4.条件と誕生日
「今日は松岡さんがあまり駅の方にいなくて。ごっち君は、何度話しかけても『そうですね』とか『はい』くらいしか喋ってくれないから、つまらなかったなあ」
「そうなんだ」
返事をしながら、私はトマトスパゲッティをフォークに巻く。
口に入れた瞬間、熱くて舌をやけどしそうになる。我慢して平静を保つ。
由加ちゃんに動揺を悟られたくない。
でも、もうばれているかも。
「ねぇ、ごっち君と昨日は、本当にいろいろ話ができたの?」
「ううん、宇宙の話を聞いただけ」
慌てて否定する。
「宇宙の話?」
「詳しかったよ。ビッグバンに、ダークマターとかダークエネルギーとか」
「何それ?」
ごっち君から聞いたことを、何となく説明してみせる。友人同士での夕食に合わない話題だけど。
「皐月ちゃんさあ」
由加ちゃんが私の目をじっと見つめる。
「いくら、春のうちはもういいとか、焦らないって宣言してても、わざわざごっち君と仲良くすることはないんじゃない? そこまでフォローする必要ないから。もっとちゃんと自分の条件に合う男性と親しくなればいいよ。無理しちゃだめだって」
「……うん」
別に無理はしてないんだけどな。それでも、由加ちゃんの親心のようなものを感じる。
「親切にありがとう」
由加ちゃんは、ずっと年上のお姉さんのようだった。
五日目は地下鉄でのチラシ配布。
私とごっち君が一緒になる。決まった途端、ごっち君がにこっとしたのが分かってしまった。
「ねぇ、皐月ちゃん」
そのとき、少し離れたところから由加ちゃんが呼んだ。
何事かなと、そちらへ行く。なぜかチラシを束ねるのを手伝って、と頼まれた。
今やることでもないのになあと疑問に思っていたら、由加ちゃんは急に話しかけてきた。
「皐月ちゃんは、年上の男性が好みだよね?」
「え。前にも話したと思うけど……」
何でここでそんなことを言い出すのか、疑問のまま答える。
高校は共学だったので、これまで男性と知り合うきっかけがなかったわけではない。ただ、私からすると高校生くらいの男の子って何だか子どもっぽいと感じるのだ。
わけの分からないことで、盛り上がったり争ったりして、静かさや穏やかさが足りないみたい。まだ落ち着く年齢じゃないのかなと思う。
だから、年上の人がいいって由加ちゃんにもよく話したはずなんだけどな。
「あとは、スポーツマンとか好きだよね?」
「そうだね。体育会系の人っていいと思うな」
問われるままに答える。
「そういう人が彼氏だといいと思う?」
「そりゃあね。でも、そんな簡単に出会えるわけないし」
何気なく喋った途端、声が入った。
「体育会系ですか……」
「へ?」
息を呑む。いつの間にか、後ろにごっち君がいた。
もしかして、今の会話、全部聞いてた?
由加ちゃんがしてやったり、という顔をしている。
ごっち君の存在感が希薄なので、近くまで来ていたのを気づけなかった。
気が動転してしまって、口が利けない。
「あっ、こんなこと言ってちゃだめですよね」
ごっち君は力なく笑って、松岡さんのところへ走り去っていった。
「これでだいぶ向こうも分かったんじゃない?」
ちらりと様子をうかがってから、由加ちゃんは平然と話す。
地下鉄の入り口で配り始めて、しばらくしてごっち君が言い出した。
「ついでに、ちょっとでも年下って難しいんでしょうか。あの、嶋本さん五月生まれですよね?」
さっきの由加ちゃんとの話は気まずかったので、こう尋ねられて、更にうろたえる。
私の名前では、誕生日が推測できる。同じ名の花もあるし。
ためらっていると、ごっち君が先に口を開く。
「最初の質問はいいです。僕、三月十四日生まれです。アインシュタイン博士と同じなんですよ」
アインシュタインと一緒って、唐突過ぎる。
「私は五月三十日」
ぎりぎり春くらいだねって、友人に言われたことがある。
「あ、教えてくれてありがとうございます」
ごっち君は丁寧にお礼を言った。
私にとって、ここ数日のことは、ひどく意外だった。
大抵の男性は、私と由加ちゃんが一緒にいたら、間違いなく由加ちゃんに声をかける。
由加ちゃんのほうが小柄できれいだからだ。女の子らしいおしゃれな服装がよく似合う。人と話すのも、私よりずっと上手だ。
隣にいると、どうしても引け目を感じる。つい紺や黒の上着とかジーンズのズボンなどを選んで、目立たないようにしてしまう。
それなのに。
由加ちゃんは、ごっち君とほとんど話をしていないみたい。私の方がいいように思われている。
改めて考えて、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなった。
自分をごまかしつつ、チラシを配る。
気づくと、携帯の鳴る音がしている。自分のだ。
見ると、由加ちゃんから。
「今、手が空きそう?」
「どうかしたの?」
「みゆきさんが人手がほしいって。これから美容室に行くのってできそう?」
少しの間、お店で手伝ってほしいことがあるという。
ちょうど気持ちが切り替えられそうな出来事で、助かる。
私はごっち君に事情を話し、お店へ向かった。
オープンを前にして、みゆきさんも大変そうだ。
業者さんからいろんな品物が届いたが、重くてなかなか動かせないとのこと。
まだ必要なものがそろわない美容室は、様々なものが点々としている。鏡が横倒しでビニールに包まれている。椅子が二つに別れて重ねられている。
大きな窓ガラスが真新しい。
手伝いのあとには、みゆきさんがアイスティーを出してくれた。
底に残ったレモンのかけらは、少し酸っぱかった。
結局チラシを配る場所まで戻ったのは、だいぶ時間が経ってからだった。
ちょっと長かったかなと思いながら、辺りを見回す。
なぜか、ごっち君がいない。
見つからないので、地下への階段を数段降りてみる。
すると、階下に姿があったので、声をかけようとした。そのとき、そばに小さなおばあさんが見えた。
「あの、僕が上まで運びますから、どうぞ気をつけて。ええと、ゆっくり来てくださいね」
「すみませんねぇ」
ごっち君が、おばあさんの荷物を持って階段を上ろうとしているところらしい。
私は咄嗟に階段を上り切って、外へ出るとマンションの陰に身を隠す。
その優しそうな表情を、壊したくなかったのだ。
やがて、ごっち君が荷物を持って上ってくる。おばあさんの姿も現れた。
「大丈夫ですか」
「ええ。あれ、ここってどこかしら。A3出口?」
「いえ、A1出口です」
「あら、間違えちゃったわ」
おばあさんは荷物を抱えて、A3出口の近くにあるお店に行きたかったようだ。
「ここからだと、どう行けばいいかしらね」
「えっと、A3出口だと、そこの交差点を渡って少し先です。あの、そこまで案内しますよ」
ごっち君は、たどたどしく話しながらも、おばあさんの荷物をそのまま持って、一緒についていく。
私は、その様子を隠れてぼうっと眺めていた。
傍らの植え込みで、サツキのピンク色の花が風に小さく揺れている。
「すみません。ちょっと道に迷ったお年寄りがいたので、少しだけついて道を教えてきました。あっ、ちゃんとティッシュは渡しましたから」
戻ってきて、私に気づいたごっち君はそう話した。
本当は荷物を持って親切に階段から他の出口までずっと案内してあげたのに。ティッシュを配る仕事のことなんて、誰も気にしないのに。
私がそんな思いを持っても、ごっち君は何事もなかったかのように仕事をして、ときには宇宙について語った。
「ここが地球の上だっていうのは分かるよ。でもそれ以上はどうかな」
私の言葉にごっち君は告げる。
「それでも、太陽系とか銀河系とか、銀河がたくさん集まって宇宙に広がっているのを想像することはできますよね」
「うーん、まあそうかな」
まるっきり文系の私には、理解の追いつかないことも多い。熱意だけは感じられるけど。
そのあと、ごっち君はこんなことを話した。
ここは駅のほんの隅っこにすぎない。けれど、それは見えている部分。
人は、全く見ることのできない果てしない宇宙を思い描いたり、考えたり、ときに憧れたりする。
ここが駅であると同時に、宇宙の片隅だと知っている。
そういう人間が不思議で、そういう人間がいる宇宙が面白いと。