幕引き
蒼にとってぴったり真ん中で、目の前、数メートル離れただけのところで、息が止まったような顔で、ぎこちない動きで小走りしている。
でも蒼はなにもできない。
誰が何か言ったわけではない。
ただ、それが引き金だった。
急くように茜音の足が前に踏み出される。若干、ほんの少しだ。そのミリ程度の違いで、足がもつれ、三人が転んだ。
伊藤が、あ、というように前のめりになる。蒼は気が動転し、目を揺らす。瞬きせず穴が開くほど、正面を視界に写した。
「あれ、大丈夫か?」
三人の身体を案じるような暖かみと鋭さが感じられるつぶやきが騒然に掻き消される。
声の主である黒井は、険相な顔で腕を組んだ。
三人は一言二言話し、すぐさま立ち上がり、走りを再開する。
泣きそうに歪んだ海が、絹糸のような黒髪を被せられ、宝物かがらくたのように沈んでいった。
蒼はそれで、なんでがか分からないが、目がかっと熱くなった。
怪我をしたらしい三人は、走ったあと保健室に直行。一部始終を見届けた人々の間にぬるい空気が流れ込んでくる。
蒼の頭は警鐘を鳴らしていた。どうにかしなければと。
保護者席の方を見た。それから転んだ。つまりそこになにかがあった。普通であれば、保護者だ。でももし、両親のどちらか、はたまた両方いらっしゃるなら、月雪さんはそちらに行く。僕を誘ってなんてくれないはず。途中から来た? けれど、それならどうして月雪さんは……。
『私は、あまり両親が好きではありません。尊敬もしているし、両親が悪いわけではない。けれども、どうしても、苦手意識を覚えます』
夏祭りの時とき、彼女はそう、言ってはいなかったか。
続けて、こうも言っていた。
『なぜなら、彼女たちは空想や馬鹿馬鹿しいことが嫌いであるのです。音楽の解釈も、型に当てはまったものしか信じません。行動もまた、世間体に縛られるのです』
そればかりに気を取られ、茜音達が戻ってくるまで他にまともな返事を返せていなかった。
「つーきーまーちー。次ダンスだぞー」
晴斗に言われ、初めて現実に戻ってきた。
「え。あっ、ああ、ごめん」
落ち込みながら謝る。晴斗は、んなもん気にしなくていいけどな、そろそろ準備しとかないと、と一笑。そっか、良かった、ありがとうと本心百パーセントで蒼は答えた。
無事に体育祭が終わった。結果は白組の勝利。クラブリレーで、演劇部の演目リレーが特別賞を受け取っていた。
頑張りが浮かばれた。蒼はちょっとだらしないくらい頬が緩んでいる。
茜音も、笑みの種類は違うらしいが心から喜んでいるようだった。他の皆もそうだ。クラス、いや白組全体が沸いている。
家に帰り、余韻に浸りながら何気なくリビングに目を向けて、蒼は赤面した。
「おおー。お父さん、相変わらず腕いいわね」
「えっへん!」
ぱちぱちとパソコンを叩きながら、母へ父がドヤ顔を決めた。
「あらまあ純粋な四十代だこと」
いつも通りの会話よりもテレビだ。
仮装リレーで、蒼が走っているところだ。嬉しい。そりゃあ勿論、ある意味堂々とスカートを履けたのだから。
が、それ以上に、恥ずかしい。
似合ってないかもしれないし、そうでなくともハイになっている。なんかこう、漫画やアニメの主人公な感じがしたのだ。どことなく自信ありげな動きになっている、気がする。誰だって深夜テンションで起こした行動をビデオに収められたくはないだろう?
「お、お母さん……。せめて、あの、大画面のテレビで写すのは、やめて……」
文句にならない柔らかい声。
礼儀正しく、靴をそろえ手を洗いうがいをし……と一通りやることを終えてからである。
蒼の声は母の手によって無慈悲にも豆腐のように潰され、母はむっとする蒼をスルーして録画を流し続ける。珍しくにやついている母に父はほくほく顔だ、味方はいない。それだけならまだしも、あろうことかソファの隣をぽんぽんとした。座れ、とのことだ。恥ずかしさがいよいよ天元突破しそうだ。
頬に両手を当てて熱を冷ましながら、渋々母の隣でテレビを見る。
「……あ、黒井君」
「この子、蒼がバトンを渡してた子でしょう? はー、如何にも女子受けしそう。あれよ、スポーツ漫画の主人公のライバルか親友ポジション」
「お母さん、例え分かりづらい」
「蒼はほとんど漫画とかアニメ観ないからなー」
「あ、でもね、友達がそういうの好きだから、知ってることもあるよ」
「そう。お父さんは私の例え、分かる?」
「まあ」
またあるとき、
「あ、村上さん」
「髪が綺麗に金に染まってる! 偏差値高めだとカラフルで素敵ね」
「ああ、そうだな。目もカラコンか。……これ、何色だ?」
「えと、確かピンクだって言ってた気がする」
「なるほどな」
そして、
「……月雪さんだ」
「一緒にお昼食べた子よね。あら、この子もカラコン?」
「えーと、お母さんが東北の人……とかで、多分そこからの遺伝じゃないか、って言ってたから、カラコンじゃないよ」
「よく覚えてるわね」
「え?」
一瞬、言葉が入ってこなかった。意味を理解した途端、言い訳がましくまくし立てた。
「違うよ。なんとなく印象に残っただけで、他意とかないし、たまたまだよ。それに――」
「……何が違うのよ。ただ聞いただけじゃない。必死ねえ。好きなの?」
ものすごい勢いで父が首を回した。……目がガンぎまっていて怖い。
「ち、違うんだよ。ホントのホントに、違うんだよ」
ぶんぶん首を振って激しく否定する。蒼にしては誤魔化しが下手くそだ。演技が趣味なだけはあり、そこそこ上手であったりするのだが。
両親もらしくないとは思ったが、触れずにしてやることにした。母は起伏の少ない声を弾ませ、
「やっぱり蒼はいい反応をするね」
と一言。父は苦笑し、蒼は不満げに軽く睨む。
「もう自分の部屋に行っていいわよ」
ソファから離れてもいいというお許しが出たので、蒼はまだ冷めない頬を押さえ、立ち上がると、
「本当に違うから!」
俯きながら階段を駆け上がった。言っていることも相まって、捨て台詞のようだ。
茜音のことを考える。大丈夫だろうか。体育祭が終われば、いつも通り笑ってくれるだろうか。
それに僕は、付き合いたいという気持ちをどうするのだろう。
こうして、多少の不安材料がありながらも、蒼の体育祭は終わったのである。




