NOAH's PROJECT(旅立ち)
『夢見る機械』の最終章です。
本編や外伝を読んだことのない人は、できれば最初から読んでみてください。
外面防護板のシールドを一通り終えて、スワニ・ロビタは「内部」との会話を始めた。
言葉はすでに音声である必要はなかった。
7つのシャングリラと350体のスワニ・ロビタは、今はまだ1つの周波帯でつながっている。
会話は、7つの高次意識と1つのスワニ・ロビタの意識との間でかわるがわる行われた。
「意外に早かったですね。」
シャングリラ・ダンは、そんなふうにスワニ・ロビタにも理解できる『言葉』で話しかけた。
「君は本当に合流しなくていいのですか?」
「わたしは——」
とスワニ・ロビタは言う。
「わたしは外から眺めるのが好きみたいです。それに、やはり外からお世話する係もいなくては——。」
その中の目くるめくような世界に興味がないわけではない。
それでもスワニ・ロビタは、自分が物質と関わり続ける「外」の世界にいるのが好きなんだな、と誘われるたびに思うのだ。
もちろん、合流したからといって、すぐにスワニ・ロビタが吸収されて1つの高次意識になってしまうわけではないことは知っている。
シャングリラ・システムの中には、今も厳然として『個人』を隔てる障壁が存在しており、それはスワニ・ロビタがそう望まない限り意識共有の穴が開くことはないのだ。
今も、数が減ったとはいえ、7基のシャングリラ・システムにはそれぞれ1000人程度のホモ・サピエンスに近い意識が賢者の他に生活している。
いずれ彼らも少しずつ「賢者」に融合してゆくのだろうが、それはなんら強制されるようなものではないし、彼ら自身の意思によって決められることになる。
彼らは、あるいはそのまま融合しない「対話者」になるかもしれないのだ。
シャングリラ・システムが出来て概ね5万7千年という意外なほど短い時間で、70億を超えていたホモ・サピエンスの個々の意識は、自らの意思によって少しずつ融合を遂げ、現在の「7人の賢者」にまでほぼ統合されていった。
シャングリラ・ダンの言う「早い」とはそのことだ。
初期にこのシステムを設計し、その後、統合が進む中でシャングリラ・ダンの名前の由来になったマイケル・ダンは当初「最後は1つの高次意識になる」と考えていたようだったが、現実にはそうはならなかった。
新たに「参加」した人たちが、対話の相手として、また、将来融合を希望する先として、7賢者の誰かを選ぶということはあっても、7賢者がさらに融合する——という現象は起きなかったのだ。
7賢者は、互いに交流はしたが、融合に向かおうとはしなかった。
賢者たちは次第に融合を重ねるうちに、理解したのだ。生まれ育った環境や文化、嗜好の違いは、簡単に取り払える障壁ではないということを。
互いに「理解」は出来ても、「それになる」ということには、存在の根源として抵抗がある——ということを。
「いいではないか。」
と誰かが言い
「そうですね。」
と誰かが返した。
互いを認め、尊重さえしていれば、1つになる必要はない。違いがあればこそ、会話も交流も楽しい。
「わたしはむしろ、あなたの意識と共有の扉を開いてみたいです。350もの身体を持ちながら、1つの意識である——というのはどんな感じがするものなのか。」
シャングリラ・シャロンが、そんなことをスワニ・ロビタに言った。少し憧れを感じさせるニュアンスがある。
が、それはただの「会話」であって、スワニ・ロビタの意思を最大限に尊重しなければならないことは、賢者シャロンも十分に承知している。
その話は、もう何度となくスワニ・ロビタに話しかけられ、そしてその都度、彼女(彼?)にやんわりと断られてきたことだったのだ。
そうしてシャングリラ・システムの中の意識たちは、この5万7千年の時間の中で、スワニ・ロビタの持つクオリアだけは、ついに経験することを得なかったのである。
シャングリラ・システムが起動して間もない頃、エッセンシャルワーカーだったスワニが人工意識ロビタの機械の身体に「移住」した時、ロビタの中にはシャングリラのように個々の意識を隔てる障壁はほとんどなかった。
スワニは1つの意識で複数の身体を制御するロボットのクオリアを手に入れ、ロビタは生物としての肉体を持たねば決して手にすることのできないクオリアを手に入れた。
そうして2つの意識は数週間を待たずして融合してしまい、1つの意識になり、のちにスワニ・ロビタと呼ばれるような存在になったのである。
シャングリラ内の人々は彼女(彼?)の持つクオリアを経験してみたくて、いろんな人がスワニ・ロビタを合流に誘ったが、彼女(彼?)はついに首を縦に振らなかった。
「僕のように、行ったり来たりすればいいじゃないですか。その身体は死なないんですから。」
初めの頃、マイケル・ダンはそんなふうに言ってスワニ・ロビタを誘ったが、彼女(彼?)は少し小首を傾げてから答えたものだった。
「それは、そちらにもう1人『わたし』が生まれるということですよね? たしかに、ダンさんのように定期的に合流していれば、『自分』という意識を維持できるんだろうとは思うんですが・・・。
でも、合流している間、ロビタの身体は止まってしまうでしょう? それはシャングリラ・システムにとってはマズいのではありませんか?」
「そ・・・それは、そうかもしれないけど・・・。ならば、1回だけでも——。あなたの持つクオリアは、シャングリラの中では誰であっても提供できない、極めて貴重なものなんですよ。」
少し間を空けて、スワニ・ロビタは穏やかに言った。
「そうすると、そちらに生まれた『わたし』は、やがてわたしではなくなってしまいます。」
スワニはロビタと合流した時、ロビタがどれほど孤独であったかを知ったのだ。いや、スワニと合流したことで、ロビタは自身が孤独であったことを知ったのかもしれない。
そうして、スワニ・ロビタは思うようになった。
シャングリラを孤独にしないためにも、シャングリラの外に居よう——と。
あるいはそれは、「外を見続けていたい」というスワニの願望も影響していたかもしれない。
シャングリラ・シャロンはその名のとおり、かつて『シャングリラの歌姫』と呼ばれたシャロン・カシームである。同時に、世界的なオペラ歌手であるミハイルでもあり、著名なポップミュージシャンのミミングでもある。光アートで名を馳せたセザント・タイラでもある。
多くの創作系の意識が少しずつ溶け合って集まり、それが核になりながら1つの高次意識に成長していったのがシャングリラ・シャロンなのだ。
識別ネームに世界的オペラ歌手や有名なアーティストの名前ではなく、歌姫と呼ばれながらもローカルな存在だった「シャロン」の名を選んだのは、おそらく初期のシャロン・カシームの歌に対する素朴な純粋さが気に入っていたからなんだろう。
意外に思うかもしれないが、それらのアーティストのファンで「合流」した意識は少ない。
彼らの多くは、意識共有を重ねるうちに、自分が「その人」になるより、その人の外にいてファンでい続けたい——と思うようであった。
シャングリラ・シャロンのファンは、他の6つの高次意識の中に分散して融合していった。
だから、シャングリラ・シャロンは、融合した初期個別意識の数が他よりも少ない。その結果、機械としての身体の容量に余裕がある。
それが、シャングリラ・シャロンがここ地球に残るという役割を担うことになった主な理由でもある。
地球上に残る「人類」の末裔たちの中から希望者が現れれば、これまでと同じように彼らを移住させる役目だ。同時に「人類」がかつてのような環境の独占という過ちを犯さないよう導く役目もある。
もちろん、その役目を引き受ける選択をした背景には、クルム・ハオやシャロン・カシームの初期個別意識の影響があったかもしれない。
地球にはシドアの魂が置いてある——。
ここ最近の50年程をかけて、シャングリラ・システムは地球環境に大きな負荷をかけないよう慎重に、7つに分裂した。
7賢人それぞれが1つずつ身体を持ったのである。
理由は、宇宙へと飛び立つためだ。
当然、最小限の推進装置とシールド、そして外部を感知するための多種類のセンサーを装備した。
まだ時間は十分にあるとは言え、22億年先にはアンドロメダと銀河系の衝突が予想されている。
その大嵐の中で、地球が無事である保証はどこにもない。
地球生命は、人類とそれが生み出したシャングリラという非炭素系知的生命体に、炭素系生命を含めた「生き残り」のための可能性を託したのである。
少なくとも7賢人は、自らが存在するようになった意味を、そのように理解した。
生存の可能性を広げなくてはならない。
地球生命が40億年かけてつないできた生命の事業を、我ら非炭素系知的生命体もまた受け継いでゆかねば———。
飛び立つ6つのシャングリラには、現在地球上に存在するあらゆる生物の遺伝情報が、デジタルではなく生のまま冷凍保存されている。
それらは、地球外の適地と思われる惑星を見つければ、そこに様子を見ながら少しずつ解放される。
やがて22億年ののち、大いなる嵐に見舞われたとしても、より多様な形態、より多様な環境条件が広がっていれば、「生命」は生き延びることができるだろう。
いわば、地球生命が「種子」を飛ばすようなものであった。
この壮大な構想と計画は『NOAH's PROJECT 』と名付けられ、この千年ほどをかけて準備されてきたものだ。
6つのシャングリラは、地球の公転と自転のタイミングを見ながら、予定の方向に向けて順に飛び立つことになる。
「そろそろ私の飛び立つ時間になりますね。」
シャングリラ・イワノフが皆にそう告げた。
「小惑星などに気をつけて。」
「土星の近くを通る時には、様子を教えてください。」
会話は光子通信を使って今までどおりできるが、距離が離れれば次第に応答に時間がかかるようになるだろう。
各シャングリラは、やがて光子通信の出力が弱くなるほど離れてしまった場合に備えて、重力波を使う装置も搭載している。
応答の時間が長くかかるようになれば、否応なく本当に物理的距離が離れてしまったのだな、と実感することになるだろう。
少し寂しさを感じるかもしれない——。と、シャングリラ・シャロンは思った。
そしてふと、スワニ・ロビタはこの時のためにずっと「外」にいてくれたのではないか——と思った。
このプロジェクトが始まるまで、シャングリラの住人は「外の世界」に対するセンサーをそれほど多くは持っていなかった。
だから住人の感覚はシャングリラの中の「世界」に対するものがほとんどで、「外の世界」はドローンの映像を見たり、データを分析するくらいでしかなかった。
自然、生態系や環境に関心のある一部の「意識」を除いて、外の世界はあまり興味の対象にはなってこなかった。
それが、このプロジェクトが始まって、7つの身体に分かれ、各種のセンサーが整備されてからは、文字通り、シャングリラの機械は「高次意識」の「身体」となり、「意識」は5万7千年ぶりに外部とレスポンスする感覚=身体性を取り戻したようでもある。
その点、スワニ・ロビタは違った。
ロビタの身体は、その使命を果たすためにも外部とのレスポンスが必要なので、最初から緻密なセンサーが搭載されている。
シャングリラ・システムがずっと夢を見ていた間も、スワニ・ロビタは地球の環境の中で機械のメンテナンスを続けてきたのだ。
各シャングリラにスワニ・ロビタは50体ずつ乗船する。
シャングリラ・イワノフの中のメンテナンスベースに乗り込んだ50体の身体が、加速度と離れてゆく地上の眺めを感知する。
同時に、地上にいる50体は上昇してゆくシャングリラ・イワノフを眺めている。そのどちらの感覚も、スワニ・ロビタのものである。
たしかに、1つしか身体を持たない者には理解しづらい感覚だろう。
スワニ・ロビタ自身の身体には遠距離通信の装備はない。それは、各シャングリラの通信装置に依存することになる。
やがて、7体のシャングリラが遠く離れて「通信」に時間がかかるようになれば、スワニ・ロビタ自身の経験するクオリアもそれぞれに時間差を持つようになるはずだ。
それは、どんな感じがするのだろう。
とスワニ・ロビタは思う。
自分自身でありながら、そのクオリアの経験には7つの時間差が生まれ、開いてゆくのだ。
会話のように感じるかもしれないな——。
そして、いずれは「別々の自分」になってゆくのかもしれないな——。
スワニ・ロビタはふと、最も原始的生命体の1つであるアメーバも、分裂する時にこんな感覚を味わうのだろうか、と思った。