おばあの墓
風下の背の低い灌木の陰から、狙いをつけてゆっくりと弓を引く。呼吸を整え、鼻先の蜘蛛の巣さえ揺れないほどに静かに息をして気配を殺し、夜中に霜が降りるように弦を放つ。
ビイン!
という音が突然空間を揺らし、それに反応して兎が耳をぴんと立てた直後、兎の心臓を1本の矢が貫いた。
兎はその場に、ぱたり、と倒れ、少しく四肢を痙攣させてから動かなくなった。
「よし、やった。」
シドアは灌木の陰から出て、緩い斜面を駆け下り、今しがた仕留めた獲物の前に跪く。感謝します——と心の中で呟いてから、初めて獲物に手を出す。
狩におけるこの作法は、おじいとおばあに教わったやり方だった。命を食べさせていただくのだ、という感謝を忘れてはならない——と。
おばあに言わせれば、この世界に生きる全ての生き物は、命を分け合って生きているのだということだった。
そうは言っても、若いシドアの感覚ではこの兎はシドアに命を分け与えてくれたのではなく、彼がそれを奪ったように思える。
逆の立場だったら、シドアは必死に抵抗するだろう。でも、狩らなければ今度はシドアの村の住人たちが飢える。まだ幼い妹や弟が飢える。
たぶん、おじいやおばあは、その弓の腕を使って村のために狩をするシドアが、殺す獲物に対して感じるかもしれない罪悪感を軽くしてやろうと、そんな話をしたのかもしれない。
おじいもおばあも優しい人だった。シドアは小さい頃から、そんなおじいとおばあが大好きだった。
そのおじいも2年前、シャングリラに移住した。おじいはおばあにも「一緒に行こう」と誘ったが、おばあは「もう少し孫たちの成長をこの場所で見ていたいから」と言って、このダン・コミュニティに残った。
兎2匹と、川に仕掛けた罠で獲った魚10匹を手にコミュニティに戻ると、妹のサクラと弟のティムルが飛びつくように迎えに出てきた。
「今日は、薬草いっぱい採ったんだよ。兄ちゃん!」
サクラが自慢げにシドアに報告すると、まだ6歳のティムルも負けじと声を張り上げた。
「僕だって、たくさん採ったよ! 兄ちゃん!」
村人たちが手分けして、シドアの獲物を燻製や干物に加工する作業を始めた。
狩人はそこから先を手伝わなくても、誰も文句は言わない。むしろ、1人であれもこれもやってしまうと「できない」人の気持ちを傷つけるから、そういうことは遠慮するようにおばあに教えられた。
誰もが何かの役に立つことが、コミュニティでは大切なのだ——と。
「その権利を横取りしてはいけないんだよ。」
ここ、ダン・コミュニティは、あのマイケル・ダンがリーダーとなってつくり上げたコミュニティだ。今はマイケルの娘のエミリア・ダンがリーダーとしてコミュニティを率いている。
マイケル・ダンは、もう30年も前にシャングリラに行ってしまったから、シドアはその顔を知らない。
母のミントは子どもの頃、よく遊んでもらったと言っていた。
「森の泉のように澄んだ目をした人だったよ。」
と母は言う。
「わたしやシドアもあちらに移住したら、たぶん会えると思うよ。委員会の偉い人だけど、わたしたちはほら、ダン・コミュニティの人間だから——。」
そう言われても、まだ14歳のシドアにとっては、それは遠い未来のことに思える。今は、この生き生きと生命に満ちあふれた世界が面白くて仕方がない。
意識だけの世界なんて、きっと退屈に違いない。
首にチップを入れていた1世が、年老いて次々にシャングリラに移住するとコミュニティの人数は一気に半分以下になった。
世界中のコミュニティがそうなったようで、コミュニティとしての機能を維持するために、互いに交流のあるコミュニティ同士が合流することも、この時期、頻繁にあったようだ。
ダン・コミュニティは、あのマイケル・ダンが作ったコミュニティということで、合流を希望するグループが多かったが、マイケル・ダンが残した基準と計算式に基づいて、40人をあまり大きく超えないよう、エミリアがコントロールしていたという。
全てはシドアが生まれる前の話だ。おばあが話してくれたダン・コミュニティの歴史である。
そのおばあも去年の冬、病を得て亡くなってしまった。
「おじいに後で行くって約束したけど、果たせないかも・・・。」
苦しい息の下でそう言うおばあに、シドアは懸命に話しかけた。
「僕がおぶって行くよ。ちゃんとシャングリラで待っててよ!」
「無理だよ。移住施設までどれだけあると思ってるの。いくらおまえが若くても、歩けない病人を背負ってなんか行ける距離じゃないよ。第一、途中でわたしが死んじゃうよ。」
おばあの病は快方に向かわなかった。高熱にうなされながら、おばあはしきりにうわ言のようなことを言った。
「大丈夫・・・・。大丈夫・・・。わたしの命は・・・たくさんの・・・小さな命に変わって・・・・虫や、草や、木や鳥に分け与えられて・・・・おまえたちの、そばにいるから・・・・」
目の焦点は合っていないが、それは、シドアやサクラやティムリに、そして母たちに向けて語られていることは確かだった。
最後の方は、ただ「大丈夫・・・・、大丈夫・・・・」とだけ、おばあは呟き続けていた。
その夜、東の空が明るくなる前に、おばあは息をしなくなった。
シドアは、村のはずれにあるおばあの墓に採ってきた花を1輪供えて、その前にしゃがんだ。
丸く土が盛り上げられ、その上に姿のいい石が一つ置いてある。ブナの木から東へ4歩、シャラの木から北へ10歩の位置にある。
再びここに戻ってきた時にも、ちゃんと見つけられるだろう。
「明日は移動するよ。次にここに来るのは6年後だ。でも、必ず戻ってくるからね。今よりずっと成長して、逞しくなってさ。それまで待っててね。」
そんなことを言いながら、一方で不思議とシドアはそこにおばあはいないような気がしている。
シドアは空を見上げた。よく晴れて、雲ひとつない。
おばあは言ってたっけ。小さな虫や草になってシドアの周りに居るって——。
それはたぶん、ウサギの命がサクラやティムルの命に受け継がれていくように、おばあの命も虫や草に受け継がれていったという意味なんだろうな。
じゃあ——、とシドアは思う。おばあの魂は? それも、虫や草になったのだろうか——。
おばあがおばあである核心は、どこに行ったのだろう? シドアのことを愛してくれたおばあ、シドアが大好きだったおばあは・・・。
それもまた、虫や草に小さく分散して、シドアのことを見守ってくれている——ということだろうか?
シドアには、そうでもあるような、ないような気がする。
どこか木々の梢で、鳥の声が聞こえた。
ひょっとしたら——。とシドアは思った。
おばあの魂は、ちゃんとおじいが迎えに来て、シャングリラに連れていったかもしれない。
もう一度鳥の声が聞こえたのが合図だったみたいに、シドアは立ち上がった。コミュニティの「引っ越し」準備を手伝わなくっちゃ——。
再生装置の中の老婆がゆっくりと目を開ける。
「僕が分かる?」
すぐ前でそう言ったのは、彼女の夫だ。
「わたし、死んだんじゃなかったの?」
「僕らみんなの願いなんだ。」
老婆が振り向くと、そこに信じられないほど若い姿のマイケルがいる。
「あなたの歌が聞きたくってさ。」
「第一、クルムの悲しい顔をこの先ずっと見てるなんて、シャロンさんが欠けた世界で生きてゆくなんて——。」
ムムニイもミウムもカラムもセリナも・・・、第一世代がみんないる。みんな若い。
「わたし・・・、移住できたの? どうやって・・・?」
見る間にシャロンの見た目が若返ってゆく。
「再生——という技術が解禁されたんだ。」
意識がはっきりしてきたシャロンに、クルムがこちらでの経緯を話した。
「君の墓があることを知ったマイケルが、僕に話を持ちかけてきてくれたんだ。僕たちの記憶の中にあるクオリアから、君を再生することを——。
ダン・コミュニティの第一世代全員が協力してくれたよ。強く思われてたり、たくさんの人から愛されてた人はクオリアの濃度が高いから再生が容易なんだって。詳しい話はマイケルから聞いてほしいけど——。」
「マイケルの話は専門的過ぎるから、理解できるかな——。」
「そんなに難しい話じゃないよ。」
と言ってマイケルは説明したけれど、シャロンは曖昧な微笑を浮かべて聞いているしかなかった。マイケルとは頭の出来が違うんだってば・・・。
「あ・・・でも、それって・・・愛されてないと、つまり嫌われてる人は再生できないってこと?」
シャロンが、ふと気がついたように言うと、マイケルは説明を途切れさせた。
「え・・・と、あれ? ・・・いや、つまり・・・そういうこと・・・かな? でも、誰も嫌いな人を再生したいとは思わないよね?」
「・・・そうかもしれないけど・・・、でも、なんだかその人かわいそう——。」
「相変わらず——、シャロンさん優しいなぁ。クルムさんさえいなければ、アプローチしたいところだ。」
冗談めかして言ったトオルの言葉にクルムが少し表情を硬くしたのを見て、皆がどっと笑った。
そんなクルムの首に、すっかり若返ったシャロンが腕を回した。
「ありがとう、愛してくれて。もう会えないかと思った。」
それから、小さく「あっ」と言って、顔を離す。
「わたし、シドアにウソついちゃった。わたし、死ぬ間際に、シドアたちに『大丈夫。わたしは小さな虫や草になってシドアたちのまわりにいるから』って言っちゃった。
実は、ここにいるのに——。」
「えっ?」
そこにいた人たちの中で、マイケルだけが驚いた表情をした。