1.五月のアルバイト
「最初からこんなに違っちゃうとはね」
うつむき加減で呟くと、隣の由加ちゃんが余裕の微笑みを浮かべたように見えた。
「まだゴールデンウィークも終わったばかりじゃない。夢のキャンパスライフはこれからよ」
今年の桜の花が咲くころ、私は大学生になった。
受験生活からの解放感もあって、桜のつぼみが膨らむにつれ、大学生活への期待もふくふくと膨らんでいた、けれども。
「由加ちゃんはもう彼氏いるじゃない。羨ましい」
「たまたまだって。これからきっといい出会いがあるよ。焦らないで」
「……うん」
大学で同じ学科の由加ちゃんと仲良くなり、時々一緒に行動している。
でも、由加ちゃんは早くもテニスサークルで出会った三年生の先輩とお付き合いするようになった。
五月も半ばになり、私は由加ちゃんとは大違いのキャンパスライフになっている。
それが心に引っかかっていた。
私と由加ちゃんは、電車の車内で並んで座っている。
「私だって、まだ何回もデートしてないし」
そう話す由加ちゃんの耳に、金のイヤリングが光る。
普段使いのアクセサリーはたくさん持っていたと思うから、プレゼントしてもらったものではないはず。
それでも、言葉の方は言い訳めいて聞こえてしまう。
「いいなあ。私も恋人のいる生活がしてみたい」
吐息をこぼして、窓の外を眺める。
いつの間にか葉桜に変わっていく季節を通り過ぎ、赤紫色のつつじの花も見えなくなっていた。
二人で草川駅で降りる。
由加ちゃんに誘われて、私は一週間の短期アルバイトをすることになった。
彼女の従姉のみゆきさんが美容室を開くことになり、そのチラシを駅付近で配る仕事だ。
草川駅から歩いて二百メートルほど先には、新草川駅という地下鉄の駅もある。
「まずはこの駅で配ろうか」
みゆきさんに配布の仕方は任されたので、二人でそう決めた。チラシの入った段ボール箱を西口の隅っこに置く。
夕方五時を上回った時刻。駅の外には建物の影が長く伸びている。昼ごろは汗ばむくらいだったのに、日が傾いてきたせいか、風がやや冷たく感じた。
高架橋に電車の走行音が聞こえてきた。到着と共に駅は賑わい、人々の階段を降りてくる足音が高く響く。
自動改札機に人が押し寄せてくる。
私と由加ちゃんは、淡いオレンジ色の割引券のついたチラシを握りしめる。
駅の入り口へと抜けてくる人のなかに入って、一枚ずつ配り始める。
……あっけなくテンションが下がった。
たくさん人がいても、もらってくれるとは限らない。
「何だか効率悪いなあ」
人の波が引いたところで、由加ちゃんが気怠そうに話す。
「意外と取ってもらえないものなんだねぇ」
こちらもげんなりしていた。
少しは慣れてきたところで、同じ駅の東口に移動することにした。私はチラシ入りの大きな段ボール箱を持ち上げる。
西口より開けているし、地下鉄への乗り換えにも便利なので、人が多いのだ。
「待って。ライバルがいるよ」
由加ちゃんが途中で立ち止まった。
見ると、東口を出たところで男の人が三人、何か配っている。
明らかに同業者だ。
「やっぱり西口に戻ろうか」
「うん……」
返事をしたものの、次の瞬間、配っている男性の一人と目が合ってしまった。
慌てて箱を持ち直す。途端に、斜めになった箱のなかから、紙がばらばらっと落ちていく。
「わっ、どうしよう」
散らばったチラシを、しゃがみ込んで二人で拾う。
人の通り道でこんなことしていられない。早くしないと次の電車が来てしまう。
それなのに、小さな紙片は地面に張りついたようにうまく取れない。
やっとのことで、拾い集める。
「落ちてましたよ」
その声に振り返ると、さっきの男の人がチラシを束ねて差し出している。三十代半ばくらいで物腰の柔らかそうな人だ。
「すみません」
由加ちゃんが謝って手に取ったので、私もお辞儀をする。
「あの、これ、ここで配るんですよね?」
「はい。美容室の割引券です」
尋ねられて、由加ちゃんが答えた。私は他に落ちてないか確かめてから、箱を抱え直す。
男の人は続けて話した。
「僕たちは料理店の広告が入ったティッシュを配っているところです。怪しいお店じゃないので、協力し合いませんか」
「はあ」
ぼんやりとした返事になってしまうが、その人は一緒に配っていた他の二人を呼んでから、自己紹介をした。
「僕は松岡といいます。料理店の店主です。こちらは学生のバイトさんです」
男性二人が、並んでぺこりと頭を下げる。
そのうちの一人が爽やかな笑顔を見せて話した。
「増田です。こちらは、ごっち」
「ごっち?」
訊き返すと、由加ちゃんと声が重なってしまう。
「違います。僕は向後です」
呼ばれた男性が割って入る。厚めのレンズの眼鏡をかけていて、色白でひょろひょろした感じの人だ。
「でも、ごっちでいいよ」
増田君が親しみやすい口調で話した。由加ちゃんが問いかける。
「何でごっちなの?」
どちらかというと、がっちりした男性の方がごっちというあだ名のような気がする。それなのに、真逆のような。
「本当はこうごっちって呼んでいたんだけど、略してごっちになったんだよ」
増田君の話を聞いて、由加ちゃんは明るく声を出す。
「松岡さんに増田君にごっち君ね。私は森野といいます」
「嶋本です」
私も続けた。
結局、五人で東口に陣取ることになった。
由加ちゃんが最初ににこやかに割引券をさっと渡す。そのすぐあとに増田君がティッシュを渡す。次々と。
「これ、女性が先に渡してくれると特にうまくいくんですよ」
松岡さんが配り方まで助言してくれる。
ちょっと笑顔で、相手が取りやすいように、手のそばにしっかり持っていく。
私がごっち君と一緒にやってみても、うまくいった。もちろん、みんながみんなもらってくれるわけではないけれど、コツを掴むとずっとスムーズにいく。
いつの間にか、チラシは段ボール箱の底をついていた。
「まだこんな時間なのに終わっちゃった」
由加ちゃんが驚いたように声を上げた。
終了予定時刻の七時には、まだ二十分近く残っている。
「こっちも終了」
「終わりました」
増田君とごっち君も報告に来た。松岡さんがお礼を言ってくれる。
「助かりました。ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
私たち二人も感謝を伝えると、松岡さんが尋ねた。
「あの、そちらは今日だけなんですか」
「いえ、日曜日まで一週間です」
「実は僕たちも」
ちょうど向こうの三人も、私たちと同じく一週間この付近でチラシを配るそうだ。
不思議な偶然に、明日もここに集合しようと約束することになった。
私と由加ちゃんは、帰りに駅前のレストランで夕食をとることにした。
野菜たっぷりのグラタンを、熱さにふうふう言いながら食べて、大学の授業の話になる。
「来週の漢文の小テスト、どうしよう」
「それなら明日美先輩に去年の問題のノートを借りてるから大丈夫だと思う。見せてあげるよ」
そう話すと、由加ちゃんは手を合わせて私を拝むようにする。
「助かるよ、同じ学科の先輩と仲良くて。オリエンテーションだっけ」
「オリエンテーリングだけどね」
私の入ったサークルは、オリエンテーリングクラブ。オリエンテーションとは別物だ。
オリエンテーリングは、地図とコンパス(方位磁石)を持って、山の中を駆けるスポーツだ。思ったよりハードだけど、面白いと思っている。他大学との合同サークルなので、小さな女子大の私には、いろんな大学の人と会えるのも楽しい。
それに、同じ国文科の明日美先輩には授業のことも教えてもらえるので助かっている。
だけど、失敗したと思うのは、恋人を作るどころじゃないってこと。
第1話をお読みくださって、ありがとうございます。