天秤へ示す答え
中に入った俺たちは、まずカウンターにそいつを見つけた。
そして、テーブル席に視線を向けると、そこには以前来た時と同じように、澪が眼を閉じて座っていた。
人形のように白い顔で。
まさしく、眠るように。
――あるいは、死んだように。
ようこそいらっしゃいました。本日は決断の日です。
そいつは分かりきったことを言ってくる。
だが、俺が口を開くよりも先に、そいつは続けた。
日野リサ。貴方の答えから聞かせてください。
その言葉に俺はリサを見た。
リサはそいつに頷き、澪の方へと歩いていく。
そっと、澪の頬に手を這わせ、その言葉を口にする。
「ごめんね、澪」
リサが眼を閉じた。もう一度、澪に囁く。
「ごめんね、澪。あたしがけしかけたから」
さて、ご回答を。
そいつが促すと、リサは澪の側にたったまま、睨みつけるようにそいつを見つめた。
秦野澪を生き返らせますか? 貴方の命で。
その質問に俺は硬直した。
そいつが淡々と口にしたそれは、あまりにも酷い選択の強要。
リサの罪悪感を煽る。そして救いのない選択。
彼女の身体か、心か。いずれかを壊すための選択肢。
俺が再びリサを見つめると――
彼女は、笑って見せた。鋭く、強く。
眩しすぎるその姿。俺は自分の予感が誤りであったことを思い知る。
たとえどんな選択をしても、彼女が壊れることなど有り得ない。
絶対に、結果を受け止める。
笑みはそのままに、彼女が紡ぐのは、3度同じ言葉。
* * *
「ごめんね、澪」
澪にもう一度謝って、あたしは口を噤んだ。
あとはそれを言うだけなのに、言葉が出てこない。
言わなきゃ。
ちゃんと、言わなきゃ。
その、言葉を。
もう一度、全てを捨てて――
夢だけを掴むために。
あたしは深呼吸して、口を開いた。
「あたし、澪のために命を捨てる気なんて、さらさらないの」
言った。言えた。
「あなたは友達だけど、あたしの夢に比べたら小石みたいなもんよ」
自分の口から出る言葉が、あたしを切り裂く。
でも、涙は見せない。見せちゃいけない。
あたしは望んで、秤にかけたのだから。
「仁、あんたのことは結構気に入っていたけど、あんたの夢とあたしの夢。比べるまでもないことくらいわかるでしょ?」
無理にでも、笑え――
徹底的に、完膚なきまでに、捨てろ。
神様――
あんたはもういらない。
何もかもを捨てて、日本まで来て、また何もかもを捨てるんだから――
あたしはせめて、ただ一つ、報われてみせる。
他でもない、あたし自身の力で。
あんたは黙って、見てろ!
「だから、これは当たり前の選択なの。わかってくれとは言わないけど、ゲストはおとなしく、退場してね」
ここで格好つけて笑えば、それで終わり。
でも、視界が歪む。でも、頬が冷たい。
泣いちゃだめなのに。
あたしはここで笑わなきゃ、だめなのに――
溢れるものが、止まらない。
どうして? ちゃんと決めたのに。
――わかっている。本当は捨てるのが辛いからって。
でも、しょうがないじゃない。あたしは夢のために、日本まで来たのに。
――ここでぶれたら、本当のバカじゃない。
さようなら、澪――
さようなら、仁――
色々きついこと言ったけど――
本当は、貴方たちが大好きでした。
涙で視界がぐしゃぐしゃになる中、ポン、と頭に手が置かれた。
「後はまかせろ」
仁が、そこにいた。あたしと澪を守るように。
わかっている。
彼は澪の側に立っているって、わかっている。
でも、それでも――
あたし、全てを捨てなくてもいいの?
たまらなくなって、あたしは仁にしがみついた。
ホントごめん、澪。
これで最後にするから。
今だけ、仁を貸してね。
あたしは仁の胸で泣き続ける。
この涙が終わる時が――
あたしの恋が終わる時。
また掌から、たくさんのものが零れていく。
掬った水が、残らないように。
けれど、夢と大切な友人は、残る。
それは、掌で懸命に受け止めた、雫のように――
* * *
リサが落ち着くまで待って、俺はそいつを睨みつける。
もちろん、何の効果もない。
ただそいつはこう言うだけだ。
天原仁、あなたの選択は?
秦野澪と引き換えに、夢を叶えるのか。
夢と引き換えに、秦野澪の命を救うのか。
どちらを選びますか?
「澪を生き返らせろ」
俺は即答する。そいつから眼を逸らさない。
あなたの夢は、その程度のものですか。意外と軽かったですね。
「軽いわけないだろ」
皮肉とわかっているが、俺は応じる。
秦野澪の命を救うために、夢を犠牲にするのですから、軽いでしょう。
その言葉に俺は笑う。強く、強く、鋭く。リサに負けないように。
「なんで俺の夢が犠牲になるんだ?」
その瞬間、僅かにそいつが揺れたのが、わかった。
左腕は使えなくなるのですよ?また野球のない生活に戻るのです。
その聞き飽きた事実にも、俺はもう動じない。
聞き飽きた事実。
――誰が、事実だなんて決めたんだ?
俺だ。
俺が諦めたから、事実になったんだ。
だから俺は、俺が作ったその事実を否定する。
「動くようにするさ。もう一度リハビリして」
――そもそも澪の命と俺の夢を天秤の両側に乗せるのが間違っている。
どちらも大切ならば、それは天秤の片側に合わせて乗せるべきだ。
そして、もう片側に乗せるのは、俺の人生すべて。
そいつは俺の言葉をまた否定しようとする。
無駄に終わりますよ。
「そうかもな」
諦念を呼び起こすその言葉に俺は頷く。確かに、無駄かもしれない。
俺の人生をもう片側に乗せても、澪の命と俺の夢を合わせて乗せた、片側には釣り合わない。
だから――
「だけどお前に心配してもらう必要はない」
もう俺はそいつを見ていない。
視界にあるのは、澪の顔。
だから、天秤のもう片側には俺の人生と――
「澪がいれば。二人なら何とかなる」
――澪の人生も、乗せてもらう。
いつからか二人で歩いて来たのに、あの事故から一人ずつになってしまったから、俺たちは間違った。
もう一度、二人で向き合えば。
――必ず、届く。
いつか描いた夢の、その先へ――
「悪いけど、澪。お前の人生を、俺にくれ」
そいつは、初めて沈黙した。
常に淀みなく返ってきていた言葉が、止まる。
僅かに訪れた無言の時間を、断ち切るように再び口を開く。
いいでしょう。やってみるといい。
そして、後悔しなさい。
またあなたたちが、後悔の果てにここにたどり着く時を、待っていますよ。
その言葉と共に、俺の左腕から何かが抜け――
澪の中に、戻っていった。
俺は確信と共に語りかける。
「二度と来ないさ」
傍らで眼を閉じて座る、大切な人に。
ともに同じ夢へ足掻く、パートナーに。
「なあ、澪」
俺の呼びかけに応えるように――
彼女はゆっくりと、眼を開けた。
俺はそれを、久しぶりに。
本当に久しぶりに、心からの笑顔で迎える。
「お帰り」
* * *
声が、聞こえた。
ふわり、ふわりとたゆたい、浮かんでは沈むわたしの意識に、染み込んでくる声が。
彼女が泣いている。
泣きながら、それでも夢を追うんだって。
わたしは思う。泣かなくてもいいのに。それが、あなたの魅力なんだから、と。
だから、わたしも仁も、あなたのことが大好きなんだから。
続けて、彼が言う。
わたしを元に戻せと。
わたしは思う。それはとてもとても嬉しいけれど、絶対に許されないこと。
だからわたしは拒否しようとする。
けれど、彼が続けた言葉が、わたしを惹きつけて離さない。
わたしを生き返らせて、また夢を追う。
何もかも上手くいくことなんてないのに。
それでも何もかも上手くいかせる、と彼は言うのだ。
それは凄く凄く魅力的だけど、きっとまた絶望する。
今度こそ、命すらなくしてしまうかもしれない。
――だから、いいよ。
わたしはいいから、夢を追って。
そう願うのに。ちょっと寂しくても我慢して、そう願うのに。
彼は言うのだ。
わたしの人生も、俺にくれって。
ふたりで足掻いて苦しもう、って。
それは酷い、プロポーズ。
地獄までついてこい、って言ってるみたいな――
優しくて、酷すぎるプロポーズ。
だからわたしは眼を開けて、文句を言って、それから――
はい。
はい。わたしの人生を、あなたに捧げます。
って返事しようと思ったんだ。
そして、眼を開けた先に飛び込んできたのは――
わたしがずっと見たかったもの。
わたしの大切な、たった一人の、心からの笑顔。
仁がその笑顔と一緒に、わたしに言ってくる。
――お帰り、って。
そんなことを言われたら、何も言えないじゃない。
文句なんて言えない。
プロポーズの返事もできない。
だからわたしが返すのは、お決まりの、たったの一言。
「ただいま」
そして再び出会ったわたし達は――
また絶望の底から足掻き始めるんだ。
それはとても辛くて、苦しい、果てのない道だけど。
未来は明るくなんてないけど。
何もかも上手くいくとは限らないけど。
それでももう一度、二人で頑張ろう。
仁。大好きな仁。わたしの命よりも大切なあなたに――
わたしの人生を、捧げます。
* * *
それから、しばらくが経った。
俺と澪は大学を辞めて、地元に帰ってリハビリに励んでいる。
奇跡なんかじゃなく。もがいて、苦しんで、でも二人で、確かに掴むために。
ピッチャーマウンドに立ち、右手に持っていたボールを左手に持ち帰る。
なんとか、持てるまでにはなった。
それでも――
振りかぶって投げたボールは、キャッチャーミットのまで分も届かずに、地面に落ちた。
土に後がついて、ボールが無情に転がる。
何度も何度も、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらい繰り返してきた、いつも通りの結果。
それでも、また俺は投げる。
またボールは届かず、地面に転がる。
焦りが、生まれる。後悔なんて、したくないのに。
それでもじわじわとそれは、俺を蝕もうとする。
「仁、少し休憩しよう?」
負の思考に落ちて行く前に、澪が止めてくれた。
渡してくるのは、手作りの弁当。
「はいこれ。栄養たっぷりよ」
「悪いな、いつもいつも」
「何言ってるの。わたしの人生は仁のもの。だから当然でしょ?」
幸せそうに笑う澪。
俺の選択が誤りでなかったことを教えてくれる表情だった。
「本気か?」
昼食をとりながら、澪が提案してきた内容に驚いて、俺は彼女を見つめた。
澪はいたって真剣に、頷く。
「試せることは全部試さないと」
「……そうだな」
俺では思いつきもしなかったが、二人で足掻くと決めたのだ。彼女の提案を試してみようと思う。
進むべき道は、俺だけじゃない。澪と歩むのだから。
彼女が示した方向に行く、と俺は決断した。
昼食後、俺はいつもと違う力の入れ方に苦労しながら、数回シャドーピッチングをした。
そして、振りかぶって、投げた。
ボールは、あらぬ方向へ飛んでいった。
俺と澪は、こうして今日も二人で足掻いている。
明日も、明後日も、その先も――
いつになるかわからないけれど――
いつか、夢を掴めると信じて。
じわじわと、蝕んでこようとする後悔に、負けないように。