お勉強会その一
少々憂鬱な帰省も終わり、八月中旬。何度も繰り返し場所を確認する。一週間ほど前、まだ一学期の頃渡されたメモ。ほどほどに丁寧な字で日付と場所が記されてある。住所をスマホで検索すれば、きちんとその家に着ける。
持ち物は、勉強道具と宿題、手土産。それらが入っているバッグを肩にかけ、スマホを手に持ったら準備は万端だ。メモはポケットにある。
玄関近くの帽子掛けから蒼色のキャップを取り、被る。スマホのホーム画面は十時二十二分と表示している。
行くか。
手に汗を滲ませて、リビングに向かって叫んだ。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃーい!」
母の元気な声に勇気をもらい、震える手で扉を押し開けた。
集まるメンバーの中で集まることができ、尚且つどのメンバーからも遠すぎない位置にある。その条件で選ばれたのは、蒼がよく話したことがない人の家だった。
参加者は、未空と空良。晴斗と茜音に、学級委員の黒井。今回家を貸してくれる平井。茜音の友達である、伊藤と村上。+蒼。計九人。
――冷静に考えるとおかしいなあって。僕、人見知りなんだけどな。
知り合いは四人。……意外といる。改めて考えてみると、中学から一気に成長した気がする。一昨日も樋口と連絡先交換してたりする。凛香と知り合うことになったきっかけも、蒼自身が作ったのだ。
高校になって劇的に性格が変わるなんてことはない。ないから、不可解だ。なぜここまで頑張れるのだろう。蒼は考える。でも、よく分からない。ただ、入学式のあの日。茜音を見て、話した、その瞬間、蒼は強烈な憧れを抱いたように、思うのだ。
茜音の言葉一つ、仕草一つ、そのどれもが蒼には信じられないほど綺麗で、凄いな、なんて感想を漏らすくらい、凄いと思った。
他の人と同じなのか違うのか。蒼にとってそれはさほど重要なことではない。蒼が茜音に憧れた。それ以上でも、以下でもないのだから。
たとえば、挨拶を返してくれる。たとえば、休み時間に話しかけてくれる。大きな出来事なんてない。でも、憧れる。
だから、今も歩いてる。
月雪さんに感謝しよう、と蒼は思った。
「……月雪さん?」
交差点で赤信号を待っているとき。ふと隣を見やると、茜音がいた。
「え? ……ああ、月待君! ごめん、気づかなかったー。って、あの、どうしたの?」
驚きを笑みに変えた茜音の視線の先。蒼はガチガチに固まっている。まるで氷のようだ。
今まさに貴方のことを考えてました、とは言えず、上手い誤魔化し方も思いつかず、苦笑いでお茶を濁した。
「あ、青になった。蒼色、ってあの信号みたいな感じ?」
歩き出した茜音につられるように蒼は動いた。
「蒼色は、このキャップの色です」
「あー、てことはもうちょっと青味ある?」
「はい、多分」
「ふうん」
睫毛の影が、青色の瞳に深みを持たせた。宝石よりももっと多様な色を見せる瞳。それが細められる。微かに浮かぶ笑みが、いつもより人形めいていた。初めて見た時のような。
「……月雪さん?」
「え? あ、うん。どうしたの?」
にこりと笑って向けられる顔は、先程までの印象とは違い、かわいらしく感じる。
「大丈夫……あ、いえ。違います。えーと、その、……えと、あの、……無理してなくても、かわいいです!」
何を言っているんだろう、僕は。冷めたところで思って、……思いながら、蒼の口は動く。
「あの、無理してるように、見えたので」
「そうかな」
ひやりとした刺激。無表情に近くなった顔は、温度がない。肌の白さも相まって、まるで死人だ。
ああ、この人も、悩みがあるのか。と、そんな当たり前のことを思った。羨ましくて凄い人から、羨ましくて凄い子、になった。
「んー。少し悩んでで嫌気刺してたんだけど。月待君のおかげで前向きな気持ちになれた。ありがとう!」
笑いかける茜音の姿に、先程までの冷たい陰った様子は一片も見られなかった。
「あ、えと、……はい」
それを見てしまうと、蒼は何も言えなくなりそう答えるほかなかった。
「もう少しだね。がんばろー!」
蒼はそこで初めて、服装に目を向けた。水色のシャツに、ふくらはぎまである黒色のスカート。髪と目の色によく合っている。
「あ、見て!」
茜音が話しかけてくれるので、蒼はそれに合わせる。が、頭は先程の無表情が焼き付いて離れない。
その状況は目的地に着くまで十分ほど続いた。
茜音がインターホンを押すと、聞いたことはあるような声がした。
「あれ、月待も一緒?」
扉が開いて、平井が言った。
「そう。交差点で合流して」
いつも通りの顔で茜音が入ろうとする。
「ああ、ごめん。暑いよね。二人とも、いらっしゃい」
玄関には靴が六足。高校生くらいのサイズだけなので、恐らく両親の靴は靴箱か、現在使用中かのどちらかだろう。
靴を揃えて置くと、手洗い場を案内される。平井はお茶入れてくるわ、といって場を離れた。蒼が茜音に先を譲るように下がっていると、彼女はありがとうと笑って使ってくれた。茜音がリビングへ向かうと同時に手をさっと洗う。ポケットからハンカチを取り出して拭く。洗面所を後にして、リビングらしきところへ足を運ぶ。
お茶を二人分持ってきてくれた平井が、リビングのテーブルにそれを置いていた。どうやら既に晴斗以外は揃っているらしい。
未空はソファに座り、同じくソファに座った知らない女の子の隣で文房具紹介をしている。反対隣の空良は我関せずでもくもくと勉強を進めている。これまた蒼が知らない女の子が、知らない女の子の方のソファの壁にもたれてスマホをいじっている。
ソファの反対側では学級委員の黒井が勉強しているかと思いきや漫画を読んでいる。右に一人、左に二人分の空いたスペースがある。空いたスペースの隣で、茜音は未空の隣に座っていない方の女子に勉強を教えようと四苦八苦。平井は立っているため、テーブルを囲った輪から外れている。
どこに座っていいのか分からず、突っ立っていると、茜音が振り返って手招きした。
「私の右、空いてるよ!」
座らせてもらい、バッグから勉強道具を取り出す。
テーブルはなかなかの惨状である。筆箱が散らかって、教科書や参考書が所狭しと並んでいる。いや、並んではないか。散らばっている。
ゆえに、蒼が道具を置くところがない。
「……伊藤ちゃーん、かむー、道具どけてー」
茜音が呆れたように道具をどけ始める。
「え、お姉ちゃんちょっと待ってよー」
言った女子は、ここでやっとスマホから目を離した。
……月雪さん、一人っ子だよね。
蒼が内心首を傾げながら、空いた空間に道具を広げる。
「月雪さん、ありがとう」
「え? うん。どーいたしまして!」
その瞬間、大きな声が降ってきた。
「でね! これがまたかわいくてー」
「うんうんっ。分かる分かる!」
「未空、うるさい」
一方では、
「…………ふははっ!」
蒼は平井の反応を見ようと、振り返った。
虚無の目だった。
「これもう収拾つかないじゃあん。早く晴斗君来いよー」
見なかったふりをして、蒼は課題に取り組み始めた。茜音も元のように女子と向き合った。
事態が変わったのは、早かった。晴斗がまもなく到着したからである。うるさすぎて玄関まで届いていたらしい。
「お邪魔しまー……うるせえ!」
第一声がそれだった。手を洗うと、全員を一瞬で黙らせた。
「黒井はもう俺に漫画返せっ! 空良も文句だけじゃなくて行動を起こしてくれよ! んで村上! お前友達に会いに来たのに一生スマホ見てんじゃねえ!」
見事だった。本当に見事だった。蒼は強い感心を覚えながら、うっすら拍手したくらいだ。
「晴斗君、これお茶」
「お、サンキュー」
平井からお茶を受け取り、晴斗は蒼の隣に腰を下ろした。
「で、お前ら課題どこまで進んだの?」
「僕は四割」
黒井が答える。
「……九割」
空良は少しドヤ顔だ。
「伊藤ちゃんも私も、ほとんど終わってないよー」
未空はもなぜか誇らしげだ。おそらく伊藤であろう、ソファに腰掛けた女子が恥じ入るように目を伏せる。
「私は終わったよー」
茜音は自信満々な顔。
「あー、アタシはまだゼロ」
村上であろうスマホをいじっていた女子が言った。
「僕は七割終わってます」
蒼は呟いた。
「僕も七割くらいかなー」
平井が一番奥の空いたスペースに座り込んだ。
「平井と茜音と月待と空良はいいとしても……他何やってたんだよお……。勉強しようぜ?」
「いや……お前遅刻しただろ」
そーだそーだ、と空良に黒井が同調する。
「しょうがないだろ! いきなりみさ……姉にお使い頼まれたんだから!」
「あー、それは仕方ない」
平井が晴斗の味方をした。
「だって、お姉さん、目が見えなくて不便でしょ? うん。まあ今から勉強しよう」
「アタシ今お姉ちゃんに教えてもらってるからー」
村上が言うと、茜音が呆れ笑いをしつつ、教えるのを再開した。
「未空と伊藤は空良に教えてもらえ」
晴斗が勉強道具を鞄から取り出す。空良は怠そうに、
「はーい」
未空と伊藤も勉強し始めた。
「で、平井と黒井と俺は月待に教えてもらう!」
「……へ」
本題だ、とばかりに声を弾ませて蒼の方を見る。蒼はたじろぎながら、シャープペンを握りなおした。
「えと、じゃあ、どれからやりますか」
「僕はここがよく分からなくて……」
平井が申し訳なさそうに眉を寄せる。
「あ、はい。ここは教科書のここで……」
「はえー」
納得したように参考書と向き合い始めた。
「月待君ありがとう!」
「僕とー」
「俺はぜーんぶ分かんなーい」
黒井と晴斗が揃って全教科の課題が積み上げられたところを指さした。
どうやって今の高校に入ったのか、なぜ入れたのか、いやなぜ目指したのか、理解に苦しむ。
「じゃあ、まずは中学の復習から始めた方がいいと思います。えと、中学の問題集とか持ってますか?」
「ごめん。持ってきてねーわ」
晴斗が顔色を曇らせると、黒井も同意を示すように頷いた。
「まあ、そうですよね。えーと、なら、ネットから解説と問題を拾いましょう」
「「はーい」」
二人ともスマホとにらめっこを始めたところで、蒼は自分の課題を進める。
晴斗が来てからは集中して学習を進めることができたため、平井の母が正午を告げるまで誰一人として時間を気にすることはなかった。
「十二時になったよー。ご飯はちゃんと食べてね」
降りてきて一言そういうと、またすぐ二階に戻った。
「僕のお母さん、二階でハンドメイドしてるっぽい。部屋だと狭いでしょって」
平井が補足してくれた。
「ねーねー。お昼にしない? アタシお腹すいたー」
「あー、誰かがコンビニで適当に買ってくれば?」
「買ってきてくれる人ー」
「んじゃあ罰ゲームにしようぜ。俺トランプ持ってきてんだわ」
「さんせーい」
「ルールは?」
「ババ抜きで」
「じゃあ配りまーす」
あっという間に決まり、配られ始めたカード。
みんなすごいなあ、と感心しながら蒼はカードを持った。扇形に広げる。数字が被ったら中央に捨てる。全てのペアを捨て終えると、赤と黒に彩られたカードをぼんやりと眺める。
全員捨て終わったところで、ゲームが始まった。が、なかなか終わらない。人数が多いため、どうしても長引いてしまうのだ。十二時三十五分。三十分の激戦がようやく終わり、最下位は平井に決まった。
「みんな、希望は?」
平井が落ち込んだ雰囲気を漂わせながら聞くと、
「アタシ野菜入ってるやつ以外がいい」
「僕は特に。あ、強いてゆーならとんかつ食いたい」
「俺も別にねえわ。まあ、ちゃんと美味しいやつがいい」
「私はお肉食べたいなー」
「私は野菜多めがいいですっ」
「……あるの、適当に買ってきて」
「わたしは一番安いやつでお願いしますっ!」
「……あ、えと、僕のは持ち運びやすいものにしてください」
蒼が言い終えると、スマホにメモをしつつ、平井はいってきまーすと廊下に走っていった。
平井が買い物に行っている間に皆でテーブルを片づけた。勉強道具は人ごとに分けて部屋の端に寄せておいた。八人で話しているうちに、気がついたら二十分経っていて、玄関が開く音がした。
如何にも暑そうに汗を拭いながら、平井が帰ってきた。手にはビニール袋が二袋。
「買ってきたよー。ほんと暑いね。いやあ、皆こんな暑さの中来たんだから僕一人文句言えないわ」
平井がテーブルに袋を置いた。物が落ちる音と、ビニール特有のちりちりした不快音。平井が人を掻き分けるように奥に向かった。座りかけた瞬間、がんっ。どうやら足をテーブルにぶつけたらしい。足を押さえながら改めて座った。
「えーと、そっちの袋が未空と空良と伊藤と村上の分。で、僕から見て手前の……そう、伊藤が今持ってる方が、僕と黒井と晴斗と月待と茜音の分」
伊藤がいつの間にか持っていたビニール袋を指さしながら平井は言った。すると伊藤はビニール袋を茜音の方に押した。どうぞ、ということらしい。
茜音がビニール袋から弁当を取り出して、
「えーと、どれがどれ?」
「……さあ」
「えー、お前忘れたのー」
黒井が文句を言った。平井はじとりと黒井を見ると、こめかみに指を押し付けた。
「とりあえず黒井のはとんかつでしょ。で、そのおにぎりが月待。茜音は多分、今持ってる焼肉弁当みたいなやつだと思うね」
「おー、なるほど」
茜音は素早く弁当を配ると、残り二つを、晴斗と平井の方へ滑らせた。テーブルの中心、真っすぐ弁当が進む。
「……なんでそんな綺麗に止まるんですか?」
蒼の言った通り、弁当は二つともぴたりと二人の目の前で止まった。勢いがあったように見えたのだが。
「月待君、わざわざ聞くくらい気になったんだ?」
からかい交じりに黒井が笑った。
「い、いえ。あの、ただ気になって」
「まあ、そりゃそうだ? うん。気になったら聞くタイプなんだねー。意外」
「え? あー……。多分、中学の頃は聞けなかったと思います。皆、優しいから、緊張しにくいです」
蒼が笑みをこぼしている横で、晴斗は目の前の弁当を見ながら平井に聞いた。
「なーなー。俺の、どっち?」
「申し訳ないけど、マジで覚えてない」
「んじゃもうこっちでいいや」
「うん。そうして」
輪ゴムに絡まった割り箸を取り、晴斗は食べ始めようとする。
「……鈴木君。あの、いただきます……」
蒼がそっと尋ねると、晴斗はパキッと割り箸を割った。
「あー、気にしてなかったわ。未空もあれ、絶対いただきます言ってないだろ」
蒼の視線が晴斗の視線を追う。未空はにこにこで弁当を口いっぱいに入れていた。野菜炒めだろうか。蒼にはリスにしか見えなかった。つられて頬が緩みかけ、慌てて締めた。
「雨宮、いただきますしたか?」
「へっ。あー! してないよお……」
未空がコロコロと表情を変える横で、伊藤は名案を思いついたかのように手を叩いた。
「あっ。じゃあじゃあ、皆でいただきますしましょうっ!」
「厚生委員いるしね」
空が伊藤に返すと、伊藤は芝居臭い仕草で驚いた。
「えっ。わたし?! ……まあね、いいですよ。やりましょう!」
なんだか話が大きくなったなあ。
「手を合わせてくださーい!」
蒼は思いながら、手を合わせた。
「せーのっ。いただきまーす!」
蒼は、控えめにいただきます、と呟いて、割り箸を割って食べ始めた。他の皆も同様に。




