5.あるいは宇宙の片隅で
六日目、同じく五人で集まる。
「こんにちは」
互いに挨拶をするところだけれど。
ごっち君が背筋を伸ばすと、右手を上げて大きな声を出す。
「ちーっす」
みんながあっけにとられる。
昨日『体育会系の人っていいと思う』と私が言ったから、それっぽいキャラクターになってみた、ということかと。
予想外すぎて言葉が出ない。
そういえば、いつものような青や緑の長袖のシャツを着ていない。スポーツメーカーのロゴが入った白いポロシャツだ。
そのうち由加ちゃんが吹き出して、増田君も「合わないよ」と笑う。
松岡さんが組を決めましょうと言い出し、いつも通りとなった。
私と増田君と松岡さんが一緒の組になる。
ごっち君は肩を落として、無言のまま由加ちゃんと西口へ去っていった。
増田君や松岡さんと共にチラシを配りながらも、心ではそこにいない人のことを考えてしまった。
土曜日なので通勤ラッシュもあまりない。遊びに出かける親子連れが乗り降りするくらいで、忙しくなかったせいもある。
西口へ向かうごっち君の、寂しそうな横顔が何度も思い浮かぶ。それに昨晩、服を選んで、思い切って『ちーっす』とやろうと決心していたのかなと気になってしまった。
由加ちゃんがこのことを知ったら、単なる同情はいけない、とぴしゃりと言いそう。
でも、同情じゃないと思う。同情じゃなくて、何だろう……。
もやもやした気分のまま、その日の仕事を終えた。
一人で帰りの電車に乗る。
今日は由加ちゃんがみゆきさんを待って、親戚数人で夕食をとるという。私だけ先に帰ることになったのだ。
ここで由加ちゃんと一緒だったら、気を紛らわせたかもしれない。
『明日で終わりだから、次のアルバイトを探さなきゃ。今度こそ、いい出会いがあるといいな』
などと言って、いつも以上にたくさん食べたかもしれない。何も顧みることなく。
それが今は一人、夜へと沈みゆく街を車窓から眺めている。
今日集まったときのことを考えた。
スポーツマンや体育会系の人、というのも、イメージ的によいと思っただけ。そもそも増田君のほうがよほど近い。
それなのに、心惹かれるのは……。
私は、ごっち君の目に見えないところに触れてしまったかもしれない。
何言っちゃってるんだろう。
そう振り返っても、濁って淀んだ水のような気分はどうにもならない。
今になって、やっと自分の気持ちに気づくなんて。
『重力で空間がゆがむ』とごっち君が言っていたけど、これほど気分が重いと心がひずみそうだ。
由加ちゃんと二人でチラシを配るだけの予定で、ただ過ぎゆくだけの五月のはずだった。
神田先輩に会ったときに湧き上がった想いとは、全然違うつもりでいたのに。
ずっと静かなのに確かな想いがここにある。
それなのに私は、これまで見たり聞いたりしていただけだった。
ごっち君が宇宙を語っているとき。寂しそうな笑顔に。優しそうな表情に。真剣に「年下って」と訊いたとき。それに今日のこと。
すべての出来事に対して、何もしていない。
言ってあげればよかった。
決して格好よさそうなスポーツマンになる必要なんかないって。
年上だの、格好いいだの、そんなのどうでもいい。ごっち君はごっち君でいいんだよ、って。
もう少しご飯を食べた方がいいとは思うけど。
話せたらよかった。
私はそんな条件なんかより、ごっち君がいいんだよ、って。
でも、何もできなかった。
あのときならともかく、今となってはどう伝えていいかも分からない。
混乱した心を抱えて、電車に揺られている。
このまま帰る気にもなれない。
いたたまれなくなって、途中の駅で降りてしまった。
改札口を出る。
もうすっかり夜の時刻。
駅からずっと先まで明かりがたくさん灯っている。お店はまだ開いていて賑やかだ。
朧げにしか星は見えない。
けれど、その空の果ては静寂で、暗闇に星の輝く宇宙が広がっている。
ふと、女の人の姿が思い浮かんだ。
チラシを配る私に『お疲れさま』と労ってくれた素敵な女性。
お店の眩い光へ向かう。
私は、いつの間にか探している。あの人のふわりとしたあのスカートと同じようなものを。
見つけると、もう何も迷わなかった。
翌日集まると、みんなで「今日で終わりだね」と話し合う。
ついでに増田君が止めたのか、ごっち君の挨拶も服装も普段と一緒だった。
「無事に終わりそうで、感謝しています」
「こちらこそ、ありがとうございました。とても楽しかったです」
松岡さんのお礼に、こちらもにこやかに応じる。
「ところで、嶋本さんは今日はお出かけなんですか」
続けて松岡さんに尋ねられた。予想していたことだ。
私の視界に、ごっち君の心配そうな顔が入る。デートの予定でもあるように思われたのかも。
「本当に。皐月ちゃん、だいたいいつもジーンズのズボンなんですよ」
由加ちゃんが言い足す。
ミントグリーンのフレアスカート。
私は、昨日買ったものを身につけ、白いカーディガンを羽織ってきた。
「いいえ、別に何も予定はないです。今日でこのアルバイトも最後なので、少し違う服装にしてみました。それだけですよ」
私の言葉に、ごっち君が安堵するのが分かった。
そう。ちょっと違うところを見せたかったのだと思う。
私も違うキャラクターになってみた、のかな。
「ふーん、そうなんだ」
由加ちゃんをはじめ、増田君も松岡さんも何となく腑に落ちないような声を出す。
私は曖昧に笑って、ごっち君の方を見たら、目が合った。
何か通じたかも。
「組み合わせを決めましょうか」
松岡さんがいつものように話す。すると、ごっち君が言った。
「あの、すみません。今日は僕のわがまま聞いてもらってもいいですか」
わがままって、一体何?
みんながごっち君に注目する。
「ごっち、どうしたの?」
予想のつかない言葉だったのは増田君も同じらしく、驚いたように訊く。
「どうもしないんだけど、あの……」
ごっち君はなかなか続きを話さない。松岡さんが促す。
「何でも言ってくれて構わないよ。最後だし」
「はい。最後だから、お願いしたいのですが」
真剣な表情で、ごっち君は告げた。
「今日は嶋本さんと二人で配っていいですか。お願いしますっ」
深々と頭を下げるので、全員の前に沈黙が落ちる。
「僕の方は別にいいけど、あの、嶋本さんは?」
松岡さんに尋ねられたとき、私の答えははっきりしていた。
「私も……」
頬が熱い。
「私も向後君と一緒がいいです」
それからのことは、何だか恥ずかしい。
みんなの妙なまなざしを受けつつ、私とごっち君はチラシを配りに行く。
駅のなかの小さな空間の、ほんのひとときの時間。
それは、宇宙という大きな空間の、悠久の時間につながっているとどこかで感じられた。
配り終えて戻ると、由加ちゃんが「先に帰る」と言い出す。
「え、今日も何か用事があるの?」
「用事があるのはそっちでしょ。二人でご飯食べて帰るんじゃない?」
「え?」
「そうだよな。俺も早く帰ろう」
増田君が由加ちゃんに加勢する。
「ええっ?」
私とごっち君は顔を見合わせる。
「そ、そういうことなので、一緒にご飯食べてもらえますか」
ごっち君の緊張した問いかけに、私は神妙に返事をした。
「は、はい」
二人とも初めてのデート。
西口のレストランでご飯を食べて、いろいろ話した。
十九歳の誕生日も、一緒にお祝いしてもらった。それからもよく会うようになった。
会うたびにいいところが見えてくる人って、いるものなんだな。
諦めかけていた春のうちに。
きっかけはサークルではなく、ほんの数日間のアルバイト。
私は思いがけず、ちょっと不思議な、それでいてかけがえのない人に出会っていた。
駅の片隅で。あるいは宇宙の片隅で。
最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。