第一章 不幸な公爵の息子
クラウゼルはジオン王国で右に出る者はいないほどの権力を手中に収めたカーシオン公爵の一人息子だが、ライオン砦の他の学生たちはその事実を知らなかった。
彼が時折貴族らしい態度を見せ、「私はベルク地方のセロフ男爵家の長男だ」と言ったとしても、ライオン砦に集まる才能溢れる者たちには到底信じられない、哀れで冴えない身なりだった。
加えて、ベルク地方は聞いたこともない地名であり、セロフ男爵家もまったく聞いたことのない家名だったため、彼はただの虚言癖のある輩と烙印を押されてしまった。
たとえ万が一彼が本当に貴族だったとしても、あの高貴なヴァチカン伯爵家の令嬢ミリエの後光に隠れれば、特に問題はないと安心できる程度だった。
『家に帰りたい……』
朝寝坊してルームメイト3人を起こさなかったという理由で袋叩きに遭い、朝から髪が乱れてしまったクラウゼルは腹痛に苦しんでいた。
ジオン王国で最高の牧草を食べて育った最高級乳牛の最高級生乳を愛用していた公爵の息子にとって、安物の牛乳は体に合わなかったのだ。
クラウゼルは退屈な授業が終わり、担当教師が教室を出たのを確認するや否や席を立ち、トイレに向かった。
3本の塔が高くそびえるライオン砦は、その名の通り一つの「城」とも言える構造をしており、長方形の建築デザインのため廊下は一直線に伸びている。
そのため、今まさに教室を出たクラウゼルはただ一直線に歩いていた。トイレがだんだん近づいてくるのを感じ、さらに歩みを速めた。
だが、なんということだろう。
彼は用を足すのが急務にもかかわらず、途中で急に立ち止まると、一直線に進めば辿り着けるはずのトイレを避け、わざわざ下の階に続く階段へと身体を向けたのだった。
『くそっ……!』
その理由は、クラウゼルの属する2年Cクラスのある3階廊下のトイレの前に「ベイカーズ」の一味が陣取っていたからだ。
「ベイカーズ」の一味は、油を塗ったような薄い緑色の髪を後ろへ撫でつけ、広い額を不快に露出させているベイカーズを筆頭に、常にクラウゼルをいじめてきた、クラウゼルがアカデミーで最も嫌う悪魔のような存在だった。
ベイカーズは子爵家の子息だったが、ミリエに想いを寄せているのか、彼女の前ではクラウゼルをさらにいじめて見せることがよくあった。
奥歯を噛み締めたクラウゼルは、肛門括約筋に全神経を集中させながら、トイレが目の前にあるにもかかわらず、下の階のトイレを目指して慎重に階段を降りていった。
だが、途中でまた立ち止まらざるを得なかった。階段の下から赤髪の誰かが歩いて登ってくるのが視界に入ったからだ。
『あの野郎……!』
燃えるような赤い髪が乱雑に逆立ち、まさに炎そのもののようだった。その上、ライオン砦の391名の騎士見習いが全員整列しても特に目立つであろう、長さ170センチメートルに及ぶ漆黒の剣身を持つツヴァイヘンダーを背中に斜めに背負っているのが見えた。
それを確認したクラウゼルは一瞬で硬直した。炎のような髪を見て、まさかと思いながらも、その後に視界に入った漆黒の剣身を見て相手が「イベリアン」だと確信したからだ。
イベリアンはクラウゼルと同じ学年の騎士見習いだったが、どう見てもまだ13歳になったばかりのような外見をしていた。
身分や年齢、そして精神的成熟度はともかく、文武を兼ね備えれば入学対象となるライオン砦では時折若い少年少女の姿が見られるものの、イベリアンは少し特別だった。
その若さでありながら、彼はライオン砦の「最強4人」の一人に数えられるほどの実力者だった。しかも、140センチメートルにも満たないと思われる身長にもかかわらず、自分の身長をはるかに超えるツヴァイヘンダーを背負い、当然のように使いこなしていた。
『なんてことだ……!』
クラウゼルは大袈裟な身振りをしながら、せっかく降りてきた階段を再び登り始めた。
「あいつ」と向き合うくらいなら、「ベイカーズ」の一味にいじめられる方がましだ。
イベリアンは若いくせに口が悪く、人格を否定するような罵詈雑言を平然と浴びせかけてくる。無差別に暴力を振るうベイカーズの一味に対する「耐性」が1年と7ヶ月の間で鍛え上げられたクラウゼルにとっては、むしろベイカーズの方が扱いやすかった。
括約筋に力を入れるせいで歩き方がぎこちない状態だった彼は、イベリアンにすぐに距離を詰められてしまったが、幸運にもイベリアンは彼に気づいていないのか、それとも今日はわざわざ絡む必要がない日なのか、何事もなく通り過ぎた。
ほっと胸をなでおろしたクラウゼルは、久しぶりに運が良い日だと思い、さっさと腹痛を解消しようと足を速めた。そして辿り着いた先は、「ベイカーズ」の一味がしゃがみ込んでいる3階のトイレだった。
「おや、クラウゼルじゃねえか?」
「歌でも歌いに来たのかよ?」
ベイカーズの他、4人の取り巻きがクラウゼルを見て嬉しそうに笑った。クラウゼルは頭を抱えながら心の中で絶叫した。
『なんでこうなるんだよ、くそっ!』
「ベイカーズ」は彼を囲み始めた。彼らのリーダーであるベイカーズは得意げにクラウゼルの前に立ち、憎たらしい笑顔を浮かべている。
「なんだ、また嘘っぱちをほざきに来たのか?」
クラウゼルは引きつった笑顔を作りながら頭を下げた。
「へへ、セロフ男爵家のクラウゼルです。イレスカ子爵家の長男であるベイカーズ様にご丁寧に対応いただき、恐悦至極です。」
ベイカーズは彼の言葉に不快感を露わにし、顔をしかめた。
「おい、いつまでそのでたらめをほざき続けるつもりだ?お前が言う地方も家名も存在しないことくらい、誰もが知ってるんだぞ!」
クラウゼルは心の中で溜息をつきながらも、さらに引きつった笑顔を保った。
だが、彼は決して嘘を認めることはできなかった。
真実を暴露すれば、他の貴族たちが自分を追い詰めに来ることは目に見えていた。
そうなれば、父カーシオン公爵の命令通り、本当に家から追放されるかもしれなかった。
「田舎ですから、他の方々に知られていなくても仕方ありません。」
彼は苦笑しながら頭を下げつつ、心の中では連続して悪態をついていた。
そして今すぐにでもトイレに駆け込みたかったが、周囲の彼らがそれを許してくれるわけもなく、ひとまず何発か殴られる覚悟を決めるしかなかった。
『耐えろ……耐えるんだ。』
ライオン砦での1年と7ヶ月の生活の中で、クラウゼルは2つのスキルを身に着けていた。
それは、「いかにして少ないダメージで暴力を終わらせるか」と「どうすれば痛みを最小限に抑えられるか」だった。
そのおかげで今朝も袋叩きに遭ったものの、髪が乱れた程度で体にはほとんど傷が残らなかった。これが暴行した相手には気づかれていないのは幸運だった。
「おい、クラウゼル!お前、ベイカーズ様の前であのふざけた態度はなんだ!」
ベイカーズの取り巻きの一人がクラウゼルのふくらはぎを蹴飛ばした。
クラウゼルは蹴られる瞬間、さりげなく足を後ろに引いて衝撃を和らげた。
その動きは巧妙だった。
完全に攻撃を回避すれば、相手が激怒してさらなる暴力を振るう可能性があったが、彼はわざと軽く被害を受けることで相手に打撃感を与え、自分への痛みを最小限に抑えたのだ。
取り巻きは「痛かったろ?」と言わんばかりに笑い、クラウゼルは本当はそれほど痛くなかったが、わざと苦痛の表情を浮かべて頷いて見せた。
それが相手を満足させ、早く暴力を終わらせるコツだと経験から学んでいたからだった。
その後も取り巻きたちは次々とクラウゼルに攻撃を仕掛けたが、彼は機転を利かせ、すべての攻撃を最低限の被害で切り抜けた。
そして彼らが隙を見せた瞬間、トイレに飛び込んでいった。
その後、彼がさらにひどい目に遭ったことは、言うまでもないだろう。