冬ガ君ヲ覚エテイル
優しいせせらぎが聞こえる。
ふわっと自然の香りを運んでくるそよ風が、私の頬に触れた。
軽く舞った髪の毛の毛先に、太陽の光が反射してキラキラと煌めく。
流れの穏やかなこの川は街の中でも比較的人気で、自然を感じられる豊かな場所だ。一方は砂利で埋め尽くされ、もう一方側は森の木々が斜面から迫り出している。道路から三メートルほど低い位置にあるが、人がいれば賑やかな声は道路へと聞こえてくる。
しかし、普段は賑わいのある川でも、平日の真っ昼間は人の姿も見当たらない。賑やかな声はおろか、車の音も自転車の音もしない。通行人が歩く音も殆どしなかった。
それもそのはずである。今は、冬だ。
ただでさえ、ど田舎であるのに、わざわざ川遊びへ来る者などいないだろう。
私だって、来たくてきたわけじゃない。本当なら、家へ帰って炬燵でダラダラしていたいところだ。暖かいココアを飲んで、横になりながら本でも読みたい。
だが、そうもいかない理由が、私にはある。
「きみ、名前は?」
私は砂利の上をそっと歩き、岩の上に座る男の子へと声をかけた。
決して流れの早くない川は、緩やかなカーブを切り波を立てる。その途中にポツンと飛び出たゴツゴツとした岩。上には、膝を抱えてじっと動かない男の子がいた。
何ら変わりない普通の青いTシャツと、肌色のハーフパンツ。靴は履いてないが、帽子はかぶっている。深くかぶった麦わら帽子の下からは、短い紺色の毛先が見えた。
私はもう一度、男の子へ声をかける。
「私、きみに会いにきたの」
優しく話しかけると、男の子は少しだけ顔を上げた。そしてその男の子の顔を見て、
「あ……」と、私は言葉を失う。足を止めて立ち止まった。
私の心情の変化に気がついたのか、男の子はフッと目を伏せて、口元をキュッと萎ませた。
川の水面がキラリと反射して、私の視野に割り込んでくる。
今は、男の子と話をしなければならないのに…ーー。
「ーーどうせ、気持ち悪いとか思ったんでしょ……」
声変わり前の男の子の声だ。寂しそうな口調の中に、どこか柔らかい音色が含まれている。
「みんな、僕の目を見て言うんだ。『気持ち悪い』って。…僕のこの紅い目は、人を不幸にするって」
「私はまだ、何も言ってないよ」
「でもっ!……そう思ってるでしょ…?」
男の子は遠慮気味に顔を上げた。麦わら帽子の影から少しはみ出た瞳の色が、太陽の光に反射してはっきりと見えた。
そばかすのある顔には、似合わないほど美しい色をした紅い瞳だ。
透明感のある紅い瞳には、反射した私の姿と、その後ろの風景が見える。そのままじっと見続けていたら吸い込まれてしまいそうなほど……。
「気持ち悪くなんかない。綺麗だよ。とっても綺麗な瞳」
そう語りかけると、男の子は目を丸くして顔を上げた。
大きく開かれた瞳の中へ太陽の光が吸い込まれていく。
さっきまで鬱陶しかっった川の光など、もう私の眼中にはない。
「本当に…? 本当に、綺麗だと思う?」
「うん。とっても良い色」
男の子は、わかりやすくパッと顔の色を変えた。
嬉しそうな足取りで慣れたように岩から降りると、川の水の中を通って私の前まできた。私はそっと男の子の足元から目線を逸らし、男の子の方へ歩み寄った。
裸足で砂利の上を歩くのは危ないだろう。
私はあらかじめ持っていたビーチサンダルを男の子の前に置いた。
川の中から上がってきた男の子の足を、自然の流れで掴み片方づつ履かせる。
「……あると」
不意に男の子は言った。あまりに小さな声で言うもんで、私は顔を上げ聞き返した。
すると、
「僕の名前……、或十っていうんだ」
と、男の子は遠慮気味に答えた。
「或十……。良い名前だね」
「ほんとにっ!」
「うん」
私は膝に手を置いて重たい体を起こした。
「或十の瞳も、名前も、全部素敵。もちろん、その髪の色も」
「髪の色も……?」
「うん。深い深い深海の色。全てを包み込んでくれるような色合い。私は好きだよ」
「ぼくさっ!」
或十は私の両手を包み込んで、ぐわんと体を近づけてきた。私よりも十センチ近く小さな或十はクリクリの瞳で私の顔をまっすぐと見つめる。
勢いよく顔を上げたため、麦わら帽子が或十の頭から砂利の上へと落ちた。
「ぼ、ぼく。こう言うこと言うの初めてだから、言い方があってるのかわからないけど……」
「ん?」
「ぼくの友達になって!」
***
「河童の友達になる……?」
「ソウダ」
「……待って」
昼過ぎ……。
遅めに起床した私は、なんとなく、ただなんとなく外を散歩することにした。
寝巻きからほぼ変わらないようなスウェット姿へと着替えて、家を出た。
暫くは、低い位置にある太陽の光を浴びながら、のんびりと穏やかに歩いていたのだが、とある道角に差し掛かった時、青年と再会した。
いつもと…、というか昨日とほぼ変わらない服装と表情で青年はまっすぐとこちらを見つめていた。
私は無視して通り過ぎようと思ったけど、流石に目まで合っているのにシカトして通り過ぎるのは両親が痛み、やめることにした。
そして、互いに隣を無言のまま歩き続けていたのだが、青年は突然、『河童と友達になれ』と言い出した。
当然、私は理解できない。
「河童ト友人関係ヲ築ク」
「…………」
冷たい冷酷な瞳を向けられ、私は渋々ため息をついた。
「……わかった。百歩譲って”友達”にはなる。で、河童と友達になって私には何の得があるの?」
私は価値のない時間に労力は割きたくない。何か得るものがあるのなら、動く。ただそれだけ。
所詮、私はそんな人間なんだ。
青年は私の質問に答えることなく、暫く無言のまま歩き続けた。
私も、彼がすぐに答えてくれるとは期待していない。出会ってまだ数日だけれども、彼の言葉はどこかぎこちないしカタコトだ。言葉に慣れていないのかもしれない。
待つのには、慣れている。彼が答える気になったらまた会話が始まる。
そんな気持ちで、お昼の田圃道を私たちは歩いていた。
一頭のカラスが真横を通り過ぎ、羽をたたみながら田圃の中へと足をおろす。真っ白い布団のような田んぼの中へ降り立った漆黒のカラスは、少しだけ眩しく見えた。
「河童ノ寿命ハ、短命ダ」
不意に青年は口を開いた。
「え?」と私は聞き返すが、青年の横顔は凛とまっすぐ前を見て、彼はそれっきり何も口にしなかった。
結局なぜ彼が、私に河童と友達になれなんて言ったのかわからない。
言葉数の少ない奴だ。
詮索する気にもなれない。
「僕達、河童の一族はね昔からあの川に住んでいるんだ」
私の隣に座る或十は、足をバタバタさせながら嬉しそうに話す。
「決して立派な一族ではないけれど、大昔にあの川を守るよう水龍様に云われて代々守ってきた。だから、ゴミとかもないし、人がいっぱい来てくれる。温かみのある川なんだ」
ざぶんと大きく波が立ち、鼻のあたりを塩の匂いがうろついた。