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水に焼け石

 人気を避けるように走っていく蒼に、周りは奇異の目を向けた。

 蒼はそれが嫌で苦しくて、ともすれば周りに合わせる動きをするように思うのだが、足を止めることも、涙をせき止めることも叶わなかった。

 手の動きに足が追いつかず、すっ転びそうに体勢を崩すが、それも足を動かし続ければ持ち直せた。どこへ向かうかも考えず、ひたすら走り続け、祭りの灯りから外れ、人の目から逃げ、息も切れるほど長い時間全力で走って、そうしてやっと、蒼はその場に座り込んだ。一気に疲労が襲いかかり、心臓がドクドクと高鳴る。

 泣きたいからなのか、呼吸が乱れたからなのか、肩が勝手に上下する。

 いつの間にか夏祭り会場の近くにある湖まで来ていた。皆ここにはいない。遠くにいくつか人影はあるが、涙など視認できないだろう。

 なにをやっているんだろう。ほんとに、なにやってんだろ。苦しい。痛い。辛い。辛い。なんで僕はこんなんなんだ。

 毒つきのナイフで傷口を突き刺すと、幾分か頭が冷えた。

 するべきは自己嫌悪ではなく、反省だ。猛省だ。自己嫌悪で改善することなどない。せいぜい自分が気持ちよくなるだけのものだ。

 何が悪かったのだろう。まずはそこから洗いださなければ。

 一つ目は、今ここにいること。今すぐにでも戻るべきだ。戻るべきなのに、焦燥感が海に沈んでいくように、体が動かない。

 いや、それより前にもある。本来、蒼は夏祭りに来るべきではなかった。それが二つ目だ。楽しめないのは分かり切っていいたはずなのだ。家で気持ちが安定していないのに、今楽しめるわけがない。

 そして三つ目。先にあげた二つも、これがなければ存在すらしていない――そう、樋口に会うことさえしなければ。頼られた時点で断るでもいい。樋口と出会わなくたっていい。凛香に会って、そこで試着を断るでもいい。とにかく、蒼は自惚れてはならなかった。簡単にかわいいと、認めてもらえると思うことこそが最大の間違いだった。

 なんだ。冷静に考えてみれば、蒼が十割悪いではないか。

 その事実を受け止める。ああそうだ。自分を女の子であるなんてことをいうことが間違いなのだ。

 間違いは、正さなくてはならない。正すためにすべき行動も、頭に具体的な策として浮かんでくる。

 ……できない。

 想像して、はっきり思ってしまった。中学のころに、諦めたと思っていた。傷ついて初めて思い知っただろうと。それは高校に上がってあっさりひっくり返された。茜音と出会って。勇気を持ったら、凛香と出会った。蒼は認められて、嬉しかった。樋口と出会って、意気投合して、傷つき、傷つけられた。

 それでもまだ、諦めきれない。抱え込んでも辛いけれど、それすら蒼はどうでもよかった。

 その次元の問題では、なかった。

 しつこいくらいの再確認をした。答えはいつだって同じだった。

 じゃあ僕はもう、どうしようもないじゃないか。

 諦めきれないなら、悪びれもしない嫌な奴だ。樋口を、今日楽しんでいた皆を傷つけて、反省の一つもしないなんてとんだ不届き者だ。

 そのとき。

「ちょと……ま、て」

 息を切らせ、せき込みながら茜音が駆けてくる。

 青い瞳が真っすぐ蒼を射貫く。

 着物を邪魔そうにして、足を動かしている。片足は下駄が脱げていて、右手で雑に掴んでいる。

 たわめくように乱れた黒髪が、闇夜に染まりつつある空に溶けていく。

 いつもは笑みを縁取る唇が、大きく開いている。

 その姿に、蒼は月光を感じた。静かに冷たく漂う月の光……。

 蒼にとってはまさに、蜘蛛の糸だった。

 かわいくて、綺麗だ。

 羨ましくて、ドキドキして、顔を見ると自分との落差で悲しくなるのに、もっと顔を見ていたい。

 ほのかに顔が火照った様な気がした。場違いな考えだった。きっと、涙のせいだと思う。

「よか、た。いた。……ちょ、と、話したい事、あるから……はあ、はあ。疲れたっ」

 蒼の隣に腰を下ろして、蒼と同じ景色を目に映した。どこもかしこも赤くなった蒼に、儚い手つきでハンカチを渡してくれた。ありがたく受け取り、目に押し当てる。

 ちら、と蒼が茜音の横顔を覗く。

 平井の家に行く途中の顔に似ていた。勉強会が始まって、終わり、その後樋口のことで心が揺れても、脳に張り付いていた記憶。

 それと同じ顔を今、蒼の隣で、している。感情がないようなのに、笑みはぶれない。顔の整い具合も合わさって、まるで人形の様な顔。

 ごめんなさい。蒼は擦れた声で、意味もなく謝った。

「……私は、」

 それきり、茜音は息が詰まるように口を噤んだ。夏とはいえ、寒くなってきた風が水面を歪ませた。緩く音がなる。静けさが戻る。その繰り返しを眺め続け、やがて覚悟を決めたように再び口を開いた。

「私は、あまり両親が好きではありません。尊敬もしているし、両親が悪いわけではない。けれども、どうしても、苦手意識を覚えます」

 小説のプロローグのモノローグを語るような、整った声だった。

「なぜなら、彼女たちは空想や馬鹿馬鹿しいことが嫌いであるのです。音楽の解釈も、型に当てはまったものしか信じません。行動もまた、世間体に縛られるのです――」

 すると、悪戯っぽく口角を上げた。

「なんて、話してみたんだけど」

「え?」

 どこまでも深い瞳に目を合わせられ、蒼は動揺する。

「悩みとか不満とか、先に言った方が話しやすくなるかなって」

 細い手が袖から顔を出し、ぎゅっと左の袖を握りこむ。

「どうすれば、貴方は笑顔になってくれるのかな。いや、どうすれば、貴方は夏祭りを楽しんでくれるかな」

 唇が揺れた。

「えへへ。私、分かんないや。だから、言ってくれないと……。あ、ごめん。これは違うかな。えーと、えーと」

 オルゴールがゆっくり回るような穏やかさで、目を細めながら考えていた。

 蒼の為に、言葉を考え込んでいる。

 申し訳ないはずなのに、どこまでも、嬉しさを感じた。

「……言ってくれたら、私は、私が出来ることならやるよ。うん。これかな。やっと納得のいく言葉が出た。言葉って難しいね。それで、どうかな? 私に出来ること、話せること、ある?」

 からからした顔に、蒼は何も言えず、視線を彷徨わせた。大丈夫、と強がるのは茜音に対してあまりに失礼な気がした。が、吐き出すには、抱えているものが尖りすぎている。

 相手にそれを持たせれば、手も、心も傷ついてしまう。

 だったら、僕が一人で血を流し続ける方がいいに決まってる。

 そう思ったら、蒼は無言になるしかなかった。茜音は唇を引き結んだ蒼の顔で察したのか、そっかと壊れたようににこりとし、

「じゃあいっそ、……」

 高そうな髪飾りを引っ張り、外れたそれを投げ出そうと腕を振り、

「おいしょっと――」

 彼女の動きは途中で止まり、髪飾りは丁寧に、細い腕にかけられた袋に入れられた。

 茜音は悔しそうに、震えている手を睨んでいた。

「いてて。髪、何本か抜けたかなー? まあいいや。髪飾りを捨てることは、私には出来なかったということで。……貴方がこれを望んでないのは、分かるなあ。どんなことをしてほしいか、言ってくれると嬉しいな。毛を失った私は無敵だぞーなんて。あはは。敵しかいないように感じるんだけど」

 流れるように冷たい声を出した。本人もそのつもりはなかったのか、

「あ、えと。違うからね。なんか声、おかしくなっちゃって。低く感じたかもしれない」

と言い訳をした。

 蒼は心臓がきゅっと縮んだような気がして、取り繕ったような笑顔をどうにかしたくなった。どうしてか、茜音を心からの笑みにさせたくて、考えて、考えて、考えたのに、出せたのはどこにも転がっているような言葉だけだった。ついでに、誰かが蹴った小石のように汚れている。

「あの、僕も、僕もね、味方の人を敵だと感じちゃう、んです。それで、勝手にダメになって潰れちゃいます。えっと、だから……じゃなくて、……うーんと、えと、…………元気になってほしいです。あ、いえ、えーっと、自然に笑ってくれたら、……嬉しさが溢れて笑顔になってくれたら?僕は、嬉しいと思います。え、えとえと、……」

 続きが思いつかず、もごもごと口がすぼんでいく。

 言い訳じみた笑みがとろけて、活力が宿った笑みになった。

 ピアノを弾いているときのように、しっとりと微笑んだ。

「ありがとう」

 一文字一文字味わうように舌を回した。先程より強く笑んで、

「私が助けられちゃったな」

 心臓が止まったような気がした。嫉妬と、他の感情が混じって、心臓の音が大きくなった。また、頬が火照った気がする。なぜだか無性に恥ずかしくなる。

 僕の心はぐちゃぐちゃにかき回された。

「もう、大丈夫です。ちょっと、整理できたんです。……月雪さんの、お陰です。ありがとう」

 固まりつつある決意をそのまま固め、泣き腫らした目とすっかり涙の滲んだ声とで笑った。

「そっか。えーと、戻れる?」

「……ごめんなさい。楽しめる自信がないです」

 じわじわと虚しさが沸いてきて、蒼はスマホを持った茜音から目を逸らした。

 どれだけ優しくしてもらっても、蒼は何も返せないのだ。

 怖い。そうだ、人が怖い。どれだけ優しくたって、僕を言えば気持ち悪いと叫ばれるかもしれない。

 今の関係が崩れる、それだけでも辛いものがあるのだが、さらにせっかく馴染んできて、傷もなんとか癒えてきたのに、また高校で誰かに噂され、軽蔑されたくないのは当たり前だ。

 絶対に人に言えない。言いたくない。月雪さんも、分からない。もし女の子になりたい、と言ったとしたら、どんな反応をするのだろう。冷めた目で見られるのだろうか、引かれるのだろうか。

 蒼は、自分の本心を曝け出して、それを否定されるのが怖くてたまらないのだ。

 本心を知られた結果、それを否定され、人格すらも否定対象に含められ、自分の世界の大半を形成する人間関係を壊されるとしたら、怖いのは誰だって同じだろう。たった一日で事足りるとすれば、もっと。

 そうこうしているうち、茜音はスマホを着物の中にしまい込んだ。

「平井君に連絡しといたから、気にしなくていいよ」

「……あ、ありがとうございます。えと、月雪さんは?」  

「私もここにいるよ」

「えっ。すみま……ありがとうございます」

 沈黙が訪れた。茜音は静かに前を向いていた。時折手で着物の裾を遊んだりする。

 蒼は茜音の表情と髪をチラチラ目で追った。

 風が吹く音がするだけの状況にも慣れてきたころ、不意に茜音が声を出し、空気を震わせた。

「そろそろ花火が打ちあがるころだね」

 鼓膜に伝わる響きに、蒼は少しびくりとした。

「え、あ、そうですね」

 夏祭りの最中に花火大会があるのだ。平井がスケジュール的にそれぞれ別の日に集まるのは無理そうだと判断し、探してきてくれた。

「こっちに穴場があるんだって。平井君に教えてもらったんだ」

 茜音は元気に立ち上がると、躊躇いなく蒼の手を引いて歩き出した。

 それに触発されたように蒼も歩き始める。

「どこに行くんですか?」

「んー、それは秘密」

 黙々と歩く茜音に合わせ、蒼も自然と黙るようになる。元々口下手なので、尚更黙るという選択がしやすかった。

 頭が空っぽになると、五感の方に意識が行く。

 月雪さんの手、柔らかいな。ほっそりしてて白くて、綺麗だなあ。僕もこういう手がいいなあ。間違ってもこんなごつい手じゃなくて。

 茜音の手の暖かさに、蒼は変な気分になる。

心臓がまた、ドキリとした。

 蒼の前を行く背は、華奢で浴衣が良く似合っていた。

 随分長く歩いていたようにも、数分だけだったようにも感じる。

「着いた!」

 それが合図のように、どちらからともなく手を離した。汗がじっとり浮いていた。

 茜音が目指していたのは丘だった。街が一望できる高さである。屋台などから漏れ出す光や、そこら中にある街灯が美しく夜景を彩り、華やかにしていた。

 今まであの中にいたのだ、と考えると感慨深いようなそうでもないような微妙な心地がした。

「もうすぐだね」

 一切の抵抗なく地べたに座る。蒼は茜音の隣でそっとしゃがんだ。それから体育座りをしてみる。

 美麗だった。花火が咲き始めると、二人は視線を交わすことなく花火に目を奪われていった。十五分足らずですっかりくすんだ青空を、花火は鮮やかに彩っては一瞬で消えていく。跡形もなく散ったかと思えば、新たな花火が花開く。暴力的ともいえるほどの音が鼓膜をつんざいた。感嘆の息すらその音に掻き消される。

 蒼は茜色に花火の光を透かす。花火と茜音の言葉で、心がじんわりと暖かくなっていく感覚がした。

 固まりつつあった決意が完全に固まり、二つの熱によって具体的な形へと変貌を遂げていた。

 蒼は、樋口にもう一度会い、謝ることを決めた。関わらないでほしいのかもしれないし、謝るのだって傍迷惑な自己満足のためのものかもしれない。

 もっと、嫌われるかもしれない。謝ることが必ずしもいいことだとは限らない。

 けれど、蒼は謝るという決断をした。どんな態度でもいい。傷つけたのだから、報いを受けるべきだ、と。

 火薬煙の匂いが残り、夏の暑さがねっとりと絡まるような夜だった。

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