見ないし、見ている。
その曖昧さに身を任せて、歩幅を少し広げた。
「また探すのか」
「また探すぴこ。次の場所を、次の夜を」
信号が青に変わる。横断歩道の白が濡れ、車のライトが線を引く。
ビルのガラスに、わたしの背中が二重に映っては重なり、やがて消える。
性別も、正体も、誰も気にしない。
わたしはただ一人の人間として、夜の街に混ざっていく。
角を曲がるたび、風が違う匂いを運んでくる。
食欲をねじ曲げるような匂い、雨の気配、ペンキ、古い革……。
その一つ一つに「ぴこ」と印をつける。印だらけになった夜は、地図になる。
地図ができれば、また宝探しが始まる。
宝は煙のように消える。消えるから、また火をつける。
「行こう」
「行くぴこ」
わたしは歩く。足音は雑踏に紛れ、やがて自分でも聞き分けられなくなる。
それでも歩いているという事実だけは確かだった。
ビルの稜線の向こうで、雲が少し形を変えた。雨はまだ落ちてこない。
もし降ったなら、匂いが変わる。そのときはまた火をつければいい。
むせても笑えばいい。
笑い声が換気扇の音に紛れても、誰かが「どうぞ」と言ってくれたことだけ、忘れなければいい。
わたしは顔を上げる。目の前の信号が青に変わる。
渡る。ひとつ、またひとつ。夜は深くなり、わたしは軽くなる。
軽くなった分だけ、重いものを持てる気がした。
ポケットには、まだ一本ぶんの重さが残っている。
それだけで、今夜は十分だった。




