かわいい
蒼の一日は、教室の扉を滑らせるところから始まる。すると、茜音が蒼に挨拶をしてくれる。
「あ、月待君。おはよう!」
上品で親しみの沸く微笑み。
……かわいい。
思いながら、「あ、はい。」と返す。
「おはようございます」
いつも通り、何気ない話で時間が進む。
それは茜音がピアノについて話す時間であり、趣味についてであり、最近の愚痴や楽しかったことである。
「それで、その子が笑ってくれたんだよー」
「わあ! よかったですね!」
「そう! もう写真撮りたいくらいでねー。パシャパシャパシャって」
「あ、パシャって、なんか、語呂が可愛いです。コロコロって感じで」
「あー、まあ、分かる、かも。パシャって、スムーズに口が動く感じするもんね」
「はい」
「あと、むみゅむみゅとかも可愛いよね」
「むみゅってしてます」
「口で甘いものが溶ける感じね!」
妙なところで意気投合している二人に、晴斗が呆れたような顔をする。
「お前ら、何やってんの?」
「えっ。なにって、むみゅむみゅの話だけど」
さも当然であるかのように茜音が答え、蒼もコクコクと頷く。最初の緊張ぶりは嘘のようだ。
「あーそう」
諦めたらしい晴斗が話を挿げ替えた。
「そういやさ、うちの姉ちゃんが突然電話をかけてきたかと思えば数秒で切ったんだよ。マジで腹立つわ。あいつが電話してくることなんてないから、何かあったのかと思ってゲームしてる手を止めて取ってやったのに」
意外なところで裏づけられた。良かった、これで詐欺の可能性は消えた。凛香と美咲の話だ。
「晴斗君はあ、優しいねえ?」
にやつきながら茜音が言う。瞳孔がじっと晴斗を見ている。
「うるせーな。普通だろ」
晴斗がその視線を避けるように目を逸らす。
「あっ」
パッと、茜音が蒼の方を見た。
「あのさ、昼休み、ちょっと音楽室に来てよ。いつも授業で使ってるところ」
「あっはい」
条件反射で答えて、蒼は考える。一体、どんな用事だろう、と。どうかいいことでありますように。蒼はそう祈って、自席に座った。
そわそわしながら蒼が授業を受けているのを、茜音がちらちらと見ていた。
「どう? 凄いでしょ!」
茜音は誇らしげな笑みを蒼に向けた。
昼休み、約束通りに音楽室へ向かうと、突然ピアノを目の前で演奏された。
唐突にそんな状況に放り込まれたことへの困惑は、彼女の演奏に全て奪われてしまった。
気づけば蒼は、茜音の奏でる音色以外に意識が向かなくなっていた。
呆然としながら、何も考えることのできない頭で、ただ拍手をした。
「す、凄いです。あの、ほんと、凄いです! 上手なだけじゃなくて、えと、聞いていて心地よいというか……う、うまく言えないんですけど、凄いです!」
どこまでも聞き手を想定している、整った演奏。それでいて作曲者への敬意も音ににじみ出ていて、本人が楽しく弾いていることが分かる感情の雨。
思い返しながら、ふいに蒼は思った。ピアノを弾いている月雪さん、とてもかわいかったな、と。黒髪が華奢な肩に乗って揺れていた。それすらも音楽の一つのように、音楽の世界観を作り上げられている。
芸術ってこういうものなのかもしれない。蒼は芸術についてよく分からないながらそんな感想を持った。
「……えへへ。ありがとう。充分伝わったよ」
恥ずかしいけれど嬉しいというように口を緩く開いて、目を細める。細い睫毛がそっと瞳に被さるように動き、ガラス細工のように透き通った虹彩に見入ってしまう。
「やっぱり、頑張ってることを褒められると嬉しいね。……月待君はなにか、頑張ってることとか特技ある?」
どこかはにかむように笑顔を咲かせた。
呆気に取られていた蒼は、わざとらしくない程度の笑みを作って、
「……えと、あの、演技、が好きです。あ、ぜ、全然、上手くはないんですけど……!」
「そうなんだ! 素敵な趣味を持ってるね!」
「あ、ありがとうございます。でも、月雪さん凄いですね。あ、繰り返しになりますね……。好きなことをそんなに上手くなるまでできるの、凄いと思います。あ、えと、もちろん演奏自体も、素晴らしかったです!」
茜音は一瞬驚いたように瞬きをして、次の瞬間今日一番の笑みを見せた。
「ありがとう! あ、ごめんね。昼休み終わっちゃう」
素早く時計に目を走らせる。それから蒼と目を合わせて、
「じゃあ、私音楽室の鍵返してくるから、教室に戻ってて! 分かってると思うけど、ピアノとかになにかいたずらは……」
「し、しません! すぐ出ていきます!」
そんな風に思われてはたまらない。いそいそと蒼は音楽室を出た。
「あ、いや。月待君ならそうだよね。ごめん、変なこと言って」
茜音は電気をパチッと消して、音楽室の扉を丁寧に閉めた。
「い、いえ! あの、警戒して損はないと思いますし。えと、えっと、先生に信頼されて特別に借りているんですよね」
蒼は白い廊下で音楽室の前に立ち止まっている。
「うん」
茜音はさらりと肯定して、歩きかけた足を戻し、体を蒼に向けた。
「なら、そういうのは、あの、確認するべき、だと思うので、あ、謝る必要はないと思います……。あ、えと、すみません。時間取らせてしまって」
「ううん。大丈夫。そうだね。謝る必要はないか。月待君は優しいね。じゃあ、また教室で!」
快活に笑って彼女は職員室に向かって歩いて行った。職員室によって音楽の先生に鍵を返すのだそうだ。
蒼は人気のない廊下で、その後ろ姿を眺め、目を細めた。唇をかむと、茜音が向かった方向とは反対側を振り向きながら目を伏せて教室へと歩き始めた。その時の風で、サラサラと短い髪が揺れた。
蒼は、どれだけ努力しても、彼女を羨ましく思うことを止められない。
授業開始五分前の予鈴が鳴った。