好きなものは好き
恐る恐るインターホンを押した。鞄を持っている手には汗がべっとりくっついている。
夕立。学校を終えた蒼は、凛香の家の目の前に立っていた。
不安でたまらなくなりながら、判決を待つ囚人のように扉が開くのを待っていた。やきもきして、唇をきゅっと引き結んだ。
やっぱり、詐欺か何かだったんだろうか。
でも、鈴木さんのお姉さんのお友達だし……。
一向に出てこないので、蒼は数分悩んだ後、もう一度控えめにインターホンに指を近づける。指が震えている。蒼はじっとインターホンを見た。
いや、二回も押したら迷惑じゃないだろうか……。
二回ならば別に気にするほどのものでもない。さらに出ない方が悪いと言えば悪い。そんなこと考える必要ないのだが、蒼はためらい、手をインターホンの前で固まらせた。
意を決してインターホンを押す。
足音が近づいてきて、扉が開かれた。
「いらっしゃい。……合鍵渡しといたほうがいいかな?」
そこで、初めて、気づいた。恰好を、間違えたかもしれないと。しかしなぜ、彼女は蒼に気づいたのだろうか。顔? いや、キャップを深く被っていたから、分からないはずだ。声も、まだ発していない。
戸惑いながら、弱弱しいか細い声で言った。
「……ぁ、ぇえと、い、いいんですか?」
「ああ。いいぞ? ……あ、前に返し忘れていた学生証だ」
凛香が右手を差し出した。その手の上には、確かに蒼の学生証が乗っていた。
「えっ。ど、ど、どこで?」
「帰るときにするっと落ちてたな」
ふーっと息をついた。
「家に入ってくれ。このままだと流石に話しづらい」
蒼は玄関に足を踏み入れた。洗面所で手を洗わせてもらうと、リビングのカーペットに座った。
合鍵をくれるほど信頼してくれる理由は学生証か、と納得しつつも、やはり飲み込みづらい。その様子を察した凛香が説明してくれた。
「元々お金を払えるわけではないから、身分の確認が出来ないことは百も承知だ。その上でリスク背負って着てもらいたいんだが、だとしても合鍵は一度渡したらコピーされる恐れもある。つまり渡すつもりはなかった。が、学生だと確定したなら多分平気だろうと思った」
服が好きなんだな、という感想が出た。
凛香は立ち上がって、玄関に向かった。すぐに引き返してくると、
「というわけで、合鍵を渡す」
中指と親指で摘ままれている鍵を受け取ると、蒼は鍵を鞄の中に入れた。
「あの、その、……」
言い淀むと、凛香は苦笑して話を進めた。
「さっそくだけど、着てもらっても……」
萎縮。蒼が縮こまって顔色を悪くすると、凛香は柔らかく笑った。
「いや、別にいい。貴方が私に慣れたタイミングでいい」
蒼は負けず嫌いである。そういわれるとやりたくなるのが負けず嫌いの性。
「あ、えと、い、いえ、大丈夫です!」
そう言いつつも、声は震えて泣く寸前のように聞こえるし、緊張で手が震えている。
「……本当にか?」
心配そうに眉を寄せて、凛香は聞いた。
「へ、へーきです」
まあいいか、とでも思ったのか、凛香は分かったと言い残して寝室の方へと歩いて行った。
五分ほどして凛香が帰ってきた。その手には大量のハンガーが握られていた。それをカーペットに広げると、
「どれがいい?」
問われて、蒼は床に咲いた服を見た。
スカートやフリル、リボン。ショートパンツもあるが、蒼の目はスカートにしか向かわなくなっていた。夕日のような瞳に星を散りばめて、頬をふわりと茜色に染めた。
「……これを着たいのか?」
白いブラウス。チェックの吊りスカート。シンプルだけど、かわいい、と蒼は思った。返答をするのすら億劫に感じるほど、蒼は目の前の光景で頭がいっぱいだ。
蒼が夢見心地で頷いてみせると、凛香は、少し明るい茶色のウィッグを持ってきた。腹と胸の丁度中間くらいまである長さのものである。
「これと……化粧品は、使い方分かるか?」
ウィッグをネットから取り出して、右手に握っていた櫛で梳かした。
「え、あの。ええっと……はい」
なんというべきか分からず、視線を彷徨わせた。情報源は、ネットと中学の親友。凛香が立ち上がり、自然と視線が向く。
「じゃあ、洗面所の化粧品も使っていいから。私はあっちに居るから、着替え終わったら言ってほしい」
先程の寝室を指すと、凛香は言葉通り寝室へと姿を消した。その様子を蒼はぽかんとしながら見つめる。ぱたんと扉が閉じる音を聞き、狭いアパートが静まり返った。奥に向かうにつれ黒さを増している暗い廊下を眺めた後、蒼は床を彩る宝石の方を向いた。うつむくと、睫毛にかかり気味な前髪が目の辺りに影を落とす。リビングの天井に咲く光がその影をより濃くしている。
現実感が沸いた。
夢から覚めた気がした。
上から合わせてみる。ハンガーを手に取って、首元を合わせればいいだけ。ああ、サイズは合っている、と感じた。
今更になって怖くなってきた。一度現実を知ってしまえば、もう二度と理想の自分を思い描けないような予感がした。
緊張してきた。
好きなものを、着たい。でも、似合わないなら、と思うと、怖い。
引き受けたから、着るしかない。胸を高鳴らせながら、まずネクタイを取った。
ドキドキって音が、聞こえる。
心臓の鼓動が周りの骨を揺らすように、振動が同心円状に広がっていくのを感じる。
きゅっと口を引き結んで、少し緩める。
ポロシャツがぽとりとカーペットに落ちる。恐る恐る白いふわふわの布に触れてみる。引き寄せる。ゆっくり袖を通す。ボタンを留める。腕を動かすと、布がこすれる音がした。
顔から緊張が消え、口元が綻ぶ。緩く緩く結ばれた糸のように頬を緩めた。
あとはズボンを脱いで、上から吊りスカートを着た。足がふわふわする感じが落ち着かないが、同時に馴染むとも思う。
最後にウィッグを被る。これで完成。と思ったが、髪をただ遊ばせておくのももったいない気がする。洗面所へと白い靴下で歩くと、ゴムを二つ、手に取った。その時に、何気なく鏡を見てみた。
肩にかからないギリギリの長さの横髪が顔の角張ったイメージを誤魔化している。半袖のブラウスも、元から少し堅めの服なので、男の子っぽい肩幅が気にならない。スカートも、横に広がっているから男女の体型差が目立ちにくい。
端的に言うと、かわいい。少なくとも、女の子であるとは思える。
「かわいい……。僕が、かわいい」
少々自信過剰気味な台詞を言いながら、蒼は髪の毛を半分に分けた。右半分を優しく取って、まとめる。耳の下くらいで結ぶ。右手首にかかった髪ゴムに髪を入れて、ゴムをくるりとねじる。そしてもう一回、髪を入れた。これを繰り返して、最後にまとまった髪を両手で握って反対方向にそれぞれ少しだけ引っ張る。しっかり、でも緩く縛れた。鏡をちらっと見る。初めてにしては上手。
達成感にしばし浸り、もう片方。今度は右とずれないように気を付けながら結ぶ。
結び終わって鏡に映ったのは、二つ結びをした女の子だった。横髪は残してあるから顔は目立たないままだ。
「……よし」
覚悟を決めて、廊下に出る。早足で寝室まで行って、一度緊張を包んだ深呼吸をする。
沈黙の満ちた廊下に、そんな呼吸音のノイズが入った。その次は、コンコンとノックする音が。
さっと手を後ろで結んで、立ち尽くす。数秒すると扉が開く。茶色の瞳が覗く。ばっちり目が合った。
凛香は見開き、素早く瞬きをして、次の瞬間、瞳をキラキラ輝かせた。
「すごい! 想像以上にすごい! かわいい! 語彙力が死んだ! かわいー! 正直参考にならんと思ってたがかわいい! 細かいことどうでもなくなるくらいかわいい! お人形さんみたいでかわいい! かわいい! 全部かわいい!」
蒼は、予想外の誉め言葉に目を見開いて固まった。凛香は蒼の肩をぎゅっと握り、それはもう幼い少女のようにわくわくしている表情をした。
「もう! それあげる! ほしいの好きなもの、全部持ってっていいよ!」
「えっ」
衝撃の発言に思わず口を挟む。僕なんかにどうして、という困惑と申し訳なさ。単純に家に持ち込むことは出来ないこと。それらをないまぜにした顔を凛香に向ける。凛香はハッとして、
「あっ。ご両親は……?」
「あ、えと、言ってません」
目を細め、蒼を見る。凛香が服を作り始めたのは、自分でかわいい子を作りたいからだった。かわいくなりたいと願う全ての子に、どうにかしてかわいくなってもらおうと。しかし、化粧は得意じゃないし、分からない。だから服を作ろうと思ったのだ。
よって、凛香は今、かわいいものを身に付けて心底嬉しそうな蒼に、かわいい服を着てもらわないという考えはない。こんな逸材を放っておくなど、世界の損失だ。
「……よし! 今から死ぬ気でもう一つ部屋を作るから待ってくれ!」
凛香が出した答えは簡単。それじゃあ自分が部屋を与えればいいじゃないか、保管場所として場所を作ってやろうと、そう思いついたのである。
「えっ、……えっ?」
蒼の頭は進む話に一時機能を停止させた。
あわあわと困惑して口を歪ませる蒼に、凛香は太陽以上に輝く笑顔で言った。
「大丈夫だ! 布団を捨ててカーペットで寝るようにしたら、ここを渡してやれるから」
「い、いいえ! いりませんっ!」
条件反射でいうと、するすると凛香の手から抜けた。
「ぼ、僕、これだけしてもらっているのに、なのにお部屋をもらうなんて出来ません!」
「じゃあ、家に置いておけないものがあれば私に言ってくれ。なんでも置いておこう。あっ。もちろん盗まないぞ!」
これならば部屋は与えない。物を凛香の家に置いておくだけだ。凛香の寝室は元々そういう、自分以外の服や小物の部屋でもあった。
「えっ」
それは嬉しい。即座にきっぱりと断ることができないくらい。
「今嬉しいって顔をしたな! いいんだって、全然。元々お金を使わずに服を着てもらうのだっておかしいんだからな。その分これくらいは別に構わないし」
む、と蒼は口ごもる。
「むしろ、お願いしたい。私の目の保養になるから」
勢いに押され、蒼は目を見開いたまま、なんだかよく分からんまま、何も言わずこくりと首を縦に振った。
帰り道、蒼は覚悟していたよりもあっさり終わったことに、拍子抜けしていた。
なにやら妙な事態になってしまった気がするが、それより大きなことが蒼にはあった。
大きな安堵が胸いっぱいに広がって、不安が解消され落ち着いた。すると凛香の発言が思い出される。
『すごい! 想像以上にすごい! かわいい! 語彙力が死んだ! かわいー! 正直参考にならんと思ってたがかわいい! 細かいことどうでもなくなるくらいかわいい! お人形さんみたいでかわいい! かわいい! 全部かわいい!』
「えへへ」
あんなにも褒められたのは、初めてではなかろうか。
軽やかな足取りが、橙色を受けた町中に溶けていった。