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憧れになりたい

 蒼がまず買ったのはウィッグである。両親に内緒で、一種類のウィッグを買った。費用は、使わないためか、貯まっていたお小遣いから。

 買ったのは地毛に近い色の、つまりは黒髪の、肩程までの長さのウィッグ。

「ほわあ……!」

 そんな妙な声を出しながら、壊れやすい宝石を扱うようにそっと、ウィッグを手に取った。星が光を受けて淡く光を発するように、蒼の瞳にはじんわりと白い光が浮かんでいた。キラキラと輝く茜色をウィッグに向ける。

 蒼の舌に、砂糖菓子を口の中で溶かすような甘くて柔らかいものが広がっていく。

 おっかなびっくり、つけてみる。

 ドキドキしながら鏡を見てみる――。

 口をへの字に曲げ、じとりとする。

「……なんか、変」

 ということで、その次の日に、女物の洋服を買いに行った。緩めのパーカー。フードと一部が水色で、それ以外のベースは黒色の物だ。下はこれまたぶかっとした、くるぶしまでしっかり隠れるズボン。ライトブルーにした。ズボンにしたのは、まあ、スカートはまだちょっと怖いので。それと一つ、キャップも買った。白色の目深に被れる物。

 あとは――。

 好きなことを考えるのは楽しい。

 そして、次の日、そのまた次の日、と日を追うごとに小物を増やしていった。イヤリング、靴下、水で剥がれるネイル。指輪に、色味が可愛らしいバッグ。それらは部屋に鍵が掛かっていることを充分に確認された後で、蒼の身につけられた。

 鏡と向かい合うたびに理想へ近づいている気がする。

 蒼は満足げにふわふわと頬を緩める。抑えようとしても、中々抑えられない。

 時間が来ると、それらは両親が絶対に見ないであろう押入れの奥の奥に入れられる。小物は買ったケースの中へ。ケースはバッグの中へ。服は洗濯なしでは汚いので、たまにわざわざコインランドリーやクリーニング屋に足を運び、洗濯してもらったりする。

 そうして、一ヶ月程経った。

 五月になり、クラスにも少しは適応できるようになった。同時に、だんだんと暑くなってくる。GWも、蒼はかわいくなるために費やした。なんなら友人関係も僅かだが距離ができたような。

 とにかく、そんな苦労を経て出来上がった『彼女』はそれなりの出来だった。

風鈴のように透き通り、光彩を持つ瞳を細める。蜂蜜を舐めたように口元が綻ぶ。鏡は着飾った蒼を映し出す。

 部屋には誰も入ってこない。楽園みたいだ。

 でもそれじゃあ、少しだけ味気なくなってきた。ウィッグを外してしまえば、いつもとあまり変わりがない。洋服は多少サイズが小さかったり、作りが違うことはあっても、ロリータのような甘くて可愛い服ではない。化粧をしているわけでも、ましてや身体が変わるということもない。

 今のままではいけない。……月雪茜音のように、蒼はなりたい。あわよくば、かわいいと言ってもらいたい。せめて、外に出るくらいは出来なければならない。堂々と。そのためには化粧品を使いたい。それにスカートも履きたい。なにか、行動したい。そうしないと自分を保てない気すらしてくる。これが高校デビューだろうか、とずれたことを蒼は考えた。

 死活問題。ところが、蒼に外出する勇気も、化粧品を部屋に持ち込む度胸もなかった。

 これで、出来ることは終わりか。

 随分あっさり、希望はしぼんでいった。

 しかし変わらず学校は来る。行ってきます、と楽しそうに言ってみせ、蒼は重い扉を開けた。

「あ、月待君。おはよう!」

茜音が明るく挨拶をしてくれる。蒼が席に着いた直後だ。彼女とは席替えが済んだ後も近く、どころか隣の席である。

「お、おはようございます」

 茜音は、緊張した面持ちでいる蒼に気さくに話しかけてくれる。

 今も絶え間なく唇を動かしている。視線があちこちに飛び、しょっちゅう嬉し気な声を出す。爽やかで少し冷えた晴れやかな声は、耳にすっと馴染む。

 ……かわいい。

 蒼はむっと眉を寄せ、少し羨ましそうな目を向けてみる。……気づかれなかった。

「月待君、なんかいつもと違う?」

「え?」

 喉の奥からかろうじて出た声に茜音は反応しなかった。

「なにかあったの? もし言いたくないなら言わなくてもいいんだけど」

 深い青色の瞳が真っすぐと蒼を見た。照れくさくなって目を逸らし、弱弱しいながらも、蒼は口を開いた。そうさせるだけの力が、彼女にはあった。

「……じ、実は。あの、えと、どうしても、やらなきゃいけないこと? いや……やりたいこと? が、あって」

 覚束ない蒼の言葉を黙って聞きながら、茜音は蒼に笑みを向けている。

「それで、でも、それをする、勇気が出なくて……。どうしたらいいか、分からなくて」

「そっか。うん」

 独り言のように呟いて、目を逸らす。考えるように窓に目を向ける。曇り空。それから、言いたいことがまとまったのか、蒼と目を合わせて話し始めた。

「月待君が何に悩んでるかは分からないけどね。この世に取り返しのつかないことって意外と少ないから、一度やってみてもいいんじゃないかな」

 軽くも重くもない、静かであっけらかんとした様子で人差し指を立てた。恰好つけのつもりだろうか、ウィンクを決めてみせた。

 ……かわいい。

「まあ、私はそうはできないんだけど。でも、月待君ならできる気がするんだ。……私の勝手な希望なんだけどさ」


 蒼は今、緊張感で頭を真っ白にしている。なぜか茜音の言葉を思い出した。そして、再確認。  

 そうだ、そうだった。月雪さんの言葉が背中を押してくれたように感じたのか、僕は外に出たんだ。女の子の恰好をして。

 蒼が歩いていても、案外誰も変な目を向けてこなかった。つまり、違和感を持たれていない。そのことに安堵しながら、汗でぐっしょり濡れた服を気持ち悪く感じた。心臓はいつもよりよく働く。うるさい。

 人と当たりそうになったり、すれ違うたびにひやりとする。全身から力が抜ける。

 が、『女の子』を通して見た世界は、色づいて見えた。全てにわくわくする。憧れの場に今立っているような心地でいると、嫌な声が聞こえた。

「え、だって彼氏いないんでしょ?」

 高圧的な声だ、と思った。蒼の中学の同級生によく似ている。声の主は、女性の逃げ場を塞ぐように立っている。

 大学生程であろう女性は目を閉じている。女性は、気丈にも笑みを浮かべた。瞼で相手を眺めた。白いワンピースが綺麗だ、なんて場違いなことを蒼は思った。

 周りの人は見て見ぬふりをしていた。ざわざわと、雑談を交わしている。

「今日どこ行くー?」

「あっちで休憩しようよ」

「そういや前に話した先輩がさー」

「あっ! 見て、あれ凄くない?」

「え、それヤバ」

 声の流れに逆らう。反対方向に足を止める。世界でただ一人、静止しているようだ。

 助けられたら、と思う。油断すれば通り過ぎようと動いてしまう足を必死に止めて、何度か深呼吸をした。

 髪の毛は実は男だ、と言い訳出来ないくらいにはある。イヤリングも少し可愛いものだ。女声の出し方は知らない。できない。声を出せば男だとバレる。

 回想。嘲笑。ドン引き。ぐらり。世界が揺れる。視界が歪む。力が抜ける。心がひりつく。恐怖を感じる。笑おうとする。不格好になる。泣き笑いになる。ひそひそ囁く声。視線が痛い。夢にまで見た絶望。

 気づけば力が抜けていた。先ほどまでの僅かな勇気はすっかりしぼんでしまった。

 無理だ、僕にはできない。

 そう思って、ピンと張られた糸を切った。

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