第一章 不幸な公爵の息子 (3)
演習場
『不幸だ。』
クラウゼルはそう思わずにはいられなかった。
周囲には生徒たちが殺気に満ちた目で自分を見つめているように感じられた。
『なぜセシリア嬢と一緒に現れる羽目になったんだ!』
クラウゼルはすべての視線がそう言っているかのように錯覚し、目の前の小柄な少女を見やった
。
彼女は桃色のボブカットを夏の微風に揺らしながら棒付きキャンディを舐めていた。
その瞳からは一切の緊張感を見つけることができなかった。
むしろ紫色の瞳には退屈そうな様子すら感じられた。
一方で、その細い腕と小さな手でどのように持ち上げているのか不思議に思える、全長1メートルに及ぶフランベルジュの光る刃は威圧的だった。
クラウゼルは唾を飲み込んだ。
セシリアは明らかに自分を罠にかけるつもりではなく、演習場に連れてきただけだった。しかし、それでもクラウゼルにとっては苦痛だった。
『くそっ、なんてことだ!』
クラウゼルは歯を食いしばりながらセシリアを観察した。
自分は男であり、相手は女。
自分は17歳で、相手は15歳。
明らかに自分のほうが優位に見える。
相手は見た目だけでは簡単に勝てそうな存在だった。
だが、ここはライオン砦。
大陸の半分を支配するジオン王国全土からエリートだけが集まる最高峰の名門アカデミーだ。
つまり、相手はその可憐な外見とは裏腹に普通の少女ではないということだ。
一方、クラウゼル自身は、父カーシオン公爵の意向で無理やり入学させられただけで、ライオン砦にふさわしい人物ではなかった。
入学当初から他の生徒とは異なり、彼は生まれつき虚弱だった。
それでも何とか訓練に耐え抜いてきたが、生まれ持った才能の差は埋められないと彼自身は感じていた。
そして、日々他の生徒から殴られ、侮辱され続ける生活を送るうちに、彼の心は完全に萎縮してしまっていた。
そんな彼が「最強の4人」と肩を並べる「4人の美少女」の一人であるセシリアと対戦して勝てるはずがなかった。
「おい、セシリア!相手が誰であろうと、演習中の飲食は禁止だぞ!」
クラウゼルが混乱しているとき、彼とセシリアの間に立っていた演習監督担当の教師ザイロンが、軽薄な口調で注意を飛ばした。
クラウゼルに対して軽んじた態度をとるザイロンは、かつて王宮近衛騎士として活躍していたが、負傷で引退し、現在はライオン砦で教師として優秀な騎士を育成しているという経歴を持っていた。
『あんた、本当に騎士だったのかよ?』
クラウゼルはマナーの欠片もないザイロンを見て、内心で毒づいた。
『この学校を卒業したら、貴様を馬小屋の掃除係にしてやる。』
一方、セシリアはザイロンに対し謝罪し、舐めていたキャンディをポイッと投げ捨てた。
「はい、セシリアはごめんなさいねえ。」
「セシリアが舐めていたキャンディだ!」と目を輝かせながらキャンディに飛びつく男子生徒たちが数人いたが、今のクラウゼルにとってそれはどうでもよかった。
『なんでこっちに謝らないんだよ!』
セシリアが謝罪すべき相手は、明らかに無視されていたクラウゼルだった。だが、彼女はクラウゼルに対して一切謝罪することなく、完全に無視していた。
『なんだか勝てそうな気もしてきたぞ。』
クラウゼルは眉をひそめながら考えた。どれほどセシリアの実力を聞かされ、実際に目撃したことがあっても、目の前にいるのは自分より顔一つ分小さく、か弱く見える少女だった。
しかも、自分を完全に見下しているようだった。
最初、セシリアが「先輩」という敬称を使いながら接近してきたとき、クラウゼルは内心嬉しく思っていた。しかし、今となっては違った。
『こんなチャンスは滅多にない。今までは無駄にガタイの良い奴らばかり相手にしてきたけど……。』
クラウゼルは鈍った刃を持つロングソードをしっかりと握り、腰を少し低く構えた。闘志が燃え上がった。
その光景を初めて目にしたザイロンは、内心驚きながらも口笛を吹き、手に持った赤旗を掲げた。
「クラウゼル対セシリア、試合開始!」
クラウゼルとセシリアの間を遮っていた赤い旗が下げられると同時に、焼け付くような太陽の下で全校生徒が目を細めて見守っていた目を開き、試合に注目した。
生徒たちの関心は、この2か月間でセシリアがどれだけ強くなったかだけだった。クラウゼルなど、誰の興味にも値しなかった。
だが、その瞬間、驚くべきことが起こった。
「ん?」
セシリアは、相手がミリエに警戒されるほど強い存在かもしれないという話を聞いていた。しかし、それはあくまで自分が対処可能な範囲内の話だと思っていた。
彼女は完全に油断していたのだ。
だが、赤い旗が下ろされた瞬間、猛然と突進してくるクラウゼルを目にし、セシリアは目を見開いた。
『速いっ!』
驚きと同時に、冷や汗が背中を流れるのを感じた。クラウゼルはわずか5メートルの間合いを一瞬で詰め、既に攻撃圏内に入ってきていた。
そして、ロングソードを振り下ろす姿にセシリアは戦慄した。
ガキーン!
剣と剣がぶつかり合い、鋭い音を立てた。
セシリアはフランベルジュの柄を両手で握りしめ、頭上に掲げるようにしてクラウゼルの剣を防いだが、その勢いに押されて何歩か後退せざるを得なかった。
セシリアは、ジオン王国を代表する名門ドレコ伯爵家の令嬢であり、幼少期から徹底的な剣術の訓練を受けてきた天才だった。
そのため、優れた反射神経と動体視力を持っていた。
だが、彼女はまだ若い少女であり、体力や筋力においては劣っていた。
その弱点を補うため、適度な重量と高い殺傷力を兼ね備えたフランベルジュを主力武器としていたが、今回のように防御に特化した場面ではその特性が活かしきれなかった。
普段なら、彼女は驚異的なスピードと巧妙な剣術を駆使して敵を圧倒していた。
しかし、今回は完全に油断し、先制の機会を失った。
一方、クラウゼルは、彼女が剣を押し返そうとして奮闘している姿を見て歓喜していた。
『いけるのか……?』
剣の交錯する間から、セシリアが辛そうに力を込める様子を見て、彼は勝利を想像し始めた。
クラウゼルは、目の前で奮闘しているセシリアの姿を見て、勝利への希望に胸を躍らせた。
『勝てるかもしれない……?』
アカデミーでの日々、彼は数十回、数百回と実戦訓練や演習を経験してきたが、一度も勝利を収めたことはなかった。しかし、今は違った。
勝てるかもしれないという思いが、彼の心を熱くさせていた。
だが、その瞬間の油断と興奮が、セシリアに完全に読み取られてしまった。
「セシリアは隙を見つけたのですねえ!」
彼女は短いスカートから白い太ももが一瞬覗く危うい動作で、クラウゼルの腹部に鋭い蹴りを放った。
鎧のおかげで衝撃は軽減されたが、突然の攻撃にクラウゼルは体勢を崩し、後ろへ数歩下がった。
彼がバランスを取り直そうとする間に、セシリアは一歩後退し、フランベルジュを構え直して再び猛攻を仕掛けた。
「うっ!」
クラウゼルは体勢が崩れた短い隙に襲いかかる彼女の猛攻に怯えながら、必死に避けようとした。しかし、セシリアの動きは彼のそれよりも圧倒的に速く、フランベルジュの刃は瞬く間に彼の体のあちこちに浅い傷を与えていった。
「ぎゃああ!」
フランベルジュ特有の波刃は、相手の肉を「引き裂く」。小さな傷でも焼けるような激痛を引き起こすため、クラウゼルは恐怖と痛みに悲鳴を上げた。
『死ぬ!』
全身の痛みと恐怖に震えながら、クラウゼルは必死の反撃に出た。
完全に制御を失い、ほとんど本能的に振り回したロングソードは、予想以上の勢いでセシリアの顔面に迫った。
シャキーン!
クラウゼルが全力で放った反撃の剣筋は、セシリアの顔面をかすめるように鋭く迫った。
「ひっ!」
驚いたセシリアは、身を反らして辛うじてそれをかわした。冷や汗を流しながら、彼女は内心で恐れを感じていた。
『まさか、殺す気なのですかねえ……?』
ライオン砦の騎士見習いたちは、皆一定以上の実力を持っていると認められた者たちだ。そのため、大会や演習では木刀ではなく真剣が使用されていた。
それは、制御能力が備わっている実力者たちであるという前提のもとで認められた規則だった。
ライオン砦に入学する以上、その程度の技量を持たない者はいないとされていたからだ。
だが、ここにはクラウゼルという例外が存在していた。
彼は、アカデミーでの数か月にわたる厳しい訓練を受けて、体力や技量が少なからず向上していた。
しかし、精神的な自信の欠如により、その力を発揮することはできなかった。
特に大勢の前では、萎縮し、普段以上に不器用になる傾向があった。
そんなクラウゼルに真剣を持たせて試合に臨ませることは、彼自身よりもむしろ相手にとって危険だった。
未熟者は「手加減」を知らないため、持った武器を本気で振り回すしかなかったのだ。
「はあっ、はあっ……。」
クラウゼル自身は、その事実に気づいていなかった。
だが、間近で彼の試合を見ていたザイロンや対戦相手のセシリアは、その危険性を強く感じていた。
『何をやっているんだ、この男……!』
『怖いです! 怖いですよ!』
ザイロンは、クラウゼルの異常な行動に舌打ちしながら試合を中断するべきだと判断した。
特に、対戦相手が名門ドレコ伯爵家の令嬢セシリアである以上、このまま放置すれば問題が大きくなりかねなかった。
一方、セシリアは涙を浮かべていた。
試合だ。今はあくまで試合中だ。
しかし、目の前の相手は明らかに「殺す」つもりで剣を振り回していた。クラウゼルの剣先からは、明確な殺意が感じられた。
幼い頃から剣術を叩き込まれ、幾度となく演習や模擬戦を経験してきたセシリアでさえ、実際に「命の危険」に直面するのは初めてだった。
その恐怖に、彼女の理性は徐々に失われていった。
だが、クラウゼルはそのような状況を一切気に留めることなく、右手に剣を握りしめたまま突進してきた。左腕はセシリアのフランベルジュによる攻撃で負傷していたが、彼は痛みを無視してただ突き進むのみだった。
「くはははは!」
狂気じみた笑みを浮かべながら、クラウゼルはザイロンが掲げた試合中止の白旗さえ切り裂き、視界に入ったセシリアに向かって叫んだ。
「死ねえええ!」
セシリアの目の前に迫るクラウゼルは、もはや理性を失い、完全に暴走していた。
「うっ……!」
セシリアは思わず後退し、彼の剣先が迫るのを恐れた。
狂気に満ちた笑みを浮かべながら剣を振り回す彼の姿は、まるで獣が獲物を追い詰めるようだった。
「ひゃっ!」
悲鳴を上げたセシリアは、足を震わせ、恐怖で身動きが取れなくなった。
「死ね!」
距離を詰めたクラウゼルは、剣を振り下ろすため腰をひねり、全身の力を込めた攻撃を繰り出そうとした。
その瞬間、ザイロンが腰の木刀を抜き、彼を制止しようと動き出した。しかし、それよりも早くセシリアの本能が反応した。
「セシリアは負けません!」
反射的に、セシリアは腰のフランベルジュを引き抜き、目の前に迫るクラウゼルの攻撃を迎え撃った。
シュッ!
刃が空気を切る音が響き、クラウゼルの右肩から血がほとばしった。
「ぐっ……!」
痛みに叫び声を上げる間もなく、彼はその場に倒れ込んだ。
「う、うそ……?」
セシリアは手に持つフランベルジュを見つめ、震えながら立ち尽くした。自分が相手に深い傷を負わせたことに、彼女自身が信じられなかったのだ。
一方、駆け寄ったザイロンは、倒れたクラウゼルの容体を確認すると、大声で医療班を呼び寄せた。
「早く運び出せ!」