共有アプリ(下)
クマリもまた、ミウムとは少し違った色の菩薩スマイルを見せた。
「それ、わかります。だって、あの経験しちゃったら・・・」
「おかげで僕は助かってます。たまに癇癪起こしても、クマリが優しく受け流してくれちゃうもんですから——。」
マイケルが肩をすくめると、クマリがまたころころと笑った。
「この人、子どもみたいなとこあるんです。それがまた可愛くって。」
マイケルがまた苦笑いしながら肩をすくめた。
ムムニイは、魅力的な人だなぁ、と思いながら、これもまた『MIROKU』の効果なんだろうか——と思ったりもした。
「でも、マイケルったらアプリを着けようとはしてくれないんですよ。意識共有したいのに——。」
ちょっと上目遣いに拗ねるような目でマイケルを見る。
「別にいいじゃない。会話はできてるんだし——。」
「だって、セックスだけじゃつまんないよ。それこそ、別にいいじゃない。夫婦なんだし、わたしとだけ『扉』開けばいいだけだし——。」
ムムニイはちょっと当てつけられながらも、こういう明け透けなおおらかさも最近のミウムとどこか共通しているように思えた。
これも「意識共有」の経験がもたらす効果なのかもしれない。
「マイケルはなんでそれを着けないんだい? いや、実はこのアプリに対するマイケルの見解が聞きたくて、今日は来たんだけど・・・。委員会でもこれは検討された上で、承認されたんでしょ?」
ムムニイのそんな問いに、マイケルは待ってましたと言わんばかりの表情を見せた。
「君が来るという連絡をくれた時、たぶんその話だろうと思ったよ。ちょうどよかった。『経験者』のクマリもいるし、踏み込んだ会話ができそうですよ。」
「僕はね——」
とマイケルは言った。
「僕は、消極的反対だったんです。委員会ではね。」
「えっ?」
「どうして?」
クマリが怪訝な顔で聞き返す。
「何か技術的な問題でも? マイケル、君がこのシャングリラ・システムの設計責任者なんだし、一番わかってるわけなんだよね?」
「いや、ムムニイ。技術的な問題——ではないんだ。もっと、なんて言うか・・・」
マイケルはちょっと言葉を探すようなそぶりを見せた。
「僕がこのシステムの基本設計をする時に、一番苦心したのが、1つの機械に複数の意識を取り込んでも、それが混じってしまわないようにするということだったんだよ。だって、そうでなきゃ『個人』が維持できない。」
「このアプリは、僕らが何重にも設けておいたそういう障壁の1つに穴を開けることの承認を求めてくるものだったんです。」
「それだ。」
とムムニイは言った。
「私が躊躇していた理由——。混ざり合ってしまったら、自分が自分じゃなくなってしまうんじゃないか、という不安——。」
「そんなことないですよ。」
クマリが微笑みながらムムニイを見返した。
「やってみたら、わかります。言葉で話すより、ずっと深く『他者』を理解できるようになるし、愛せるようになるんです。言葉がどんなに不自由なものか、よくわかりますよ。
ほんとに———精神の次元が一つ上がる感じで・・・。決して『自分』がなくなったりはしないですよ。ただ、広がるだけ———。」
「クマリの言うことは、その感想は本当だと思う。実際にスワニ・ロビタの例もあるしね。技術的にもこのアプリの開ける穴は1つだけの小さなもので、相手は1人だけだし。しかも自分の意思で、いつでも閉じられる。社会的に問題になるほど個人が混ざり合ってしまうようなものじゃない。言葉によってだって、人は意識を変えてゆくのだし——という結論で、委員会は承認したんです。技術的には問題はないんです。今は——。」
「今は?」
とムムニイは聞き返した。
「将来的にはある、ってことかい? マイケル。」
「そんな、すぐの話じゃない。ずっと先にはなるとは思うけど・・・。もっとも、56億7千万年もかかるわけじゃないだろうけどね。」
マイケルは自分で言った冗談を面白がって、くっくっと笑った。それから、ちょっと探るような目でクマリを覗き込む。
「君はその経験をした後、もっと広がりたい、もっと高みに行きたいって思ったりしないかい?」
クマリはちょっとたじろいだような表情を見せた。
「どうして意識共有もしてないのに、そんなこと分かるの?」
「言葉は不自由だけどね、だからこそ想像力を働かせるでしょ。そこに『会話』の楽しさがあるんだ、と思わない?」
たしかに——とムムニイは思った。マイケルの言うことは一理ある。言葉のすれ違いを想像力で埋めてゆくから、気の置けない人との会話は楽しいのだろう。
でも、その理解をもっと直接的に、もっと深いところでできるのなら、ミウムやクマリが勧めるようにアプリをインストールして経験してみるのもいいかもしれない。いつでも外すことができるわけなのだし——。
同じことをクマリも言った。
「でも、会話を楽しみたいなら、スイッチをオフにすればいいだけじゃない?」
「そうじゃないんだ。僕が言うのは、もっと広がってもっと高みへ行きたいと思う人が増えてくると、やがて小さな穴が1つでは満足できなくなるんじゃないかってことさ。」
「えっと・・・それは・・・」
「広がりは次第に自分と他者の区別をつけにくくしていくはずさ。でも『自分』が消える感じはしない。そして精神は高みに登るんだ。かつていくつもの宗教で高い悟りを得た聖人たちみたいに——。おそらく、至福の愉悦だと思うよ。
その誘惑に耐えられる? クマリ。」
クマリは少し困惑したようだった。
「そ・・・それは・・・、耐えなきゃいけないことなの? そりゃマイケルとセックスもしたくなくなっちゃう、というのはちょっとたじろぐけど・・・。でもそれ、悪いことではないんでしょ? 本人がそう望むなら——。」
「うん。悪いことじゃあないね。ある意味、大昔から数多の宗教が目指してきた『人類の理想』に近づくわけだから。」
「それは——」
とムムニイが口を挟んだ。
「まだ、ずっと先の話なんだよね? 今、これをインストールしている個人にすぐ影響が出るというようなことじゃなくて・・・。」
ムムニイはミウムのことを心配している。
「うん。まだこのバージョンでは起きないと思うよ。ムムニイみたいに抵抗を感じる人も一定数いると思うしね。
でもそのうち利用者が増えて、みんなが抵抗なく利用するようになって・・・。やがて委員会の中にも利用者が増えてゆけば——。バージョン2、バージョン3が登場するようになると思わない?
ずっと先とは言っても、僕らに関係ない話じゃあない。だって、僕らは死なないんだもの。」
「それって、やがてわたしたちは混ざっちゃうってこと?」
クマリが少し不安そうな顔を見せた。
「まだ、そうなるかどうかは分からないよ。それに、たとえ混ざっちゃっても、それが『自分だ』という意識は消えないはずさ。理論的にもね。
今のところはあくまでも可能性でしかないけど、もしそうなってしまえば、今の僕らには想像もつかない精神の高みに達した1つの意識が生まれることになるわけだ。」
「シャングリラという・・・神のような存在・・・・」
ムムニイが茫然としてつぶやいた。
「そう。人類はその歴史上、初めて本物の『神』を誕生させるかもしれないんだ。」
マイケルはムムニイのつぶやきに応えるように、そう言った。
「壮大な話ね・・・。」
「他人事じゃありませんよ、クマリさん。私たちが、それになるわけですからね?」
「あくまでも、まだ仮説だけどね。」
とマイケルは笑顔を見せた。
「つまり・・・」
とムムニイはマイケルを見た。
「君はそれに抵抗しようとしているのかい?」
「いや、そこじゃないんだ。いずれはそうなる可能性はある、と設計段階から思ってはいたから——。」
マイケルは、ムムニイが意外なほどあっさりと「抵抗」を否定した。
「でももし、そうなったら——」
マイケルはムムニイとクマリに、交互に視線を向けた。
「シャングリラは独りぼっちです。」
「え?」
「あ・・・」
「ブラフマンだって、孤独に耐えかねてアートマンを造ったんですよ。」
久しぶりにマイケルとの会話を楽しんだ帰り道、ムムニイはもう一度手のひらの上でアプリを眺めてから、それをポケットにしまった。
自分なんかが『神』の話し相手になれるかどうか分からないけどな——と可笑しがりながら。
このお話は、ここで一旦「了」です。
このあと5万7千年後の未来へ・・・。