苦しいこと
中学の頃、男女の性差がより感じられるようになった。私服から制服に変わり、何よりも声変わりや成長期がきた。体育では男女が分かれたし、気づいたら皆変わっていった。
女の子は体が曲線を描くように成長し、男の子は体が角ばっていった。手などはその最たる例だと言えるだろう。
自分だけが取り残されていくような気がして、理想からこれ以上離れないでほしいと思って、自分が気持ち悪く感じた。
やだやだ、僕もそっちがいい。女の子の方がいい、って。まあ、体と心が合ってない自分が悪いんだけれど。
それでも蒼は、何とか耐えて、気を使って、時々休んだりしたけど、中学二年までは頑張れた。義務教育というのも大きかった。周りは必ずこの分の勉強をしているのに、蒼だけが出来てないとなれば将来どうなることか……。将来のビジョンが上手くまとまっていないまま、そう考えられたのは両親の説得が大きかった、と今では振り返ることができる。
二年の冬、よく寝る前泣き腫らし、不登校寸前にまでなって、もう限界だったのだろう。
誰かに訴えたくなったのだ。でもネットは怖いから駄目だ。親は話して許容されなければ終わりだ。
誰か人に言うのは諦めて、ずっとノートに書きなぐっていた。寝る前は大体号泣していた。声を殺しきれなかったこともあった。自分の低い声に嫌になった。
そんな時だった。仲の良い親友だと思っていた女の子に、告白された。
蒼は自分が男性として見られていたことにショックを受けた。が、当然なのだ。事実、蒼は男として生きているのだから。
そのショックと、疲れ切った心とが混ざって、堪えきれなくなって、頬を染めていたその子に蒼は全てをぶちまけた。
本当はかわいいものが好きで、女の子なんだと。
体がおかしいだけなんだと。
話していくうちに止まらなくなり、熱が乗って、相手の反応など頭からなくなっていた。
別に女の子に理想は持ってない。そういう損得の問題じゃない。かわいいものが好きだから女の子になりたいんじゃない。男の子がかわいいものが好きでもいいと思ってる。女の子っぽいと呼ばれる服装を着たいわけじゃない。それはただ、僕がそういう服が好きなだけ。僕は、女だ。身体が女の子でさえあれば、なにも文句はない。
女性らしいと思われなくても、
どんな欠点を抱えていても、
かわいいと言われなくても、
かわいがられなくても、
僕は、身体が女の子であってほしい。だって僕は、僕が女の子だと理解しているから。
その前提があると仮定して、僕は、かわいくなりたい。スカートを履くのが好きだ。ふんわりした色の小物が好きだ。お化粧をするのが好きだ。髪を弄るのが好きだ。かわいいものを見るのが好きだ。
かわいいものが好きなのと、自分が女の子であるというのは全く違う。
そういう内容のことを、まくしたてた。今までずっと被っていた袋を切り裂かれ、求めていた呼吸のしやすさにのめり込み、自分自身で切り裂かれたところを広げるような感覚、と言えば伝わるだろうか。
蒼は数十分間そうしていた。その親友の子は終始困り果てたような顔だった。
――ごめん、整理がつかない。
告白してきたその女の子は教室を去っていった。
ぼんやりと歩いていたら、凛香の家に着いた。
借りている合鍵で扉を開き、寝室の洋服を着る。涼しい水色のオーバーサイズのTシャツと真っ白のフレアスカート。いつも通りのウィッグを被って、いつもより気持ち高めに、きつめに、二つ結び。なんとなくこれが一番落ち着くのだ。
何やら真剣な雰囲気の蒼に、凛香から話しかけてくることはなかった。が、蒼は言いたいことがあったので、丸まった背中に声を投げかけた。
「傷ついた人と、傷つけた人が、もう一度仲良くすることは、出来ると思いますか?」
予想と違ったな、というように目が動いた。が、微笑を伴って凛香は言った。
「もし、傷つけた人も、傷つけられた人も、後悔していて、その上で、互いに歩み寄れば、あるいは和解できるのかもしれない」
誠意の感じられる回答。蒼は勇気づけられた。
「ありがとうございます」
優しく背中を押してもらったように感じ、背を向けて凛香の家を出た。
考え事の続きをしながら、蒼はカフェへと迷いなく歩き続けていく。
蒼は後悔した。ああ、あの子は優しいから、秘密を一人で抱え込んでしまうかもしれない、と。自分が引かれるのは構わないが、その親友を傷つけることだけはしたくかった。
杞憂だった。次の日、学校中に知られていたからだ。いや、学校中というのはマイナスの買いかぶりだろうか。
登校してすぐ、奇異の視線にさらされた。その時の蒼は、自分のことが噂になっていることなど知る由もないので、意味不明な視線に不安を覚えた。
教室について異変に気付いた。蒼にとってはドラマやアニメだけの出来事であった。悲しいことに他人事でしかなかった。いや、それはいいことだったのかもしれない。周りが悪意で満ちていなかったということだったのだから。
蒼の机が暴言で埋め尽くされていた。
理解を拒んだ脳が、視覚情報に押し負け現実を直視する。
マリオネットのようにぎこちない動きで着席し、気にしないように準備をする。今日使う教科書やノートを出来るだけ詰め込んで、入りきらない分は鞄にしまってロッカーへ。
蒼は青ざめ切っていた。
先生にいじめの証拠として提示するという方法を取ることを忘れ、自分の雑巾を、設置されていた消毒液に浸し、油性のマーカーペンで書かれた言葉を一文字一文字ごしごしこすって拭きとった。
先生が来る頃にはもう、綺麗さっぱり消えていた。
一時間目の休み時間、人目を避けていると告白された空き教室に着いた。
「あっ。あの、蒼君!」
声がかかった。蒼が、親友だと思っていた子だ。
「ごっ、ごめんなさい。あの、少しおしゃべりが好きな子にね、蒼君のこと、相談しちゃったの、本当にごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。その声が、今になっても忘れられない。
もはや彼女を親友だとは思えなかった。友達だとも思いたくない。
だって、蒼はその子を傷つけた。その子は何も悪くない。不安になって相談してしまうのも、良くはないだろうが、誰だってやってしまう失敗である。
蒼が悪いかと言えばそうでもないだろうし、傷つけられたのも確かだろうが。
「……」
分かっているのに喉を過ぎようとする恨み言を寸前で止める。ごめん。僕のせいだ。気にしないで。言いたかったのだが、それをいうと余計なことまでいってしまいそうだ。深呼吸をして、
「うん」
かろうじてそれだけして、すれ違った。
その日、蒼は早退した。
家に帰っても声でひりつく。心がじんじんとしてきて意識はそれにかかりきりになった。
声が頭から出ようと暴れるように痛い。部屋でベッドに横になりながら頭を抱えた。
浴びせられた言葉の数々を思い返すと、死んでしまいたくなった。
頭のどこかでは分かっていたのに、女としての自分を全否定されるのが、とても苦しかった。
いや、現在進行形かもしれない。樋口のとき、まだ笑って誤魔化せなかったのだから。
蒼はそんな思いをしても、数日耐えた。それ以上耐えて、今なお足掻いている人もいるだろうが、蒼にとって数日が限界のラインだった。親友を失い、今までの人間関係を失い、人としての尊厳を壊され、身分知らずの女のプライドが壊れ、学校という世界すらも地獄になった。
木曜日、蒼はうなされながら目覚め、時計を見て、遅刻ギリギリであることを知ると、寝返りを打ってうつ伏せになった。
嫌だ。もうあの地獄になんか行きたくない。枕がべちょべちょに濡れていく。顔がぐちゃぐちゃになって、近くの棚の上からティッシュをつかみ取って鼻をかんだ。
眼球が熱い。熱すぎて、表面が焼き切れるかと思った。そんな感覚がした。行かなければと思うほど涙が溢れだしてくる。でも、行きたくないんだというように。
ベッドは扉を開いて左側の壁にぴったりくっついている。必然的に、背の低い棚――ティッシュケースとスマホを置いている――はベッドで寝ている蒼にとって左側になる。
そんな置きづらい位置にある棚に、しかも左手で、使ったティッシュをそっと落とした。背が低い棚でよかった、なんて場違いな考えが頭をよぎる。
それから危うい手つきでスマホを取ると、母に体調が悪いから休むと打ち込み、ボタンに指を滑らせた。それだけすると、力を抜いて体をベッドに転がした。
そこからずるずる休み続けた。数か月が経ち、冬休みに入った。つまりはクリスマスである。
華やいではしゃいだ街をカーテンからそっと覗くと、蒼は母へ会いにリビングへと降りた。
「……蒼。調子はどう?」
穏やかな母の声に、蒼は合わせようとして、やめた。不自然に震えている目と口は、母にどう映っただろうか。
「お母さん、僕、……」
言おうと決心した。このままでは自分が腐っていくだけだ。
なのに、言葉が上手く浮かばない。
「……、えと、あの、」
「ゆっくりでいいの。どうしたの?」
優しい響きに、蒼はボロボロと泣いた。ここ最近、泣いてばかりいる。
数分経ち、はきはき喋れるようになると、
「僕、学校で、いじめ? いや、違うかもしれないけど、あって。それで、えと」
「どんなことされた?」
「……えと、机に落書きされたり、靴箱の中にゴミが入ってたり」
たったそれだけだ。しかし母は、
「そっか。よく頑張ったね」
頭を撫でられた。心の底からほっとして、また涙腺が緩んだ。
「蒼はこれからどうしたい?」
「……もう学校、行きたくない」
「んー、それじゃあ、お父さんと相談になるけど、フリースクールとかってことかな」
「あ、でもね、高校は行きたいところ、決まってて」
「じゃあ、高校は受験しよう。卒業するまでは学校行かないようにしよう。それでいい?」
「うん」
わがままじゃないのかな、自分だけ。蒼は頷いたが、少し疑問に思った。
その後、いじめの直接的な理由は蒼自身が言いたくなさそうだったので、特に深くは追及されなかった。ただ、元親友の子が悪いのは私だと言ったため問題はなかった。




