3.順調に配りながら
チラシ配布も慣れてくると、いろいろ思うことがある。
配る人の心で、取ってくれる人も増えたり減ったりするような。もらったらお得かも、見てくださいねと気持ちを込めたら、手を伸ばしてくれる人も多い気がする。
配る合間に話した。ほとんどごっち君が喋って、私は時々口を挟むだけだったけれど。
「ダークエネルギーって、何だか怖そうだね」
「そういうものじゃないんですよ」
何でも宇宙にはダークエネルギーとか、目に見えないものが多く存在しているそうだ。聞いたことのない話とはいえ、「宇宙の95%は、謎なんですよ」などと夢中になって説明してくれるので、何となく質問したりして、時間を過ごしたように思う。
終わったあと、松岡さんがみんなを誘ってくれた。
「今日もお世話になりました。よかったら、うちのお店でお茶くらい出しますよ」
来週から、松岡さんは奥さんと一緒に日本料理のお店を始めるとのこと。
お客さんがまだ誰もいない店内は、静かで広く感じる。奥には座敷もあるらしい。入口のそばのテーブル前に腰かけると、新鮮な木の香りがした。
四人で、ゆっくりとお茶をいただいた。
増田君とごっち君は、私たちと同じく大学一年生。二人は高校時代からの友人で、松岡さんのアルバイトに一緒に応募したという。
同い年の気安さもあって、増田君と私たちは会話が進む。
増田君が隣のごっち君をつついた。
「俺ばっかりじゃなくて、ごっちもちょっとは喋れよ。女の子と話せる機会なんてなかなかないんだろ」
「あ、うん……」
さっきの宇宙の話は一体何だったのか、ごっち君は全く場慣れせず、話さない。通っている大学を増田君から聞いてびっくりした。すごく頭のいい人しか入れない有名大学だ。
「そういう大学って、入ってからも勉強が難しいんでしょ?」
由加ちゃんの質問に、ごっち君は「はあ、まあ」とはっきりしない。
「毎日大変じゃない?」
フォローしようと私も話しかける。
「いやあ、爪に火を点すような生活ですよ」
ごっち君の返答を聞いて、私たちはぽかんとしてしまった。
あとで一人暮らしだと知ったのだけど、言い方が何だかおかしかった。
三日目は、地下鉄の新草川駅に移動して、二手に別れることになった。
片方は、私、ごっち君、松岡さん。もう片方は、由加ちゃんと増田君の組み合わせ。
場所は変わったものの、スムーズにいく。
時たま、松岡さんは携帯で連絡を受けて、お店に戻ることもあった。そのときだけ、ごっち君は宇宙を語った。どうも普段はあまり話せない人らしい。
空は澄み渡っている。
夕暮れの迫るひととき、地下から湧いてくるような人々の列に、私たちはチラシを配る。人の波が去ると、若葉の映える並木道の向こうから、車の走る音が一層大きく響いてくる。
こんな場所で、なぜか宇宙の開闢について聞かされることになるとは。
宇宙はこの瞬間も膨張していると言われても、ねぇ。
帰りに一緒に夕食をとっているとき、由加ちゃんが不意に話した。
「私、増田君の彼女の写真、見せてもらったよ」
「えっ?」
確かに増田君は親しみやすい感じだけど、もう彼女の話まで聞き出した由加ちゃんもすごい。
「ちょっとかわいい感じの子。高校のときから付き合っているんだって」
「ふーん、そうなんだ」
適当に返事をしたら、注意されてしまう。
「何言ってるの、貴重な情報じゃない?」
由加ちゃんのお説教が入る。
「ちょっとでも情報集めて、ちゃんとした条件の人、探さなくちゃ」
「もしかして、それで増田君に彼女のこと尋ねてくれたの?」
「当然でしょ。増田君は感じいいと思うよ。私も好奇心で訊いてみたかったけどね」
由加ちゃんはぺろっと舌を出す。さすが抜かりない。
かなりモテる由加ちゃんは、高校時代にも付き合っていた人はいたみたい。受験を機に自然消滅したとか聞いたことがある。
「心配かけてるね。でも、しばらくは諦めているから。そんな簡単に好きな人はできないと思うし。もっといろいろなところで、いろんな人に会ってから出会いがあればいいと思ってる」
私は由加ちゃんを見つめて続ける。
「サークルでうまくいかなかったからって焦らないでって言ったの、由加ちゃんでしょ」
「そうだったっけ」
とぼけられてしまった。
翌日も同じように五人で集まる。
今日は草川駅のほうで、私と増田君が西口組になった。
ビルの間にオレンジ色の淡い光が広がり、やがて沈んでゆく。駅の雑踏のなかで、人々にチラシを差し出していく。
手を離れた割引券やティッシュは、帰宅のお供になっていくのかな、と何となく考える。
やってきた一人の女性に同じように渡す。
「どうぞ」
「お疲れさま」
その人が優雅に手に取った瞬間、ひと言添えてくれた。
「どうぞ」
「お疲れさま」
増田君のポケットティッシュを手にするときも、伝えてくれた。
何か上品な香りが漂ったのは、気のせいだっただろうか。
「やさしいな、今の人」
だいぶ見送ったところで、増田君が呟いた。私は大きく頷く。
取ってくれない人だって多い。そんな中で『お疲れさま』ってすごく心に沁みる。
このアルバイトを始めてから、今後自分がチラシをもらう側のときは、なるべく取ってあげようと私は決心していた。でも、それ以上のことができる人に出会ったことで軽い衝撃を受けていた。
格別きれいな人ではないとは思う。けれど、春らしいミントグリーンのフレアスカートで颯爽と駅を抜けていく。癒される言葉を残して。
その姿がどこか格好よくて、素敵だと感じた。
増田君がいろいろと話しかけてくれて、楽しかった。それなのに、ここ二日間ごっち君の熱い話を聞いたあとのせいか、物足りない気がする。
それに、今日のバイトの始まる前のことも、繰り返し思い出していた。
グーパーで組が決まったとき、ごっち君が「だめかぁ」と言ったのだ。他の人には聞こえたかどうかの小声で。
もしかしてごっち君、私と一緒がよかったのかなって、幾度か考えた。
その日も終了後に、松岡さんのお店へ寄る。すでに、増田君とごっち君が待っていた。
お茶を飲みだしたところで、増田君が口を開く。
「ごっちが嶋本さんに訊きたいことがあるって」
「え、何?」
昨日一昨日と、ごっち君とはいろいろ話している。主に宇宙のことだけど。
ごっち君は言いかける。
「嶋本さん、あの……」
ぎこちなく湯呑を手にしながら、続ける。
「あの、趣味は?」
途端に増田君が大きな声を出した。
「ごっち、突然それはないだろ。それじゃ、お見合いだろう?」
増田君と由加ちゃんが揃って笑い声を上げる。
ごっち君は、頭をかいてから取り繕うように話した。
「増田が、一方的に話をしたら変だっていうから、質問してみただけだよ」
ちょうどそのとき、松岡さんが試作品のデザートを持ってきてくれた。
クルミの入った豆腐のアイスクリーム。
豆腐の滑らかな冷たさに、クルミの香ばしい匂い。甘くておいしい、とみんなで盛り上がった。