大丈夫は大丈夫じゃないの合図
文化祭の準備は飛行機のごとく進み、衣装組は大方の衣装を作り終え(といってもほとんど制服なのであまり仕事がない)、小物作りに入っているらしい(こちらもあまり仕事がない)。蒼は順調に台本を暗記出来ているし、密かに練習していたので、中々上手い。
伊藤は音響で、部活組は人が足りてないところに適宜入っている。基本は大道具か、小道具づくり。あえて係を決めてみなかったのだが、上手く噛み合って随分効率的に進んでいる。小道具と大道具がほとんど一つの仕事になっていた。大道具のここは時間が経たなきゃどうしようもない、じゃあ小道具のこれを進めよう、という具合に。
それを横目に、蒼は『会話』をする。
「ねえ、ちょっといい? 貴女、素敵なピアノを弾くんでしょう! わたし、見てみたい!」
「……え、あ。その……」
『矢野彩音』は俯いて、表情が見えなくなる。
「……ピアノなんか、ロクでもないものよ。私、辞めたの。そんなことで話しかけないで」
ぱちんと手が叩かれて、蒼は『会話』をやめた。
「二人とも上手―!」
ふわふわ微笑みながら見ていた女の子が褒めてくれた。蒼は頬を薄く染めた。
「はい。問題ないかと」
一条からもそう言われ、蒼は相好を崩した。
「それにしても、私意外だなー。月待くんの性格的に、彩音ちゃんの方がやりやすいから、てっきり彩音ちゃんやるのかと」
そう。蒼は内気な彩音ではなく、底抜けに明るいひかりの方をやっている。
「……そ、その、せっかくやるなら自分とは違うタイプを演じてみたいな、と思って」
クオリティを重視するなら、彩音をやるべきだと思うが。憧れるんもんは憧れるんだから仕方ないのだ。
「あ、それはあっちだよ。これはこっち。あ、まって神谷君。そこはここじゃなくてこれ」
茜音が忙しそうに指示を出したり準備を進めたりしている。
茜音はこの頃、学校に来る日がめっきり減った。コンクールに備えて猛特訓中らしい。いわゆる最終選考、みたいな位置にいるらしく、前より茜音の表情が固い気がする。
当日にも準備期間にもあんまり行けないけど、その分来た日は働くし、当日応援してるよ!とのことで、現在一番仕事が多いのは茜音だ。自分からどんどん仕事を見つけてはこなしていく。自主的に取り組むってこういうことなのだなあ、と蒼の茜音への尊敬は尽きない。
わ、こっち向いて笑ってくれた!
やる気がもっと沸いてきて、蒼はもう一度気合を入れなおす。
「もう一回、通してみよう?」
「うん、分かった」
そうして、放課後、音楽室にて。
「そうそう。えーと、もう少しだけ声を大きくして……」
茜音からのアドバイスをもとに、蒼は声を出してみる。
「おー、良くなった」
女役をやるのにこれは避けては通れない道である。すなわち、声が低い。男だ、と。そのため声楽にも精通している茜音から女声を出す指導を受けているわけだ。
その成果が出たのか、マイクを通しても聞き取れるくらいの発音と、自然に長時間声を維持できた。一時間ほど喋り続けても、一度も声が崩れなかった。
そうこうしていると時間は過ぎ、最終下校時刻十五分前になった。練習を終わりにして帰ろうと動き始めると、蒼は茜音に、必ず訊くことがある。コンクールの練習について。茜音は決まってこう返してきた。
「平気平気。文化祭、当日参加できないから、出来ることは全部やりたいの」
晴斗の言葉が思い返され、つい、今日もしつこく問いただす。
「ほ、ほんとに大丈夫?」
「平気だって。心配性だなあ、月待君は」
ほら、今もなんだかいつもより疲れていそうじゃないか。もっと他意がありそうじゃないか。
言いたいのをぐっとこらえる。これが正しいのだろうか。分からない。
蒼がそうするうちに茜音はまた、立ち上がって帰ろうとしている。引き止めるなら、今が最後。
明日も、明後日も、多分来ない。そのあとは土日が挟まって、残り三日。つまり、茜音のコンクールまでも、あと三日、四日。そんな状況で彼女が学校に来れるのだろうか。
いいや。人が干渉すべきことではない。相談してくれるなら乗るけれど、それ以上をする権利なんてあるものか。
『あいつが駄目になっちまう。だから、月待に頼む』
でも、頼まれて、引き受けてしまった。引き受けたからには相応の働きをしないといけない。
自分が話しかけず、もしそのせいで茜音が壊れてしまったら。人は存外、自分の思っている以上に脆いのだ。
考えるだけで胸のあたりがぎゅっとして、振動が早まった。
「……あの、……あの!」
もっと声張れえ! と蒼は内心で自分を叱咤した。
「……どうしたの?」
振り返った姿に笑顔はなかった。大きな目を見開いて、驚きと戸惑いをないまぜにしたものがあるだけだった。
視線の先にいるのは蒼。当然だ。当然なのだが。
「だ、大丈夫じゃ、ないと、思う」
涙の滲んだ声。目が湿っている。半泣きだ。
これ以上は聞けない。限界を決めていたのは、多分関わりすぎるのが怖いから。もし自分が元親友のようなことをしてしまったら。
全然だった。克服なんかできてなかった。
僕はまだ、ボロボロで弱い、中学の頃のままなんだ。
『大丈夫ならね、人はそんな顔をしないんだよ」
かつて、母が言ってくれた言葉だ。確か、元親友から告白されて、二日後くらい。
「……、……正直ね」
溶けるように優しい声音に、つられて泣きそうになって、茜音はかえって笑ってみせる。
「正直、最近なんか怠いよ。辛い、っていう言葉が合ってるか分かんないけど、そんな感じだよ。でも、……でも、そんなこと言うのなんて、単なる迷惑にしかなんないでしょ? 漠然とした苦しさが具体的になって、余計苦しくなるだけだよ」
茜音らしくない、鋭い言葉だと思う。ただ、目の前にいる月雪茜音というラベルを貼られた人間には、とても似合って聞こえた。
蒼にはそう思われた。今までの人生で培われた言葉には比例した重さがあって、ゆえに蒼には崩せなかった。
「月雪さんがそういうなら、月雪さんにとってはそうかもしれない、けど……」
「ごめんね。帰ってピアノ弾かなきゃ」
言い切って、ぱたんと音楽室の扉を閉じた。
虚しく響いた。




