雨は好き。
雨が降りしきるある日。
水を滴らせながらアジサイは自身を色とりどりに彩る。他にもコスモス、ホオズキ、キキョウ……。雨に濡れながらも美しくその身を飾っている花々を見て、蒼は学校に向かっていた。
透明な傘を見上げると、水滴がぼたぼたと傘に当たって、弾けるか傘に沿って流れ、やがては地に落ちた。蒼の耳に常に音を流し込んで、痛いだろうに、勢いよく傘に体当たりしてくる。
蒼はそれを、傘の下から見上げるのが好きだった。
まるで、目に雨が飛び込んでくるような景色が見られるからだ。
水面に一滴、白い水が落ちたように、蒼の瞳は静かに光を帯びていた。
蒼は、雨が好きだ。
晴れの日も曇りの日も、好きだ。だけど、一番心安らかに、いつまでも眺めていたいと願うのは雨だ。
そんなことを考えながら歩いていると、気づけば学校の校門をくぐっていた。
数か月前まで入ることも叶わなかった門を、蒼はこんなにも簡単に入れることに、感慨を覚えた。
中学のころ、蒼は不登校であったから。
昇降口の傘立てに傘を刺すと、蒼は靴を履き替えた。
「あれ? 月待君だ。おはよう!」
茜音がレインコートを脱ぎながら話しかけると、蒼は反射的に振り向いた。靴を下駄箱に突っ込むと、
「え、あ。お、おはようございます」
声を裏返らせながら、なんとかそう返答する。不意打ちで話しかけられるのは苦手だ。
蒼は茜音の横顔を見る。下駄箱から上履きを取り出す彼女は、蒼の視線を気にすることなく、上履きに目を向けている。
雨の日でも彼女は陽だまりのように笑うのか。
蒼はなんとなく感心すると、足の動きを止めた。
これは、月雪さんが靴を履き替えるまで待っておいた方が良いのだろうか。いや、待ってたらおかしいのでは? でも話しかけてくれたのにそのままスルーして教室へ行くのは……。同じクラスだし……。
迷っていると、蒼はどうすればいいのか分からず固まるほかない。
早く結論を出さなければと一人焦っていると、その間に茜音は上履きをはいていた。
「ん、待っててくれたの? じゃあ一緒に教室行こう」
「え、あ、はい」
堂々と歩き出す茜音にほっとしながら、蒼はその背中を追った。
教室に着くと、茜音と蒼はいつも通り、話し始める。晴斗も加わる。賑やかになる。
いつもと変わるはずもないが、いつも通りの日常に、安心したような違和感を覚えたような、言いようのなくむず痒い気持ちになった。満足できないような、欲望を持てあましたともいえるかもしれない。
そんなぼんやりした様子だったからか、昼休みは、教室ではない場所へ行きたいと思った。
蒼はお昼ご飯を食べ終えるなり席を立ち、がやがやとした教室から足を踏み出した。
行き先なく廊下をさまよい歩く。
通り過ぎる生徒たちは各々、楽しそうに隣の人と話していたり、目を伏せて猫背で手元の物を握りしめていたりしていた。
午後なにがあるんだっけ。数学。うわあマジか、サボろうかな。おいおい、裏切るなよ。一緒に逝こうぜ? 課題やってねえんだよ。俺もだよ。仲間を逃がしてたまるか。俺たち友達だろ?
他愛もない会話。
ねえねえ、バイト先の先輩がね、今日の放課後一緒にご飯食べに行かないって! それ、今日何回目よ。えー、何回でもいいじゃん! どうしようかなあ。
人を避けていると、静かな場所へと来ていた。確か、音楽室だっけ。
記憶を探り、ここら辺で時間を潰そうと思い立つ。この時間、音楽の先生は恐らく職員室だ。
人目を気にせず、蒼は壁にもたれかかった。体育座りで瞬きせず向かいの白い壁を視界に映す。
どうしてか拭えない孤独感が心に住み着いて。寂しくなった。クラスの中で一人、浮いてるみたいな。
ありきたりな言葉を書きつけるうち、蒼の頭は自然と、その寂しいだとか、孤独感だとか、そんなもので埋まっていた。余白がないくらいに強く濃く刻み付けて、思いがけず涙が溢れてしまいそうになる。
ばかばかしい。
蒼はため息をついて、人の気配のしない廊下を立ち去ろうと、体を動かしかけた。
その瞬間、蒼をその場に縫い留めるようにピアノの音が耳をかすめた。
蒼は右隣の扉を見る。開いている。いつの間にか、誰かが入った。
気力を無くして、蒼はまた座り込んだ。
音楽室、先生がいない中入れるのは茜音しかいない。だから、こわい思いはしない。
蒼はいまいち力の入らない両足で一瞬ふらつきながら立ち、小さく失礼します、と呟いて音楽室に立ち寄った。
その音色はもちろん、蒼は、演奏している茜音の表情に釘付けになった。一瞬で意識が覚醒したようだ。
音楽室の一番奥の窓で雨が打ち鳴っている。それをピアノの音でそっと寄り添うように弾かれた優しく切ない音は、耳に淡く溶ける。上品な音色はするりと入り込んでくる。耳から口へ。口から、心臓へ。心臓から脳と心へ。
そんな風に伝って、音が心を柔らかく梳かして、ほぐしてくれるようだった。
それを奏でる茜音のほっそりとした手。確かに蒼と同じジャケットを着た彼女は、しかしリボンもスカートもよく似合っている。
見ていると強烈な痛々しさがこみあげてくるほど憂いを帯びた青い瞳が鍵盤に吸い込まれている。それを見せまいとするように添えられた長く繊細な睫毛に、僅かに揺れる黒髪。頬が薄く桃色に照らされる。瞳と正反対な、ただこぼれてしまった、そんなかすかな笑み。
いうなればそう、しっとりとした笑顔。
それに、つんと強い印象の横顔なのに、不思議と凍えてしまいそうな儚い空気が漂っている。梅雨のせいだろうか。
蒼の心臓は、ドキリとした。体温が体中を回って、顔が熱くなる。
初対面の人と話すときのように、汗が噴き出る。
蒼は、ぽかんとしていた。
音楽以上に、自分の意識が茜音に奪われている。
音が止まった。茜音の腕が止まっていた。
「……あれ、月待君、いたんだ。なんだ、いたなら言ってくれればいいのに。私に何か用? あ、それとも音楽室? 先生なら職員室に――」
「……失礼しましたッ!」
いつも通り、親しみやすい笑顔へと変えた茜音に、蒼は目を合わせられなくなった。
自分で混乱しながら、大慌てで音楽室を出ていった。
おかしい、なんか、おかしい。
未だに早く脈打っている心臓の音を聞きながら、蒼は教室へと早歩きで向かった。
なんでこんなにドキドキしてるんだろう。なんでこんなにさっきの月雪さんの顔ばっかり脳裏に張り付いてるんだろう。
なんで、なんで……。
疑問と血液を何度も何度も循環させ、考えてみても蒼は分からなかった。
授業中、掃除中、休み時間中、放課後まで、蒼は茜音のことが離れなかった。
そんなふわふわとした意識のまま、蒼は凛香の家に上がらせてもらった。今蒼に来てほしい服を作っているそうだ。もはや目的と手段がごっちゃになっている。じゃ、なくて。
夕立が街に被さって、空がオレンジ色にきらめく。
綺麗だなあなんて思い、蒼は空を見上げた。
今頃月雪さんはどうしているんだろう。
何気なく考え、蒼は慌てて思考を切り替えた。月雪さんが何をしていようと、僕がそんなことを考える必要はない。
六月にしては、妙に顔が熱いな。
スマホを鞄にそっと零して、蒼は首元で右手を振った。
いつの間にか止まっていた足を、ゆっくりと動かし始めた。
蒼は凛香の家に入り、靴を揃えてから玄関のスリッパに足を差し込んだ。手を洗って、手で水を溜めて口に押し込んでうがいをする。蛇口をひねって、ぽたりとも水が垂れないことを確かめると、部屋へと引きこもりかけた。
そうならなかったのは、凛香が声をかけてきたからだ。彼女はリビングからやってくると、
「……妙に、暑そうだな」
そう言って首を傾げた。
カラカラに乾いた喉から、擦れたような裏返った声を出した。
「き、気にしないでください!」
「……あー、分かった。気にしない。ところで、蒼ちゃんは服の好みとかあるのか?……。もし呼び方が嫌だったら言ってくれ」
言ってから気づいたように付け足した。
「いえ」
他に言葉が思いつかず、そうとしか言えなかった。
「あ……服の好みなら、あの、えと、春みたいな、暖かくてかわいい感じが好きです。……す、すみません、なんか、変なこと言って」
曖昧で抽象的ではっきりしないと、蒼は出した言葉を後悔した。せめてもうちょっとマシな言葉選びを出来たら、とも思った。
「可愛い系か、分かった。見た目との相性もいいし、妥当だな。じゃあ、えーと、今は六月……」
「あ、三日です」
言い淀んだところで蒼が遠慮がちに口を挟む。
「三日か。だったら、六月中盤には仕上げられるかな。依頼をもらってた服もあと少しだし……」
さらっと言われた情報に、蒼は耳を疑った。
しかしすぐに納得した。お店のものと遜色ないほど、洋服として綺麗で魅力的に仕上がっているのだ。
「あ、あの」
「今日!」
鼓膜に響く声にびくりと動き、まだ熱の冷めない顔を上げた。いつの間にか下がっていたらしい。
「は、はい」
「一つ、着てほしい服が、あるんだが」
「あ、はい」
なんだろう、と少しばかり期待するように凛香を見ると、凛香は少し待ってくれと言い残してリビングへ戻った。
廊下にぽつんと一人、取り残される。あれ、どこだ、という声が聞こえ、大丈夫かな、と心配になった。
暇になると、考えてしまう。今日のことを。じわりと暑くなった頬に手を当てて、冷やそうとした。……硬い。自分の手が、硬い。
なんとなく目が覚めたような気がして、手を下げた。情緒不安定だと苦笑した。
耳を撫でるような声が喜んだ。あった、と。凛香が持ってきたのは、春物の白いワンピースと水色の薄手のパーカー。
シンプルだけど、ところどころにかわいいフリルとかリボンがついてて、かわいい。
「これを着てみてほしいんだ」
「え、あ、はい」
返事をして、ウィッグのある部屋へと歩いていった。
ジャケットとネクタイを脱ぎ、ウィッグを付けた。近くに置いてある髪ゴムで緩く二つ結びをする。ワイシャツとズボンを床に落とした。そっと床に置いておいた白いワンピースを着てみる。二束の髪の毛を服から出して、ふわりと放り出した。水色のパーカーを重ねると、柔らかい布の感覚がした。腕が暖かい。
そろりそろりと扉を開けてみた。すぐ右隣に凛香が座っており、一瞬硬直した。
「えっ、あ、あの」
「……写真撮っていいかな?」
「え、あ。はい」
爽やかな笑顔で凛香が立ち上がる。勢いと癖ではいと答えてしまった蒼は、頭が真っ白だ。凛香はなおも蒼を見ながら、スマホを取り出した。緊張でぎこちなくなりながら、精一杯の笑顔をカメラに向けた。パシャリと音が乾く。
「ありがとう。……うん。やっぱりよく似合っている。大きさも丁度いい……。いや、もう少し袖は短めの方がいいか。それと身長は平均より高めだから、大きめのサイズになるかな。……」
独り言なのか話しかけられているのか迷うような口調。戸惑う蒼に気づき、凛香はしっかりと蒼と目を合わせる。
「あ、ありがとう。体調が悪そうだったのに、ごめん。それ、いる?」
「え、いいんですか」
思わずそう言って、視線を手元に落とした。
「ああ。元々あげる相手もいなかったんだ。作りたかったから作っただけで」
普通であれば、断っただろう。申し訳ないと。ところがどうしてか、蒼は頷いてしまった。未だに心臓の熱は冷めることを知らないらしく、バクバクと言っている。それが関係あるのかどうか、蒼はよく分からなかった。
「えと、あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
優しく目を細めた。蒼は凛香の言葉にほっとして、控えめな笑みを浮かべた。
「……あ。えと。それじゃあ、お部屋使わせてもらいます」
「ああ」
軽く頭を下げて、ドギマギしながら寝室に当たる部屋に入っていった。
パタン。閉じる音が薄く広がり、ほわぁと息をついた。
一旦、緊張する出来事が全て終わった。頭が空き、冷静になる。心に残っている光景が思い出される。
「いや別に変な気持ちじゃなくて……」
もごもごと一人言い訳をして、首を垂れる汗を手の甲でそっと拭った。六月は湿気が多くてべったり張り付いてくるようで気持ち悪い。
でも、嫌いじゃない。
そんな風に思考をずらしてみたところで、頬の熱は溶けていかない。
……かわいかった、ずるかった。羨ましかった。自己嫌悪した。
「それだけだったら、きっと、こうはならない、から、……分かんないや」
考えることを放棄した。
気にしなくても、どうせ明日にはいつも通り。だから、大丈夫。
そう結論付けて、蒼はウィッグを外した。